異常は去らず、ただ眠る
朝は、何事もなかったかのように訪れた。
振動はない。
歪んだ光もない。
壁を這う影もない。
ただ、ビルの隙間から差し込む淡い陽光と、歩道を急ぐ足音だけがあった。
Aidenは、胸に馴染みのある重さを抱えたまま目を覚ました。
――パラドックスは眠っている。
消えたわけでも、鎮まったわけでもない。
ただ……沈黙しているだけだ。
彼はしばらく天井を見つめたまま動かなかった。
まるで、現実に亀裂が走っているのを期待しているかのように。
……何もない。
「……また遅刻だ」
Aidenは起き上がり、制服を掴んで外へ出た。
街は、いつもの仮面を被っていた。
ショーウィンドウは無傷で、
道路は不自然なほど早く修復され、
人々は笑い、話し、生活している。
まるで、昨夜の出来事など存在しなかったかのように。
学校に着くと、廊下はありふれた声で満ちていた。
「テスト勉強した?」
「今日、暑すぎない?」
「先生いないらしいぞ」
Aidenは、その中を歩きながら、
この“普通”から取り残された感覚を覚えていた。
――そして、彼女を見つけた。
黒髪の少女。
窓際の席に座り、
落ち着いた表情で、
戦闘の痕跡など微塵もない。
武器もない。
青白い光もない。
ただの、どこにでもいる生徒のように見えた。
一瞬だけ、視線が交差する。
彼女は、すぐに目を逸らした。
まるで、出会ったことなどなかったかのように。
その時、Aidenの内側で何かが微かに震えた。
――警告。
少し離れた場所で、Naëlが腕を組み、校庭を見下ろしていた。
刻印は見えない。
だが、表情は隠せていない。
「……いるな」Aidenが小声で言う。
Naëlはゆっくり頷いた。
「ああ」
「……あいつの言葉は?」
「忘れていない」
風が通り過ぎる。
雲が、静かに空を流れていく。
普通の一日。
……あるいは、そう見えるだけの。
Aidenが鞄を置いた、その時だった。
違和感のある気配が、彼の注意を引いた。
一人の青年。
周囲の生徒より明らかに年上。
二十一歳前後だろうか。
背筋は伸び、視線は澄んでいて、無駄な緊張がない。
制服を着てはいるが、どこか似合っていなかった。
サイズの問題ではない。
――彼は、もう生徒ではないのだ。
ジャケットの内側、目立たない位置に縫い付けられたエンブレム。
それは、昨夜の戦闘であの少女が身につけていたものと同じだった。
青年は、静かにAidenの前に立った。
「大丈夫か?」
それだけ。
脅しでも、試すような声音でもない。
Aidenは瞬きをする。
「……たぶん」
青年は軽く頷いた。
「それならいい」
Naëlが近づき、二人は目を合わせる。
敵意はない。
ただの、無言の確認。
「見た目より年上だな」Naëlが言う。
「よく言われるよ」
青年は小さく笑った。
そして、再びAidenを見る。
「彼女に、もう話しかけられただろう?」
Aidenの体が僅かに強張る。
「どうしてそれを……」
「彼女は、誰にでも声をかけるわけじゃない」
青年は、教室の方へ短く視線を向けた。
黒髪の少女は、窓際でノートに向かっている。
落ち着いていて、
聞いていないように見える。
「彼女は、もう君を知っている。Aiden」
その名が出た瞬間、
少女のペン先が、ほんの一瞬だけ止まった。
――そして、何事もなかったように再び動き出す。
「怖がらせに来たわけじゃない」青年は続けた。
「じゃあ、何のために?」とAiden。
彼は少し考えてから答えた。
「君は十六歳だ」
「それなのに、大人の訓練者ですら押し潰されるものを抱えている」
パラドックスが、微かに反応する。
恐怖ではない。
ただの警戒。
「昨夜、君は想定以上に持ちこたえた」
「……それは確かに凄い」
「だが、危険だ」
青年は壁に手をつき、距離を保ったまま言った。
「次に制御を失えば、間に合わないかもしれない」
Aidenは歯を食いしばる。
「……あんたは?」
「俺か?」
青年は一拍置いた。
「俺は見ている」
「もし最悪になれば……助ける。できる限りな」
そこに誇りはない。
あるのは、ただの責任感だけ。
彼は背筋を伸ばした。
「休める時に休め。
“普通の日”は、俺たちには貴重だからな」
そう言い残し、青年は静かに廊下へと溶け込んでいった。
暗い制服。
威圧感はない。
ただ――時代から少しずれた存在。




