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第8章 第1話

 吐く息がわずかに白く濁る。

季節はまだ進んでいないのに、夜の明ける直前の気温の落ち込みに、身を振るわせた。

俺は頭からつま先まで、全身をすっかり覆い隠したマントを身に纏い、石畳の雑踏を歩いている。

早起きの住人たちがそれぞれの目的地に向かう中、人目を忍ぶよう周囲に気遣いながら、そうと悟られぬよう慎重に乗合馬車の集まる駅へ向かっていた。

駅周辺はこれから運ばれるのであろう品物の入った木箱が無造作に積み上げられ、馬の落とす糞の臭いが、絶え間ないざわめきの中を漂う。

人いきれと土埃の舞い上がる視界の悪い道を、人と荷物と駅馬車を避けて歩き、ようやく切符売り場までたどり着いた。


「アーニングまで行きたいんだが」


 駅舎の中は大きな荷物を抱えた様々な年齢、性別、人種の者たちであふれかえっていた。

少し高い位置にある案内所に金を置き乗り場を尋ねると、くちゃくちゃと口を鳴らす髭面の男が俺を見下ろす。


「四番出口だ」

「ありがとう」


 出された切符を受け取ろうと、番台に手を伸ばす。


「待ちな」


 男はその手を、小枝のような細い杖で押さえつけた。

先の丸まった棒の先で、頭を覆っていた頭巾を持ち上げる。


「……。チッ、女か。行きな」


 エリンの港で、ワケあって手に入れたカツラが思わぬところで役に立った。

念には念をと、女装したかいがある。

俺は引きちぎられたメモ書きのような切符をつかみ取ると、教えられた乗り場へ向かった。


 二十人ほどが順序よく詰め込まれ小さく身を寄せ合う乗合馬車は、石造りの家が建ち並ぶ王都を抜け、郊外の草原へ出た。

それなりに当たりの車を引いたのか、多少の揺れはあるものの、酷く酔うほど悪い車体ではなかった。

馬車は時折立ち止まり人を入れ替えながらも、緑の草原の中をカタコトと進んでゆく。

車内は誰一人口を利くものはおらず、誰もが人形のようにじっとしていた。

ほぼ単調に一定の速度で走り続けていた馬車の歩みが遅くなり、ついにその車輪が動きを止める。

誰かが降りるべき所までたどり着いたのだろう。


「アーニングに行くなら、ここからだ」


 御者の声に、俺は慌てて立ち上がった。

ぎゅうぎゅうの車内を避けてもらいながら何とか車外に出る。

俺が地面に下り立ったのを確認すると、すぐにムチを打つ音が聞こえ、あっけなく馬車は行ってしまった。


「てか、ここどこだよ」


 下ろされたのは、本当に草しかない草原のど真ん中だ。

足元に広がる草と、空しかない。

俺は遠くに見える山脈の形から、今いる自分の場所を把握した。


「駅馬車の通るルート、もうちょっと考え直してもらわないといけないなぁー」


 吹く風が頭のマントを肩に下ろすと、しなやかな黒髪を宙に巻きあげた。


「帰るか。久々の我が故郷へ」


 足取りは軽く、自然と鼻歌が出てくる。

俺自身だけでなく手に持つ鞄すら身軽だった。

少し歩くと、放牧地を囲う柵が見えてくる。

のんびりと草を食む牛とヤギは、現当主の弟さまのことなんて覚えてもいないらしい。

その柵に沿うように草のない小道が延び、屋敷へと続いていた。

その道の先に、白壁に赤い屋根の我が家が見える。

去年も夏の休暇には戻ってきているのに、なぜかとても懐かしく感じる。

前庭は昨日の雨が残っているのか少しぬかるんでいて、すぐ脇の馬小屋には何頭かが顔をのぞかせている。

荷馬車から運んで来た枯れ草を下ろす作業をしている人影を見つけ、俺は走り出した。


「ただいま戻りましたぁ!」

「坊ちゃん!」


 大きく手を振る俺に気づいたベンじいさんが、母屋に駆け込んだ。

俺が玄関前にたどり着くとほぼ同時に、母が顔を出す。


「エド!」


 母親にこんなに強く抱きしめられたのは、もう何年も前の子供の頃の記憶にしかない。


「おかえり、エド。大変だったでしょうに……」


 母は両目にたっぷりの涙をたたえ、俺の髪を撫でた。


「エド。たとえあなたが女の子として生きる道を選んだとしても、私の産んだ大切な子に変わりはないわ!」

「ありがとう、母さん! だけどコレはカツラだし、女装して監視の目をごまかして来ただけだから!」

「母さん、本当は娘も欲しかったの」

「知らないよ!」


 玄関の上から様子を見ていた父が、ホッと胸をなで下ろす。


「なんだ。今すぐドレスを買いに走らなくてはならないのかと思った」

「あら。新しいのを仕立て終わるまで、私のお下がりを着せますわ」

「なるほど! ではそれでしばらく我慢してもらおうか。エドはどんなデザインが好みなんだ?」

「いや、いらないから!」


 俺は被っていた長い黒髪のカツラをむしり取った。

残念がる母を置いて、屋敷の中に入る。

ドアマットは相変わらず古くて固く泥くさいものだったし、廊下は木の板を敷いただけのものだった。

壁も床板と同じ木で打ち付けられ、上半分に白い漆喰が塗られているものの、荘厳な石造りの城とは全然違う。

