第16話 エマ、皇女ペネロペの再来店
エマ。皇女ペネロペの再来店
王城の裏門を抜けた瞬間、馬車の扉が重く閉じられた。
外界のざわめきが遮断され、車内には、蹄の音と車輪の軋む低い響きだけが残る。
沈黙。
それは、あまりにも張りつめた沈黙だった。
ペネロペ=スペイラは、背筋を伸ばしたまま、微動だにせず座っていた。
淡い色のドレスに、乱れはない。
髪も、扇子も、舞踏会場を去ったときのままだ。
まるで――まだ、あの場に立っているかのように。
「…………」
拳が、ゆっくりと握りしめられる。
白い手袋の下で、爪が掌に食い込んだ。
「……フェリップ様は最悪ですわ」
声は低く、静かだった。
感情を押し殺した、皇女の声。
「……この国にもう、いたくありません、ですわ」
向かいに座る紫髪に茶の瞳の22歳の侍女メアリーが、そっと視線を上げる。
「ペネロペ様……」
「妹を守るためって、浮気しておいてありえないのですわ」
ふっと、息を吐く。
「浮気相手を連れてきて、婚約者を断罪する。
あれが“守る”ということなのかしら?」
言葉の端が、わずかに震えた。
「……わたくし、何か、間違ったことを言いました、ですわ?」
問いかけるような声音だった。
だが、それは答えを求めるものではない。
「宝石の価値を語ることは、社交の場では当然のこと。
事実を述べただけですわ」
視線が、宙を彷徨っていた。
「それとも……皇女であるわたくしが、
王女殿下より上等な宝石を身につけていたこと自体が、罪とでもいうの。ですわ?」
「……」
メアリーは、何も言わなかった。
言えなかった。
ペネロペの声は、怒りよりも先に――屈辱を孕んでいたからだ。
「帝国の皇女として、
王国との関係を考え、言葉を選び、笑顔を作って……ですわ」
小さく、笑った。
それは、舞踏会で見せたものとはまるで違う、乾いた笑みだった。
「その結果が、あれですわ」
沈黙が落ちた。
馬車が石畳を越え、わずかに揺れた。
その揺れに合わせて、ペネロペの肩が、ほんの一瞬だけ上下した。
「……最低ですわ」
ぽつりと、落ちた言葉。
皇女としてではない、少女の本音。
「浮気をしておいて、正義の顔をして……
公衆の面前で、婚約破棄ですって、バカげているですわ」
声が、少しだけ高くなった。
「外交が、どれほどのものかも理解せず……
帝国を、わたくしを……何だと思っているのですわ」
そこで、言葉が止まった。
喉の奥で、何かが詰まる。
ペネロペは、一度、大きく息を吸った。
吸って、吐いて。
自分を保とうとするように。
「……泣くわけには、いきません、ですわ」
静かな告白。
「あの場で泣いたら、
“帝国の皇女は弱い”と謗られ、プライドを失うところでしたわ」
指先が、膝の上で小さく震える。
「ですから……笑いましたの、ですわ」
視線を伏せたまま、続ける。
「扇子で口元を隠して。
余裕のあるふりをして……ですわ」
沈黙。
やがて、メアリーが、静かに口を開いた。
「……ぺネロペ様は、十分に立派でございました」
その言葉に、ペネロペは何も返さなかった。
ただ、しばらくして――
「……そう、わたくし立派、ですわ」
かすれた声。
「それは……“皇女として”ですわ」
問いではない。
確認でもない。
事実を噛みしめるための、独り言。
馬車の窓に映る自分の顔を、ペネロペは見つめた。
銀色の髪に整った顔立ち。
誇り高い皇女の表情。
だが、その奥で。
「……わたくしは」
小さく、息を吐く。
「……婚約に憧れをみていたの、ですわ」
その瞬間。
ぽたり、と
膝の上に、一粒の雫が落ちた。
それが涙だと気づいたとき、ペネロペは慌てて手で拭った。
「……失礼ですわ」
そう言って、顔を背ける。
声は、もう震えていなかった。
だが――それ以上、言葉は続かなかった。
馬車は、静かに走り続ける。
◇
数日後、馬車は関所を越え、スペイラ帝国領に入った。
それからサンジャンの町に入り、商業通りへと向かう。
やがて、その歩みをゆっくりと緩めていった。
そして、目的地で――静かに停止した。
赤レンガの外壁のお店。
フランセ王国に行くときに立ち寄った店だ。
