ミニュイの境界
振動が一気に激しくなった。
Aidenは思わず膝をわずかに曲げた。まるで街全体が彼の上にのしかかってきたかのようだった。
パラドックスが体内で咆哮する。制御不能、混沌。
何かを操ろうとするが――無理だ。
胸を焼き尽くすような激しい振動だけが残る。
「……Naël……」
中心街で、Naëlの手の甲に刻まれた刻印が激しく燃え上がった。
彼の足元に暗い光の円陣が展開され、轟音とともに地面を引き裂く。
通行人たちは理由も分からぬまま後退した。
身体が、先に危険を理解していた。
その前方――
上位暗影が現れた。
圧縮された影の集合体。
赤黒い線が無数に走り、まるで剥き出しの神経のようだった。
それは歩いていない。
存在するだけで、空間を歪めている。
Naëlは静かに息を吸う。
「……なるほど。これが、真夜中(Minuit)か」
上位暗影は口なき咆哮を放つ。
歪んだ衝撃波が通りを薙ぎ払った。
Naëlは手を掲げる。
「――封印術《黎明共鳴》」
刻印が爆ぜるように輝いた。
逆位相の振動が衝撃波を打ち消し、粉砕する。
地面が持ち上がり、アスファルトの破片がNaëlの周囲に浮遊した。
上位暗影が跳躍する。
――速い。
Naëlは腕を交差させた。
「――変式《砕けし黎明》」
空間が裂ける。
不可視の一撃が影を貫き、轟音とともに建物へ叩きつけた。
外壁は歪んだが、崩れない。
現実そのものが、衝撃を受け止めていた。
その横で、Aidenは一歩後ずさる。
彼の力が、明らかに異常反応を起こしていた。
Naëlの攻撃が放たれるたび、体内のパラドックスが暴走する。
共鳴している――だが、調和していない。
上位暗影は再び立ち上がった。
さらに巨大に。
――学習している。
歪んだ紋様がその身体に浮かび、Naëlの刻印を不完全に模倣し始める。
「くそ……」
Naëlが低く呟く。
「同期するな。Aidenに近づくな」
だが、上位暗影はすでにAidenへ腕を伸ばしていた。
圧力が炸裂する。
Aidenは叫んだ。
制御不能のパラドックスが噴き出す。
形を持たない黒い力が螺旋となり、空を裂く。
それは、世界に刻まれた傷だった。
「AIDEN!」
Naëlは即座に飛び出し、二人の間に割って入る。
「――上位術式《原初の光の詩篇》」
低く重い詠唱が響いた。
Naëlの光はほとんど白に近い輝きへと変わり、裁きのように上位暗影へ降り注ぐ。
――だが、その瞬間。
世界が、静止した。
一本の刃が、上位暗影を貫いていた。
静かに。
正確に。
致命的に。
影はひび割れ、次の瞬間、闇の粒子となって虚無へと吸い込まれていく。
怪物の背後に、ひとつの影が着地した。
少女。
――Aidenが、かつて高校の廊下でぶつかった少女だった。
短い黒髪。青みを帯びた光。
正体不明の紋章が刻まれた暗色の制服。
その手には、まだ微かに振動する半透明の刃。
彼女は、消えゆく残骸を見ることもなく、武器を消した。
「……遅かったわ」
淡々とした声。
Naëlは言葉を失う。
「……誰だ、お前は?」
少女はわずかに首を回し、Aidenを見る。
視線が、彼の上で止まる。
そして、ため息。
「それと、あなた」
一拍置いて。
「そんなふうに力を解放し続けたら……」
沈黙。
「怪物より先に、街を壊すわよ」
静寂が戻った。
Aidenは感じていた。
パラドックスは鎮まりつつある。
だが――消えてはいない。
屋上で、赤い目のシルエットが微笑んでいた。
そして今回、
彼は彼らの名前を知った。




