惰性の生
大和の使っていたジッポライターで、彼が残して行った最後の一本へと火を灯す。
まるで蛍のように尻を赤く光らせたその紙巻煙草に、小さく笑い声が漏れた。
オレのものとは違う、黒いボディに甘いチョコの味がする不快なフィルター、甘いバニラにも似た芳香の煙。
何もかもが、オレのものとは違って不快だった。こんなモン吸う人間が信じられねえ。
オエッと舌を出す。
その香りが、急速にオレの思考を一年と半年前へと引き戻す。
その日は、冷房を入れていても汗ばむほどの陽気で、オレは一人煙草を咥えてのんびりとマットレスの上に寝ころんでいた。
煙草を吸っていない時はチューペットを咥えていたせいで、ベッド脇のゴミ箱はそろそろ片づけないと蟻が寄って来そうな様相となっていたが、その時はその時、未来のオレに任せようと無責任なことを考えていた。
空にやや藍色が混ざり始めた午後七時頃。突然鳴らされたインターフォンに、宗教か新聞の勧誘。
もしくはNHKの集金か何かだろうと考えを巡らせて、めんどくせぇことに変わりは無ぇなと頭を一度掻いてから居留守を決め込むと、途端に連打されるインターフォンと叩かれる扉に、一昔前の借金取りかよと怒鳴るために扉を開く。
そこに立っていたのは、全ての予想を裏切る、見知った人間だった。
このクソ野郎を人間の範疇に含めていいなら、の話にはなるが。一応は見知った、暫定人間だった。
「は?」
「暑ぃんだよ、外。さっさと入れろ」
傲岸不遜という言葉がこれほど似合う人間がかつて存在しただろうか。
オレが所属していた族の頭だったミッチーは別だ。
あの人は傲岸不遜じゃなく、唯我独尊。そしてその独尊っぷりを許されるほどの破天荒さとカリスマがある。
このクソ野郎にはどちらも存在しない。ゴキブリよりはちょっとだけ存在価値がある程度だ。床を這うゴキブリを学生時代オレの代わりに退治してくれたという、たったそれだけの価値だ。
ちなみに、その時の借りはその後散々返させられたせいでオレの中でこいつの存在価値は牛乳を拭いた雑巾の下程度になっている。
とにかく、外に立っていたクソ野郎のよく分からない言葉に、オレは、コイツはヤクでもやってんのか、それとも地球外生命体で、オレとは別の言語でも話してんのかと訝しんだが、事実オレと同じ言語を話していたし、違ったのはコイツのクソみたいな思考回路だけだった。
大和に対してうるせぇだとか、黙れだとか、その時なんと返したかも既に定かでは無いが、とにかく傲岸不遜を地で行くその男は、弟である裕翔と喧嘩をしたとかで、一緒に暮らしていたアパートを追い出されたらしい。
ざまあみろと思わなかったことは無いが、このクソ野郎はオレの口から漏れた「ザマァ」という小さな呟きに、一発拳をめり込ませてきたために存在価値は牛乳雑巾を絞った後のバケツの水より下へ位置することになった。
マジでクソ。
大和はその日からオレの部屋に転がり込み、あれよあれよという間に一緒に住むことになっていた。
暑い夏の日、毛先だけを金に染めた肩甲骨辺りまで伸ばされた髪に、日本人とは思えないほどに鮮やかなヘーゼルの瞳をした、一見すればガタイの良い美女にも見えるゴミ、大和が持って来た荷物はたった一つのボストンバッグだけだった。
その中には、数日分の着替えと煙草に財布、携帯電話、それから気に入って使っているらしいレディースの香水だけが入っていた。他には何も無い。
長い髪を可愛らしいおさげにしたクソ野郎は、洗ってひっくり返したまま置いていたグラスへ麦茶を注いで飲み始める。
学生なら夏休みが始まっただろうその日が、クソ野郎との同居初日だった。
大和は時折帰ってこなくなる。そんな日は連絡をしても一切の返事は無く、ふらっといなくなっては数週間帰ってこないなんてことも普通だった。
そして帰ってきた日は、血と硝煙のニオイを香水と煙草の匂いで誤魔化している。
それを気付いていないかのように誤魔化されてやるのが、このニンゲンモドキと生活する一番の方法だった。
財布と煙草、それにスマホとついでとばかりに下着だけが無くなっている日は数週間、長い時は数か月帰ってこない日だった。
「オマエ、裕翔のとこ戻らねえの」
