影に侵された街
朝は、まるで何事もなかったかのように街を包み込んだ。
店のシャッターがいつも通りの軋む音を立てて開き、バスには眠そうな人々が溢れ、学校の前では子どもたちの笑い声が響いていた。
世界は正常だった。
――いや、正常すぎた。
しかし、確実に何かが変わっていた。
いくつかの路地では、空気が異様に冷えたままだった。監視カメラは、午前零時ちょうどに説明不能なノイズを記録していた。そして何より、ほんの一握りの人間たちが、激しい頭痛と「見られている」という感覚とともに目を覚ました。
彼らは――**覚醒者**と呼ばれる存在だった。
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淡い朝の光に照らされた教室で、ナエルは黒板を見つめていた。しかし、その文字はまったく頭に入ってこない。
天井には、目に見えないはずの暗い亀裂のようなものが、ゆらゆらと蠢いていた。
――誰も、気づいていない。
チャイムが鳴った瞬間、背筋に冷たいものが走る。
オブスクルが、通り過ぎた。
見るより先に、感じた。
空気が押し潰されるような圧迫感。現実そのものが、息を止めたかのような沈黙。
窓の外、校庭の上空を、不定形の影がゆっくりと漂っていく。
ナエルは歯を食いしばった。
「……じゃあ、夢じゃなかったんだな」
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その頃、街の反対側で乾いた爆音が響いた。
交差点の中央に、影の裂け目が出現したのだ。
通行人たちは本能的な恐怖に縛られ、動けなくなる。
空間と噛み合わない歪んだ人型の存在が裂け目から這い出した瞬間、男の悲鳴が上がった。
その周囲を、無数のオブスクルが渦を巻くように漂い始める。
「全員、退避しろ!」
叫び声が響く。
次の瞬間、近くのビルの屋上から一つの影が飛び降りた。
重い音とともにアスファルトに着地し、その拳は液体のような異質な光を纏っていた。
拳が地面を叩くと、空間が歪み、衝撃波が走る。
オブスクルたちは、見えない力に弾かれるように吹き飛ばされた。
呆然と立ち尽くす民衆。
「……予想より早いわね」
その女は静かに立ち上がり、呟いた。
「真夜中が、昼に溢れ始めている」
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同じ頃、人混みの中を赤い眼を持つあの人影が静かに歩いていた。
不自然な笑みも、足元で異様に引き伸ばされる影も、誰一人として気づかない。
肩口に、オブスクルが一瞬だけ姿を現す。
「焦る必要はないわ」
低く囁く。
「世界はまだ堕ちる準備ができていない……でも、ひび割れるには十分」
その眼が、淡く輝いた。
「そして――覚醒者たちは、ようやく目を覚まし始めた」
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その瞬間、ナエルの心臓が激しく脈打った。
自分の内側にある何かが、裂け目に呼応している。
手の甲に、灼けるような紋様が浮かび上がった。
現実が、再び震える。
そして、太陽がまだ高く昇る空の下――
街の広場にある大時計が、唐突に止まった。
表示された時刻は、
午前十一時五十九分。




