第35話 聖女エマの奇跡は……。
聖女エマの奇跡は……。
スカイドラゴンを討伐した後、
剣聖フエルテやエルマノ皇子は、
スカイドラゴンの後始末や兵士たちの指揮で忙しく動いていた。
破壊されつくした街の外れにある教会に、簡易の軍医院が設けられた。
今、教会の奥にある個室の白い寝台の上には、ロドリゲスが眠っている。
その隣の椅子に、寄り添うように顔を青くしたエマの姿があった。
室内は血の匂いが広がる。
35歳の軍医ジャックが無情な宣告を口にする。
「エマ様……申し上げにくいのですが……明日までもたないでしょう」
エマの視界が揺れる。
そ、そんな……ロドリゲスが……。
◇
夜は、ひどく静かだった。
軍医院の廊下には、見張りの足音だけが響いている。
昼間の戦の喧騒が嘘のように、世界は息を潜めていた。
臨時の軍医院の部屋の中。
ロドリゲスは白い寝台に横たわったままである。
包帯は赤く滲み、胸は浅く上下を繰り返す。
今にも、止まりそうな呼吸。
医師の言葉が、何度も耳の奥で反響する。
――明日までもたないでしょう。
エマは、その大きな手を両手で包み込んでいた。
戦場で幾度も剣を振るった手。
自分を守ってくれた手。
不器用に笑ってくれた手。
「……ねえ」
声が震える。
「あなた、強いんでしょう? 大陸最強なんでしょう?」
返事はない。
ただ、かすかな呼吸音だけ。
エマの胸の奥で、何かが騒めいていた。
「……神様」
自然と、その言葉がこぼれた。
窓の外には、雲間から覗く星。
戦火に曇った空でも、星は消えない。
エマは椅子から立ち上がると、寝台の傍らで膝をついた。
両手を組む。
「どうか……お願い」
声が、掠れる。
「この人を、助けてください」
聖女としての祈りではない。
力を計算した術式でもない。
一人の女としての、ただの願い。
「復讐を終えたのに……ここで終わるなんて、あんまりよ」
涙が落ちる。
「私には……この人が必要なの」
言葉にした瞬間、胸が締め付けられた。
必要。
無言で守ってくれた強い存在。でも、
「強くなくていい。最強じゃなくていい。だから――生きて」
祈りは、部屋に吸い込まれる。
何も起きない。
沈黙。
ロドリゲスの呼吸が、さらに浅くなる。
「……いや」
エマは、顔を上げ、寝台に歩み寄る。
涙で滲む視界の向こう。
彼の胸が、止まりかける。
「だめ……!」
叫びが、夜を裂いた。
「私ができることは、なんでもします。
だから、連れていかないで!」
『其方の本来の力を解放しよう』
神々しい声が心の内側から響いた。
その瞬間。
――ふわり。
空気が、揺れた。
エマの身体が黄金の光に包まれた……。
最初は、微かな光だった。
「……え?」
次の瞬間、光は爆発するように広がった。
部屋いっぱいに、黄金の輝きが満ちる。
眩い。
けれど、熱くない。
柔らかく、包み込むような光。
風もないのに、カーテンが揺れる。
天井も、壁も、すべてが金色に染まる。
エマは息を呑んだ。
「……奇跡……?」
それは、今までの付与魔法の光ではない。
エマの心の奥底から溢れる魔力。
何かが弾け、飛び放たれた感触。
光は、ロドリゲスの身体へと集まっていく。
包帯の下で、傷口が淡く輝いた。
血の匂いをさせていた裂傷が、静かに閉じていく。
砕けた肋骨が、あるべき形に戻る。
貫かれた脇腹が、滑らかな皮膚を取り戻す。
部屋の中を充満していた血の匂いが、徐々に薄れていく。
そして、ロドリゲスの呼吸が、深くなる。
「……うそ……」
エマの頬を、涙が伝う。
黄金の光は、まるで祝福のように彼を包み込む。
その中心で、ロドリゲスの眉が、わずかに動いた。
「……あ?」
低い声。
エマはロドリゲスを見つめたままである。
ゆっくりと、彼のまぶたが開く。
焦点の合わない瞳が、やがてエマを捉えた。
「……泣いてんのか」
かすれた声だった。
だが、それでも確かに生きている声。
エマは言葉を失った。
「……俺、死んだのか?」
「馬鹿……!」
涙と笑いが一緒に溢れる。
「死ぬわけないでしょう!」
ロドリゲスはゆっくりと身体を起こす。
包帯がほどけ落ち、その下には傷一つない肌。
「……なんだ、これ」
ロドリゲスは驚きの声を挙げる。
そして、拳を握る。
「……軽い」
身体が、驚くほど軽い。
エマは震える声で言った。
「神様が……助けてくれたのよ」
「神様ぁ?」
ロドリゲスは眉をひそめる。
「そんなもん、俺は信じちゃいねぇ」
「でも……」
エマは、彼の胸に手を当てた。
力強い鼓動。
確かな命。
「私は、信じるわ」
涙で濡れた笑顔。
「だって、声が聞こえたもの」
ロドリゲスは、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言う。
「……お前が呼び戻したんだろ」
「え?」
「神様でもなんでもいい」