比べる相手が違うと分かっていても、やはり我が家とは格が違いすぎる。


「兄さんは?」


 俺は、ダイニングルームと呼ぶには大げさではあるが、普段食事やお茶をする部屋に置かれた大テーブルの角に座った。


「見回りに行ってるわ。連絡くれたら、迎えに行ったのに」


 母は俺のためにお茶の用意を始める。

壁際に沿って設置された小さなコンロには、すでに湯の沸いたポットが乗せられていた。

父も入って来て、テーブルに着く。


「だから、それじゃあお忍びにならないだろ」

「なんで自分の家に戻ってくるのに、コソコソしないといけないのよ!」

「あー……もう。だからさぁ……」

「母さん、儂にもお茶」

「はいはい」


 母が棚から出したティーカップは、特別なお祝いごとの時にしか使わないカップだった。

白地に鮮やかな赤で花の模様が描かれ、金で縁取られている。

俺が前にこのカップでお茶を飲んだのは、兄さんの誕生日だった。


「みんな、元気にしてたの?」


 俺がぼそりとつぶやくと当時に、廊下を歩く乱暴な足音が聞こえた。

扉を壊しそうなほど勢いよく開け入ってきたのは、兄エサンだった。

テーブルに座るスカートをはいた俺を見て、一瞬ガチンと身を硬直させる。


「……。なんだ。エドか。俺を驚かせるのも、大概にしてくれ」


 兄は肩を落とし大きくため息をつきながら、俺と母の間に空いていた席へ座った。


「で、王女とは別れてきたのか」

「……。う、うん」


 兄はさっきまで畑で仕事をしていたのか、土で汚れた手が俺の頭をわしづかみにして、髪をくしゃくしゃにかき混ぜる。


「ま、お前がそう決めたんだったら、誰も反対しねーよ」


 鮮やかな琥珀色をした、我が家にしては香り高い良いお茶がカップに注がれる。

父も母も申し合わせたように、にんまりと笑った。


「だけど母さんも、一度は本物のお姫さまを間近で見てみたかったわぁー」

「別に、普通の女の子だよ」

「普通のって、普通じゃないからお前を婚約者なんかに選んだんだろ」


 兄貴は上品なティーカップに注がれたお茶を、一口で飲み干す。

喉が渇いていたのか、おかわりを自分の手でポットから注いだ。


「お前からの知らせを受けたとき、なんの妄想が始まったのかと、心配で医者連れて王都まで行かないといけないかと思ったぞ」

「断れるような状況じゃなかったんだよ」

「そりゃ断るワケないだろ」


 兄は母が自ら焼いた、形の不揃いな無骨なクッキーを口へ放り込む。


「大金が手に入る上に、上手くいけばこの国の女王の旦那になれるんだからな! そりゃ儲けもんだろ、誰が断るかってんだ! あはははは!」


 豪快に笑う兄に、父と母も負けずに笑う。


「気前よく前金でポンと出してくれたおかげで、我が家の財政難は一気に解消されちゃったもんなぁ! 父さんの無策がチャラになった!」

「母さん、キッチンを改装したの! ねぇ、エド。あとで必ず見ていってね!」

「しっかり使い込んでんじゃねぇか!」

「当たり前だろそんなの。なぁ父さん」

「あぁ、もちろんだ。エサン」


 父と兄と母、三人の声が同時に重なる。


「もらった金は返さない」


 俺の気も知らないで! 

どれだけ苦しい思いをしてたかなんて、絶対俺以外の他人には分からないんだ!


「もういい! 部屋で休む!」

「まぁ待てよ」


 ダイニングを出て行こうとする俺に、兄が声をかけた。


「お前、どうせ明日からヒマなんだろ? 城での仕事も、どーせ辞めてきたんだろうし」

「……。悪いかよ」


 兄エサンの口元が、にやりと斜めに歪んだ。


「俺の仕事を手伝え。働かざるもの、食うべからずだ」


 俺は兄をにらみつけると、何も応えず部屋を出る。

考えごとをしながらでも、体が覚えている階段を上った。

俺が王女さまと契約を交わす前から何も変わっていない扉を開けると、俺は自室に引きこもる。


 この家に帰って来た理由を、家族全員知っている。

王女と契約し恋人ごっこをしながら婚約者役をやると決めたことも。

辞めると決意し、家に戻ると決めたことも。

城でしていた仕事にも、退職することを書き置きしてきた。

すごく色々と迷惑をかけてしまったけど、それも全てセオネードさまのせいなんだから、許してほしい。


 彼女が……。

あの人が、全部悪いんだ。

俺みたいな庶民をからかって遊ぶだけ遊んで、結局さよならだ。

最初から王女殿下の遊びに付き合わされてるのは、分かってた。

だから嫌だったんだ。

どうしてあんなこと、ずっと続けられたんだろう。


 家に戻ると決めてから、食事も喉を通らなくて、夜も眠れなくなっていた。

だけど今日からは、もう彼女のことを考える必要はなくなった。

明日からちゃんとするから、今日は一日寝かせておいてほしい。


 ベッドにもぐり込むと、目を閉じた。

ようやく安心した体は、久々の眠りに襲われていた。



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