第9話 エマ、元婚約者の娘アメジストに会う
ディアスの屋敷にて
ディアス=ランス伯爵の住まいは、街を見下ろす白銀の城であった。
過度な華美はなく、国境沿いの城らしい防御を中心にした城である。
その佇まいは、主であるディアスの性格をそのまま映したようだった。
「こちらだ」
案内され、エマは静かな中庭を抜け、屋敷の奥へと足を運ぶ。
胸の奥に、言葉にできないざわめきがあった。
――この先に、あの人の娘がいる。
元婚約者の子。
王命によって引き裂かれた未来の、もしも、の続き。
扉が開かれる。
「アメジスト。お客人だ」
柔らかな声でディアスが呼びかけると、部屋の奥で小さな影が動いた。
次の瞬間、エマは息を呑んだ。
桃色の、ふわりとした髪。
光を受けて淡くきらめく、紫水晶のような瞳。
――あまりにも、似ていた。
それは、誰かに似ている、という曖昧な感覚ではない。
まるで鏡映しの未来を見せられたかのような、胸を突く既視感。
「……」
エマは、言葉を失ったまま、その小さな少女を見つめる。
二歳ほどだろうか。
小さな手でぬいぐるみを抱え、不安そうに父の影に半身を隠していた。
「アメジスト。こちらが、エマだ」
その名を聞いた瞬間だった。
「……まま?」
小さな声。
だが、はっきりとそう聞こえた。
「……え?」
エマが戸惑い、視線を落とした次の瞬間。
「ままぁ!」
アメジストは、ぬいぐるみを落とし、よちよちとした足取りで駆け出した。
「まま、あいたかった!」
勢いそのまま、エマの腰にぎゅっと抱きつく。
細い腕。
温かい体温。
小さな指が、エマの服を必死につかんでいた。
「……っ」
息が詰まる。
「まま、いなくなっちゃったの。さびしかったの」
つたない言葉。
だが、その一つ一つが、胸の奥に直接触れてくる。
ディアスが慌てて口を開く。
「す、すまない。まだ言葉がはっきりせず……名前を聞き違えたのだろう」
だが、エマは返事ができなかった。
腕の中の温もりが、あまりにも自然だったからだ。
拒む理由が、どこにもなかった。
エマは、そっと膝を折り、アメジストの背中に手を回す。
「……大丈夫よ」
自分でも驚くほど、優しい声が出た。
「ここにいるわ」
ぎゅっと、抱きしめる。
小さな身体が、安心したように力を抜いた。
「ままぁ……」
その声に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
――かわいい。
理屈ではない。
考えるよりも先に、感情が溢れていた。
アメジストの桃色の髪を撫でながら、エマは思う。
もしも。
もし、あのとき王命がなかったなら。
もし、ディアスと別れずにいたなら。
――この子は、自分の腕の中にいたのではないか。
その考えに、胸がきゅうっと締めつけられる。
だが、不思議と後悔よりも、温かさが勝っていた。
「……抱っこしていいかな?」
エマは、優しく微笑みながら、両腕でアメジストをそっと抱き上げた。
「かわいい……」
ディアスは、その光景を、言葉もなく見つめていた。
聖女としてではない。
付与の奇跡を起こす存在としてでもない。
ただ、妻によく似ているエマが、母親によく似ている娘を抱いている姿。
その姿に、今は亡き妻マーガレットの面影を感じて、胸の奥が静かに震えた。
「……ありがとう、エマ」
低く、かすれた声。
「この子は、ずっと、ぬくもりが欲しがっていたのかもしれない
……だが、今」
アメジストは、エマの胸に頬をすり寄せ、安心しきった顔で目を閉じている。
「まま……いい、においがする……」
その一言で、何かが決定的に崩れた。
エマの胸に、確かな母性が芽生える。
それは領地経営をするとも、パワーストーンのお店を開くのとも違う、もっと原始的で、抗えない感情だった。
――この子に寂しい思いをさせたくない。
理由はいらない。
名前を呼ばれただけで、抱きしめただけで、もう十分だった。
エマは、アメジストを胸に抱いたまま、静かに目を閉じる。
過去は変えられない。
だが、今、この腕の中にある温もりは、確かに現実だ。
聖女エマの人生は、ここでまた一つ、別の意味を帯び始めていた。
それがどれほど大きな波紋を呼ぶのかを、まだ誰も知らないまま――。