照れ隠しのように視線を逸らす。
「俺を生かしたのは、お前だ」
エマの胸が、熱くなる。
部屋の中に満ちていた黄金の光は、すでに消えていた。
まるで役目を終えたかのように。
静寂が戻る。
けれど、それは先ほどまでの死の静けさではない。
生の気配に満ちた静けさ。
ロドリゲスは立ち上がった。
しっかりと、大地を踏みしめる。
「……まだやることがある」
窓の外、夜明けが近づいている。
東の空が、わずかに白む。
「復讐を終えたら、エマに伝えたいことがあった」
ロドリゲスはエマを見つめながら言った。
「ずっと言えなくて我慢していた言葉だ」
「なにかしら」
エマはロドリゲスの言葉を待つ。
「一目会った時から、エマが好きだった」
エマは瞳を揺らしながら口元を緩める。
「偶然ね、わたしもよ」
二人はそっと距離を縮める。
そして、優しく抱きしめあう。
それからエマは顔を上げた。ロドリゲスと視線があう。
静かにエマは瞳を閉じ、そして、ロドリゲスはエマに優しく口付けを落とすのであった。
二人の影が重なりあう。
そんな夜だった。
◇
朝。
軍医院の扉が、ぎい、と静かに開いた。
「エマ様、容体は――」
入ってきたのは軍医ジャックだった。
昨夜の診断を思えば、彼の表情は沈痛そのものだった。
だが。
白い寝台の前で、彼は凍りつく。
「……は?」
そこにいたのは、上体を起こし、包帯の取れた身体を確かめるロドリゲス。
そして、その隣で穏やかに微笑むエマの姿だった。
「おはようございます、ジャック先生」
エマが頭を下げる。
ジャックは震える手で眼鏡を押し上げた。
「ば、馬鹿な……。確かに昨夜、私は……。
肋骨は粉砕、内臓損傷、出血多量……医学的に説明が……」
彼はロドリゲスの胸に手を当てる。鼓動は力強く、呼吸も安定している。傷跡ひとつない。
「……神の御業か」
ぽつりと呟いた。
ロドリゲスは肩をすくめる。
「さあな。俺は寝てただけだ」
「寝てただけ、で済ませないでください!」
ジャックは思わず声を荒げ、それから深く頭を下げた。
「……ご無事で、本当に良かった」
その言葉に、エマは小さく頷いた。
◇
やがて二人は軍医院を出る。
朝の光に照らされた野営地は、慌ただしく動いていた。
負傷兵の手当て、装備の修繕、物資の整理。
そこへ現れたロドリゲスの姿に、兵士たちがざわめく。
「……え?」
「ロ、ロドリゲス様……?」
「昨日、死にかけてたんじゃ……」
噂は一瞬で広がった。
その騒ぎを聞きつけ、まず姿を現したのは剣聖フエルテだった。
驚いた顔をして、ロドリゲスに駆け寄ってきた。
「……し、師匠、ケガ、大丈夫なのですか!」
「あれしきの傷、一晩寝れば治るわ」
ロドリゲスは鼻で笑う。
フエルテは近づき、肩を掴んだ。力を込める。
だがロドリゲスはびくともしない。
「……本当に治ったのですね」
剣聖の口元が、わずかに緩む。
「さすが、師匠です」
「まあ、心配かけたな」
二人の間に、子弟だけが分かる静かな信頼が流れる。
そこへ、銀髪に筋肉で肉体が爆発しているエルマノ皇子が現れた。
「ロドリゲス……」
普段は威厳を崩さぬ皇子が、はっきりと安堵の色を浮かべている。
「奇跡、と聞いたが」
エルマノ皇子の視線がエマに向く。
エマは少し照れたように微笑む。
「……願っただけです」
エルマノは静かに頷いた。
「ならば、その願いに応えたのは天か、それとも運命か」
そして、ロドリゲスを見る。
「だが、生きているのは事実だ。よく戻ってきた」
ロドリゲスは肩を回しながら言った。
「まだ、王都に仕事が残っているからな」
その瞳は、以前よりもさらに強い光を宿していた。
兵士たちの間から、歓声が上がる。
「ロドリゲス様が復活したぞ!」
「これで百人力だ!」
士気が、一気に跳ね上がる。
フエルテは小さく笑った。
「さすが、師匠です」
「まあ、俺には女神さまがついているからな」
ロドリゲスはエマを横目で見る。
「最高の女神がな」
エマはそっと彼の手を握った。
朝日が二人を照らす。
◇
やがて、出陣の号令が響く。
角笛の音が、澄んだ空気を震わせる。
兵士たちが整列し、旗が翻る。
スカイドラゴンを討ち取った軍は、次なる目的地――王都へ向けて動き出すのだ。
エルマノ皇子が高らかに告げる。
「これより王都へ進軍する! 我らの戦いはこれからだ!」
「おおおおおっ!」
地鳴りのような鬨の声。
ロドリゲスとエマは馬に跨がる。
身体は軽い。力は満ちている。
だが、それ以上に胸の奥にあるのは――守るべきものの存在だった。
「行くぞ」
隣でエマが頷く。
「ええ」
朝日が昇る。
黄金の光が大地を染める。
それは昨夜の奇跡の残光のようでもあった。
絶望を越え、生きて戻った男。
その隣に立つ聖女。
軍は王都へと進み始める。
新たな決着の地へ向かって。