オレが問いかけると、大和は静かにオレを見て、彼の感情の見えない爬虫類のごとき瞳で、オレの心の中まで見透かすようにじっくりと見つめて、それから気色悪い薄ら笑いを浮かべて「仲直りしてねえんだよな~」などと宣うのだった。
あのブラコンの弟が、これだけの期間兄である大和を放置しているなんて考えられなかったが、藪蛇はごめんだと口を噤む。
「オマエってホラー映画に出て来る女に似てるよな」
話題を変えるために話を振ると、ニンゲンモドキは人間とのコミュニケーション方法を知らねえのか、オレの頭を掌の側面で思い切り殴ってくる。
エモノを使わないだけマシだと思うべきか、エモノを使わなくてもクソだと思うべきかは分からないが、それがコイツなりのコミュニケーション方法だと知ったのも、この男と同居してから初めてのことだった。
大和と初めてセックスしたのは、アイツが初めて家を空けてから帰ってきた日の夜だった。
血と硝煙のニオイに塗れた大和は、まるで獣のような表情でオレを見て喉笛へと噛み付いてきた。
それにオイとかヤメロとか言っていたのも最初のほうだけで圧し掛かってくるオレよりでかい男相手に抵抗することも虚しくなり、体の力を抜く。
悔しさと絶望。それから人間としての尊厳の全てを失う心地でクソ野郎の体を受け入れた。
女のような嬌声、というやつは上げずに済んだ。
一つ意外だったのは、この男がゴムを付ける理性を持っていたということだった。
うつ伏せにさせられ腰を上げた、所謂四つん這いの状態にされたオレは悔しさにずっと泣いていた気がする。
女を連れ込んだ時に買っていたローションでオレの尻を指が三本入るまで解した馬鹿は、自分のモノにコンドームを装着してオレのナカへと挿入した。
皺が全て無くなるほどに大きく拓かれたナカに、内臓が押し上げられる痛みに、同等だと思っていた人間から受ける暴力的な情交に、ぐちゃぐちゃになった感情が喉を、腹を灼く。
人間として、男としての尊厳を失ったかのような絶望がオレの心を殺していく心地だった。
逃がさねえと言うかのようにオレの首裏へと噛み付いた獣のようなクソ野郎は苦鳴を漏らして啜り泣くオレのナカでコンドームの中に射精した後コンドームを外して生で挿入をした。
ヤメロというオレの力無い抵抗は言葉の通じないニンゲンモドキに黙殺され、結局オレのナカに三回射精をした後、ようやく満足したかのように大和は眠りに落ちた。汚ぇ敷きっぱなしのマットレスの上で座り込んで悔しさに泣くオレを慰める人間は誰もいなかった。
けれど、オレは結局そのクソ野郎を追い出せず、一緒に住み続ける。
「あー、煙草買い忘れた。一本くれ」
都内にも関わらずコンビニが徒歩一〇分というクソ立地のアパートでは、切れた煙草を買いに行くことは面倒で、隣で寝ころんだまま雑誌を読む大和に一本強請る。
彼はオレの顔をちらりと見ると自分の煙草とジッポライターを軽くスライドさせて渡してくれた。
パッケージに悪魔の描かれた煙草は、コイツが吸うたびに甘い芳香をさせて少々不快感はあったが、この際贅沢は言ってられねえと口に咥えて火を灯す。
ジッポライター特有の甘いオイルの香りが鼻を擽る。
オレは、このニオイが好きだった。マメとは決して言えないオレにはジッポライターを扱えないだろうと、コンビニで購入した使い捨てのものを使用しているが、大和が使う度に香るこのオイルのニオイを、オレは少しだけ楽しみにしていた。
そして、一口彼の煙草を吸って、オレは目を瞠る。
フィルターも、煙まで甘い。思わず噎せたオレを大和はニヤニヤと見つめる。
ふざけんなとか、せめて言えよとか、そんな文句を言おうとしたオレを大和は黙殺して、自分も一本取ってさも美味そうに吸うのだ。
その日から、オレはこのクソみたいに甘い煙草を吸っている男を誰一人だって信用しないことに決めている。
一本吸い終わる頃にはオレの口の中は甘さでいっぱいになっていて、不快感で胸やけを起こしていた。
その煙草の匂いに慣れたのはいつの日だったか。
思い返すと一つの記憶が浮上する。
例えば、それは空へ落ちていく雨粒のように、立ち上る香気のようにそこにあるのにどこにも見えない、あることが当然であるかのように居座って消えない。
オレにとってこの顔だけはいいクソ野郎は、そういう存在だった。
