閑話9 アンネット視点 母アンネット側妃の過去【今回は怖いシーンがあります】
アンネット視点 Σ(゜Д゜)【怖いシーンがあるので、苦手な人は読まないでください】
――愛が砕けた、その夜から
最初に壊れたのは、愛だった。
音もなく。
悲鳴もなく。
ただ、何かが――すとん、と底へ落ちて砕けた。
父ニオール伯爵が、その話を切り出したのは、桜の花びらが散った、18歳の春の終わりだった。
ランチを食べ終えた後、父の執務室に呼び出され、戸惑いの中で話を聞いた。
「カストル子爵家との婚約は、解消となった」
感情のない無機質な話し方だった。
書斎の窓から差し込む光が、机の上の書類を白く照らしている。
「……なぜ、ですか」
あまりの出来事に動揺し、自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
父の言葉が頭の中を通り抜け、すぐには、意味が理解できなかった。
半年後に、結婚式が行われる予定なのだ。
それが突然の婚約解消とは……なぜ?
アンネットは、幼い頃に婚約した。
アンソニー=カストル20歳、子爵家の令息である。
貴族としては珍しいほど、穏やかで誠実な人だ。
家格は高くない子爵家。
だが、商売が上手な家で、ニオール伯爵家よりも裕福だった。
政争よりも人材を大切にする、そんな家柄だ。
(この人となら、幸せに穏やかに生きていける)
アンネットは、アンソニーの中に安らぎを感じていた。
幼少期から二人は定期的に交流し、学院生活をする頃には、二人の心の距離は愛へと変わっていた。
わたしはこの人の妻になるのだ。
そんな穏やかな未来を楽しみにしていた。
「理由は一つだ」
父はアンネットをじっと見つめながら、
淡々とした言葉で続けた。
「お前が、王の側室候補に選ばれたからだ」
一瞬、意味が理解できなかった。
「……側室、候補?」
「光栄なことだ。伯爵家の娘として、これ以上はない」
当然、アンネットは、戸惑った。
意味がわからず、ただ、口元が震えるだけだった。
「……わたしは、婚約しています」
「して“いた”だ」
父は、冷たく言い切る。
「王宮に上がるには、婚約者は不要だ」
その言葉で、すべてを理解した。
父はわたしを王家に売ろうとしているのだ。
カストル子爵家ではなく、王家に。
家の借金。
王家との縁。
政治的な打算。
すべてを天秤にかけた結果、
アンネットという娘を差し出そうとしていた。
「嫌です」
ようやく、そう言えた。
「わたしは、あの方と……」
ぱん、と乾いた音。
父の手が、頬を打った。
「身の程を知れ」
恐ろしく低い声。
「伯爵家の娘として生まれた以上、
お前の人生は、お前のものではない」
アンネットは、床に落とした視線の先で、
自分の手が震えているのを見た。
体が震えている。
そして、それ以上に心も。
「……どうしても嫌だと申したら?」
「分かっているだろう」
父は、ゆっくりと無慈悲に告げた。
「お前が拒めば、カストル家に未来はない。
商いの許可、王都での地位、そして、命もな……」
その言葉だけで、十分だった。
――潰される。
その一言が、すべてを物語っていた。
◇
翌日の夜。
アンネットは、婚約者アンソニー=カストルと伯爵家の裏庭でお忍びに会った。
「一緒に逃げよう。隣国スペイラ帝国に行けば、なんとかなる」
アンソニーの言葉にアンネットは首を左右に振る。
「逃げてどうするの?」
「もう貴族ではいられない。
でも、平民になっても、君と一緒なら僕は生きていける」
アンネットはその言葉に心から喜びを感じた。
アンソニーと一緒になれるのなら、貴族でなくてもいい。
「わかりました。あなたについて行きます」
アンネットは同時に恐ろしくもあった。
あの父にバレたら大変だと。
だが、父から離れ、彼と新しい未来を思うと、自然と心が軽くなるのだった。
◇
3日後の昼下がり。
しかし、待ち合わせの公園広場前に、
約束の時間になっても、彼は現れなかった。
彼に裏切られたと思うよりも、彼の身に何かあったのかと心配になった。
アンネットは悲しみと不安の中、伯爵家に戻った。
その夜、父が「お前に見せたいものがある」と告げた。
そして、馬車に乗せられ、街はずれの倉庫に連れていかれた。