「ペネロペ様、エマ様のお店でございますわ」
メアリーが優しく言葉を掛けた。
「帝都へ戻る前に、少しお立ち寄りになるとよろしいかと」
ペネロペは一瞬、迷うように唇を噛んだが――
「……入りたいですわ」
小さく、そう言った。
ペネロペは、深く息を吸い、背筋を伸ばした。
再び、仮面をかぶる準備をするように。
「……行くですわ」
その声は、もう皇女のものだった。
だが、その胸の奥で。
たった一人の少女が、静かに震えていることを――
まだ、誰も知らない。
◇
店の中は、静かだった。
客はすでに引き上げ、灯りだけが残されている。
カウンターの向こうから、エマが顔を上げた。
「……皇女殿下?」
一瞬の驚き。
だが、すぐにそれは消えた。
代わりに浮かんだのは、戸惑いと――心配。
「どうかなさいましたか」
その問いかけが、あまりにも普通で。
過剰な敬意も、遠慮もない。
ペネロペの喉が、きゅっと鳴った。
「少し……お時間を、いただけますかしら」
かろうじて、笑みを作る。
「もちろんです」
エマはすぐにうなずいた。
「今日はこのまま閉店にします」
そう告げると、周囲に指示を出し、静かに店を閉めていく。
その一連の動作を、ペネロペはぼんやりと見つめていた。
――誰も、理由を聞かない。
――皇女だからの対応なのだろう。
その事実が、胸に重く落ちる。
「こちらへどうぞ」
応接室に通され、椅子を勧められる。
ペネロペとメアリーは、ゆっくりと腰を下ろした。
部屋の出入り口でロドリゲスが立って様子を見守っている。
ペネロペの足が、少しだけ震えていた。
それを、エマは見逃さなかった。
「……お茶を」
そう言って席を外そうとした、そのとき。
「――待ってですわ」
ペネロペの声が、思ったよりも強く響いた。
自分でも驚き、すぐに口を押さえる。
「……すみません。
行かないでほしくて……ですわ」
沈黙。
エマは、何も言わず、再び向かいの席に座った。
「……わたくし」
ペネロペは、膝の上で手を組んだ。
「先日……婚約を、破棄されましたのですわ」
事実を、口に出した瞬間。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
「それも……舞踏会中に公衆の面前でですわ」
声が、少しずつ揺れる。
「相手は、帝国の皇女ですのよ。
外交の重みも、責任も……すべて、承知しているはずの方が……ですわ」
言葉が、続かない。
息が、浅くなる。
「こんな話……笑えますかしら」
自嘲気味に、唇を歪める。
「扇子で口元を隠して、余裕のあるふりをして……
“光栄ですわ”なんて言い返した、ですわ」
そこで、ついに。
声が、途切れた。
「……本当は」
ぽろり、と涙が落ちる。
「……恥ずかしくて、悔しくて……ですわ」
二粒、三粒。
止まらない。
「どうして……わたくしが、こんな目に……」
肩が、震え始める。
呼吸が、乱れる。
「わたくし……皇女として、ちゃんとしてきたつもりでしたのに……!」
声が、裏返った。
「間違ったことなんて……していないのに……!」
涙が、頬を伝い、とめどなく落ちる。
扇子も、誇りも、仮面も。
すべてが、床に崩れ落ちた。
エマは、黙って立ち上がった。
そして、ペネロペの前に立つ。
「……皇女様、失礼します」
そう言って。
そっと、その身体を抱きしめた。
強くはない。
だが、逃がさない腕。
「……お辛かったでしょう」
低く、温かな声。
「まだ……こんなにお若いのに」
その一言で。
ペネロペの中の、最後の堤防が決壊した。
「――ひどいですわ……!」
嗚咽が、部屋に響く。
「フェリップ様……ひどい……っ!」
子どものように、泣きじゃくる。
エマの胸元に顔を埋め、すがりつく。
「婚約破棄なんて……それに……浮気男だったなんて……最低……!」
言葉は、もはや整っていない。
ただ、感情が溢れ出るだけ。
エマは、何も言わず、ただ抱きしめ続けた。
背中を撫で、髪を撫で。
泣き声が、次第に小さくなるまで。
ペネロペは、その腕の中で。
初めて、皇女ではなく――
ただの、傷ついた少女として、泣いた。