「火、貸せ」
オレの言葉に大和がこちらを、一切の興味無く見やる。
擦り切れた口端と、返り血を浴びた白いパーカー。対して涼し気なツラをした黒いパーカーを身に纏う大和の脛を軽く蹴る。
既に決着のついた喧嘩に第二ラウンドは大抵無い。
今日の喧嘩の理由がなんだったかは既に定かでは無いが、毎日のように殴り合いの喧嘩をしているんだ、そろそろアパートを追い出されても仕方ないだろうとぼんやり思う。
「煙草、咥えてろ」
言われた通りに白い紙巻煙草を咥える。しっかりと葉の詰まったそれは、吸うと肺一杯に体に悪そうな味が広がる。それが好きだった。
大和の咥える妙に甘ったるいニオイのする黒い紙巻煙草が近づく。
一度吸ったことのある、舌に触れる甘ったるいフィルターの味を思い出して内心でオエッと舌を出す。
煙草を咥えた大和の顔が近づいて、オレの肩に大和のみつあみにされた髪が軽く触れる。
火を灯された紙巻が近づいて、オレの咥える煙草の先端へと触れる。
これ、時間掛かるんだよな……なんて思いながら大和を見ると彼は瞼を伏せて煙草の先端を見つめる。
「……吸って」
煙草の煙によってダメージを受けた、掠れた声がオレの耳朶を打つ。
その声に従うように軽く吸うとジ、と微かな音空気を揺らす。
僅かな火種が触れるために中々火の移らないそれに、近づく体に鼓動が強く打つ。大和の瞼が開き、視線が僅かに上がって彼がオレを見る。
視線が絡まって、大和の瞳が僅かに緩む。それに思わず視線を逸らすと、大和の喉奥で小さく笑声が弾けるのが聞こえる。
ゆっくりと呼吸をするとようやく紙の先端へ火が灯って吸い慣れた煙が肺を満たす。
煙草らしい味に、吸うと紙が焼ける僅かな音が鳴るこの煙草が、オレは好きだった。深く吸わなければ味わえないことも、時間をかけて吸うことも、長く楽しめることも魅力だと思っている。
火を灯した大和が、先端同士で口付けたままオレを上目遣いで見やる。妙に動作の一つ一つが艶めかしい男だった。
煙を吐き出すために煙草を口から離す。
白く色づいた汚ぇ二酸化炭素が唇から零れると同時に、口内に甘ったるいバニラの香気とチョコの後味が触れる。
重なった唇、腰を抱く大和の妙に力強い腕、指先に触れる僅かな重さすら無い紙巻煙草。
大和の指先にあったはずの煙草は、既に灰皿の上でその短い生涯を終えている。
きっと二秒も持たずオレの指に挟まる煙草も同じ末路を辿るだろうと思いながら、最後の抵抗に口内へ含んでいた煙草の煙をクソ野郎の顔へと吹きかけた。
その瞬間、大和の瞳が雄の獣のものへと変貌し、オレは理性を飛ばす準備をした。
数回目の繋がりは比較的簡単だった。
大和は結局、最初の一回以外コンドームを使うことは無かったし、三回目からは既にローションすら使わなくなっていた。
マジでコイツクソだな、なんて思いながらもそれを拒絶する言葉を、オレは持っていなかった。
簡単に言うなら、コイツの存在に絆されていた。迷子の仔犬のような目をしてオレを見るコイツに。
「……っ、は……ぁ、」
薄暗いアパートの部屋の中、オレの噛み殺した嬌声と、大和が腰を揺する水音が響く。
コンセントを差す音すら聞こえてくる薄い壁の向こう側には、オレの嬌声が聞こえてるだろうことは分かってたが、それを止める術をオレは持たなかった。
キスだけはしない。
それは既に二人の間で暗黙の了解になっていたものだった。お互い口に出したわけではないがいつの間にか決まっていて、唇を重ねることを忌避していた。
それはもしかすると、大和が裕翔の元へ帰らないことと何か関係があるのかもしれないが、あれ以降オレは聞かなかったし、大和もオレに話すことは無かった。
きっと、オレたちの関係はそれで良かったし、これ以上の関係に発展することは無いだろう。と思っていたのだ。その禁忌を、大和は今日、破った。
夏も既に過ぎて寒くなってきた部屋の中で、暖房も冷房も付けずに二人で汗だくになりながら、互いの体を貪る。
もう二〇歳を超えていながら、まるでティーンのように求めあうこの様子に、心の中の冷静な自分が小さく揶揄する。
オレたちは、軽口と罵倒以外のコミュニケーションを知らずに育って来た。
愛を語り合うことも、互いを大切にする言葉も。
