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結婚して3年経っても子供ができないという理由で離縁されたエマは、前世の記憶を思い出して幸せになる。周りが勝手に復讐してくれました。  作者: 山田 バルス


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第1話 エマ、旅立ちの始まり

エマ、旅立ちの始まり




 結婚三年目の春だった。


 午後の光が、モナコラ伯爵邸の居間にやわらかく差し込んでいる。

 大きな窓から入る陽射しは、まだ冷えの残る空気を淡く温め、磨き上げられた床にレースのカーテンの影を細やかに揺らしていた。


 桃色の髪に紫水晶のような瞳を持つエマ=モナコラは、いつものように紅茶を用意していた。

 香り高い茶葉を選び、湯の温度にも気を配る。

 こうした小さな気遣いこそが、伯爵家の奥方としての務めだと、彼女は信じて疑わなかった。


 二十五歳。

 モナコラ伯爵家の正妻として迎えられてから、三年。


 向かいに座るのは、夫であるアンドレオ=モナコラ。

 茶髪に蒼い瞳を持つ二十七歳のモナコラ伯爵だ。

 その横顔は整っているが、今日に限ってはどこか硬く、視線もエマを避けるように窓の外へと流れていた。


 ――何かある。


 そう気づいたのは、妻として過ごした三年の積み重ねゆえだった。


 カップが置かれる音が、妙に大きく響いた。


「……話がある」


 短い一言。

 それだけで、胸の奥がひやりと冷えた。


 エマは背筋を伸ばし、静かにうなずいた。


「両親から言われたんだ」


 アンドレオは一度、言葉を切った。

 まるで、続きを口にするための勇気を探すかのように。


「――側室を迎えろ、と」


 あまりにも淡々とした声だった。

 天候の話でも、領地の収支でも語るような調子で。


 エマはすぐに意味を理解できなかった。

 側室。

 それは、この国において「家を存続させるための女」だ。


 喉の奥が、きゅっと締め付けられる。


「……私では、足りないと?」


 声が震えないように、精一杯気をつけた。

 だが、自分でもわかるほど、その声は弱々しかった。


「いや、そういう問題じゃない」


 即座に返ってきた言葉は、あまりにも冷静で、だからこそ残酷だった。


「伯爵家には跡継ぎが必要だ。三年経っても子ができない以上……」


 その先は、言葉にされなくても理解できた。

 責められているのは、事実そのものではない。

 ――存在そのものだ。


 エマは、ゆっくりと紅茶のカップを置いた。

 白磁の縁に触れた指先が、かすかに震えている。


「私は……奥方として、失格なのですね」


 問いというより、確認だった。


 アンドレオは答えなかった。

 視線を落とし、沈黙を選んだ。


 それが、答えだった。


 ◇


 数日後、エマに突きつけられたのは離縁状だった。


 理由は簡潔で、冷たかった。

 ――「世継ぎをなせなかったため」。


 そこには、ここまで彼女が尽くした領地経営としての手腕。

 赤字だった財政を黒字にした三年の年月は、まったく評価されなかったのだ。

 ただ、三年間で子を為せなかったというだけの理由で……彼女の活躍は、ないものにされた。


 屋敷を去る前日、エマは最後にアンドレオと向かい合った。


「……当座の資金を、少しで構いません。旅の路銀として」


 頭を下げたエマに対し、アンドレオは帳簿を閉じ、疲れたように息を吐いた。


「財政は、まだまだ厳しい」


 それだけ告げて、差し出されたのは小さな革袋だった。


「十ゴルドだ。……それ以上は出せない」


 かつて伯爵家の無駄を削ぎ落とし、立て直した張本人に向けられる金額としては、あまりにも少ない。

 だが、エマは何も言わず、静かに受け取った。


「……ありがとうございます」


 そして、少しだけ言葉を選び、続けた。


「ひとつ、お願いがございます。この領地にいた思い出として……鉱石を、少し持っていってもよろしいでしょうか」


 モナコラ領は鉱山を抱えている。

 領の財政を支えてきた、貴重な資源だ。


 アンドレオは一瞬、意外そうに目を瞬かせたが、すぐに興味を失ったように肩をすくめた。


「好きにするといい。あなたが自分で運べる量なら、自由に持っていくがいい」


 その言葉に、エマは深く一礼した。


 翌朝。

 荷物は最低限にまとめられていた。

 衣装箱と、わずかな私物だけ。


 エマは屋敷の奥、鉱石が保管されている倉庫へと向かった。

 薄暗い倉庫の中には、採掘されたばかりの原石が木箱に収められて並んでいる。


 彼女はその中から、ひとつの鉱石を手に取った。

 拳より一回り大きく、ずしりと重い。

 光を受けると、内部に淡い緑色の輝きを宿していた。


「……これノンオイルね、これがいいわ」


 それは、かつて領の特産品として装飾品を考案したとき、何度も手に取った種類の鉱石だった。


 エマはそれを、静かに荷物入れへとしまった。


 使用人たちは、訴えるように引き留めようとしてくれた。

「奥様がいなくなったら伯爵家は大変なことに」

「奥様が来られる前に戻ってしまったら……」


 彼らにとって、エマの働きは英雄のように映っていたのだろう。


 屋敷の門を出るとき、エマは一度だけ振り返った。


 三年間、妻として生きた場所。

 領地経営に無知なアンドレオを助けるために結ばれた結婚だったが、やりすぎてしまったのかもしれない。

 伯爵家の贅沢を抑え、領民と向き合い、鉱石を活かした装飾品を生み出した日々。


 それらすべての活躍は――「無価値だった」と、切り捨てられた。


 馬車が動き出す。

 揺れる車内には、彼女ひとり。


「……大丈夫よ」


 誰に聞かせるでもなく、エマは小さく呟いた。


 けれど、その言葉はあまりにも頼りなく、宙に溶けて消えた。


 胸の奥に残ったのは、怒りでも悲しみでもない。

 ただ、ぽっかりと空いた穴のような、名づけようのない空虚だけだった。


 それでも――生きていかなければならない。


 エマは、膝の上で拳をそっと握りしめた。

 この先に何が待っていようとも、自分の人生を、もう誰にも奪わせはしないと。


 春の光は、知らぬ顔で馬車の窓をすり抜けていた。



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