第10話 エマ、アメジストと添い寝する
エマ、アメジストと添い寝をする
「……エマ」
夕暮れの光が差し込む応接間で、ディアスは一瞬、言葉を選んでから口を開いた。
「もし可能なら――しばらく、この屋敷に滞在してもらえないだろうか」
その声には、伯爵としての命令口調は一切なかった。
ただ、アメジストの父としての切実さがにじんでいる。
エマは腕の中のアメジストを見下ろす。
小さな指が、まだ彼女の服をつかんだままだった。
「……もう遅いので、今夜は泊めさせてもらいます」
そう答えると、ディアスの表情がわずかに緩んだ。
「でも、明日には街へ戻らなければ。仕事がありますから」
アメジストはその会話の意味を理解していない。
ただ、エマの胸に頬を寄せて、安心したように小さく息を吐いている。
それだけで、胸がきゅっとなる。
◇ ◇ ◇
夕食は、三人でとった。
大きな食卓に並ぶのは、家庭的な料理ばかりだった。
豪奢ではないが、丁寧に作られた温かい食事。
「まま、これ、すき」
アメジストは、スープの入った匙をエマに差し出す。
「ありがとう」
自然に微笑み、受け取ってしまう自分に、エマは内心で驚いていた。
まるで、ずっと前からこうしていたかのように、違和感がなかった。
ディアスは、その様子を静かに見守っていた。
声を挟むこともなく、ただ、確かめるように。
食後しばらくして、アメジストは小さな本を抱えてエマのもとへ来た。
「まま、よんで」
アメジストの寝室に移ると、そこには肖像画が置かれていた。
女性はアメジストと同じ桃色の髪に紫水晶の瞳を持ち、エマによく似ている。
これならばアメジストがエマを母親と間違えたのも納得できる。
そして、エマはアメジストを膝の上に乗せて、ベッドに腰かけ、本を開く。
絵本のページをめくるたび、アメジストの瞳がきらきらと輝いた。
「……むかしむかし、あるところに――」
声に出して読む。
ゆっくり、優しく、時に高揚をつけながら楽しく。
アメジストはエマの腕に身体を預け、次第にまぶたが重くなっていく。
桃色の髪。
紫水晶の瞳。
――どうして、こんなにも似ているのだろう。
他人の子だと、わかっている。
それでも、胸の奥で何かが強く訴えてくる。
すごく……可愛い。
理屈では止められない感情だった。
「……おやすみ」
そっと声をかけると、アメジストは小さくうなずき、そのまま眠りに落ちた。
寝顔を見つめながら、エマはしばらく立ち上がれずにいた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
朝食を終え、エマは身支度を整える。
「そろそろ……行きますね」
そう告げた瞬間だった。
「……っ」
アメジストの表情が、見る見るうちに歪む。
「ま……まま……?」
次の瞬間、大きな声で泣き出した。
「いや! いかないで!」
小さな手が、エマの服の裾をぎゅっと握る。
必死で、離すまいとするように。
「……」
エマはしゃがみ込み、その目線に合わせる。
胸が、痛いほど締めつけられた。
「……わかったわ」
自分でも驚くほど、迷いのない声だった。
「一緒にいましょう」
アメジストは涙を浮かべたまま、こくりとうなずく。
「……ほんと?」
「ええ。行かないわよ」
その言葉に、泣き声は止まり、ぎゅっと抱きついてくる。
ディアスは何も言わなかった。
だが、その沈黙には、感謝と遠慮が混じっていた。
◇ ◇ ◇
昼食を終える頃、アメジストはすっかり疲れてしまい、ソファで眠り始めた。
すやすやと、穏やかな寝息。
エマは、その姿をしばらく見つめてから、そっと立ち上がる。
「……今度こそ、行きます」
声を潜めて告げると、ディアスは静かにうなずいた。
「ありがとう、エマ。また娘に会いに来て欲しい」
それ以上、引き留める言葉はなかった。
屋敷を出る直前、エマは一度だけ振り返る。
眠るアメジスト。
小さな胸の上下。
胸の奥に、ぽっかりと空いた穴を感じながら、それでも歩き出す。
私がいるべき場所は、ここではない。
自分の居場所は、街にある。
――それでも。
あの小さな手の温もりは、きっと、これからも忘れられない。
聖女エマは、そうして屋敷を後にした。
胸に、名もない痛みと、迷いを抱えたまま。