倉庫の前で馬車が止まると、父は「入口を開けろ」と命じた。
そして、開かれた倉庫の中央に人が倒れているのが見えた。
入口を開けた男が、松明で倉庫を照らす。
アンネットは体が震えた。
そこでアンネットが見たのは、アンソニー=カストルの遺体だった。
血まみれになり、倉庫の中央に倒れていたアンソニー。
馬車から飛び出そうとしたアンネットを止めたのは、護衛たちだった。
「いや、離して、アンソニーのところに行くの」
「もう遅い、死んでる。馬鹿な男だ。
伯爵家に逆らうからこうなるのだ」
父の吐き捨てるような言葉を聞きながら、アンネットの心が揺れ動いた。
「まだ逆らうのなら、カストル家全員が死ぬことになるぞ」
父の脅しに、アンネットは体から力が抜けた。
もう抵抗する力を失っていた。
すべてを諦めた。
怒りも、悲しみも、
すでに胸の奥にゆっくりと溶けていった。
「国王様の側妃になるのだ」
止めどなく涙が溢れた。
わたしのせいだ。わたしのせいでアンソニーが死んだ……
ごめんなさい、アンソニー。わたしのせいで痛い思いをして。
苦しい思いをして。すべてわたしのせいだ……
彼のいない人生なんて、もう、どうでもいい。
アンソニーとの愛も。
アンソニーとの明るい未来も。
アンソニーとの幸せな生活も。
全部……消えた!!
◇
王城に入った日のことを、アンネットはぼんやりと覚えている。
煌びやかな回廊。
絹のドレス。
称賛の視線。
そして、若き王――アルベルト=フランセ。
誠実そうな瞳。
まだ、王冠の重みに慣れていない顔。
(アンソニーが死んだのは、この人の……せいだ!)
そう感じた。
そうとしか思えなかった。
侍女から渡された媚薬入りの小瓶を見ても、
心は動かなかった。
心底、どうでも良かった。
「疲労を和らげる薬草酒でございます」
侍女から、そう説明された時、
これから起きることを理解していた。
(ああ……もうどうでもよくなった)
夜。
王の私室。
拒まれる可能性は、あった。
だが、それすらどうでもよかった。
もし、追い返されれば――
父の元へ戻されるだけだ。
アンソニーを殺したのは、わたしだ。
わたしが彼と駆け落ちしようとしなければ、彼は死なずに済んだ……
わたしのせいだ。
すべてはわたしが悪いのだ……
……もう何もかも、自分自身までも壊したくなった。
(アンソニーがいない人生など意味がないのだから)
自分の人生を、
自分の手で終わらせればいい。
深夜。
好きでもない男に抱かれながら、天井をぼんやりと眺めていた。
ただ、獣に襲われている自分を感じて嫌悪感しかなかった。
そして、心のどこかで、アンソニーを死に追いやった元凶である、
自分自身に、そして、父と、この無能な国王に殺意を抱いた。
朝、目覚めた王が嬉しそうにこちらを見る姿に、
アンネットは、初めて確信した。
お前のせいだ! お前のせいでアンソニーが死んだ!
お前を殺してやる! こんな国、滅んでしまえ!
愛を失った女の心に残されたものは、この国への復讐だけだった。
「……陛下、責任をとってくださいね」
その笑みは、嘘の始まりだった。
恨みは、すでにメラメラと燃え始めていたのだ。
悲しみと苦しみとアンソニーへの罪悪感という燃料が追加されて……
「……私は陛下をお慕いしていますわ」
◇
後日、正式に側妃となった時、
アンネットはにこやかな笑みとは裏腹に、その心は、怒りで燃えていた。
復讐という名の黒炎に包まれて。
そして、誓った。
この国を滅ぼすと。
それがわたしができるアンソニーへの贖罪なのだ!
その後、子を産むことで、王家での地位を固め、
自分の分身が王家の一員になる。
フェリップとマリーナが生まれた時、
彼女は、計画の準備ができたと、優しく微笑んだ。
自分の血筋たちの手によって王国が滅びるのは、
陛下、そして、父上にとって最高の物語ではありませんか?
だから、子供たちに教えた。
「あなたたち王族は偉いのです。何をしても許されます」
それが、
アンネットがこの国を滅ぼすために教えた、
最初の第一歩だった。
――砕けたのは、愛だけではない。
砕けたのは、
あの夜、すべてがどうでもよくなった
ひとりの少女の心だった。