きっと、そんなものを知っていたならオレたちは知り合わなかったし、こんな安アパートの中で身を寄せ合うことも無かっただろう。
どうしてこんなに下手な生き方しかできねえのか、そう思ったことは一度や二度では無かった。
それでも、きっとオレは何度人生をやり直したって同じ人生を歩んで、同じヤツに会って、そしてきっと、大和と一緒にこうして生きるんだろう。
オレのナカから萎えたモノを引き抜いた大和がオレを労わることもせず静かに煙草へ火を点すのをぼんやりと眺める。
「腹減ったな、なんか食う?」
大和の言葉に焦点を合わせる。
「オレ、ピザ食いてえ」
「オレ、カレーの気分だからココイチ頼むわ」
「は? なんで聞いたんだよ、クソ」
そんな軽口の応酬が愛しいと気づいたのは、いつのことだっただろうか。
いつの間にか大和が家を空ける間隔が頻繁になっていた。
期間はより長く、血と硝煙の香りは一層強く。
帰ってくると、酷く抱かれるようになった。
まるで、何かを忘れるように。
それでも大和は決してオレにキスをすることはなかったし、オレの名前を呼ぶことも無くなっていた。
オレを誰に重ねてんの、とは聞けなかった。
「オマエ、きつくならねえの」
隣に座った坂本へ問いかけると、彼はオレをちらりと見てからまた空虚を見つめる。
「辛いとか、そういう期間はもう過ぎた。いまはただ、トモが正気に戻らねえことを願うばかりだ。
オレが癒せる傷はねえから。オレが抱かれれば抱かれるだけ、トモの傷は広がっていく。オレがいましてんのはただ、トモの傷に塩を塗り込んでるだけだ。それでも、トモがオレを望むなら望まれるだけ全部やりてえと思ってる」
坂本は静かに、けれどしっかりとした口調で言葉を選びながら話す。コイツを信用できるのはこういうところだと、オレは思う。
ミルクティー色の前髪で黒い目を隠した青年。
「オレは、トモに間違えて助けられて、間違えて、こうやって生きてるから」
その言葉を聞くたびに、コイツも闇を抱えてんなあ。などと思うのだ。
彼は幼少期、妹とトモ──山内智樹と一緒に車に乗っていて玉突き事故に遭い、後部座席の左側に座っていた妹と間違えて自分が先に助けられたと、そう思っているらしい。
坂本が助けられたその直後、車は爆発し音を立てて燃え、運転していた父と妹を一気に亡くしたのだと、いつか言っていたことを思い出す。
その闇に対してオレは簡単にそんなこと無いとか、生きてて良かったと思わないととか、妹の分まで生きろよ。なんて無責任で人のことを一切考えていない偽善的な言葉を吐くことのできない自分を、少しだけ誇らしく思う。
コイツの傷はコイツのモンで、オレが何を思ったとしても憐れんだり、傷を分かったふりをしてはいけないと、そう思うのだ。
妹に近づくために履き始めた女性用のヒールで坂本の脚はボロボロになっていた。
その脚で走ったり人間をぼろ雑巾にしたりしてるんだ、当然だろう。
それでも、オレは坂本に手を貸すことはしないし、山内も同じだった。
壊れ切った山内の目の奥も、それを見つめる壊れてしまった坂本も、きっとこのままではいけないと分かっていながら、二人で落ちていくことを望んでるんだろう、と思う。
「この足の痛みは、懺悔だ」
坂本はそう言う。
「過ぎたものを望んでしまった、オレの罪だ」
罪だとか罰だとか、人間はすぐ痛みに理由を与えるなと思う。
きっと、人生なんてもっと簡単なモンだろうと思うのに、オレはそれを言葉にすることができないでいる。
「……オレからすれば、オマエと間中のほうがよっぽど救われねえよ」
坂本の言葉にお互い様だろと笑って背を向ける。
大和がオレのアパートに住み始めてから、約一〇か月が経過した夏の日だった。
その日は蝉が妙に五月蠅く鳴いていて、アスファルトは熱されすぎて陽炎が見えるほどだった。
打ち水をしても涼しくなるどころか暑くなるほどの猛暑日。
その日、大和はオレの部屋へやって来た時に、たった一つ持ってきていたボストンバッグすら部屋の中に置いたまま、替えの下着も服も、何一つ持って行くこと無く、スマホと財布、それからオレのジーパンとティーシャツだけを着てオレの部屋からいなくなっていた。
オレが一番気に入っていたシャツと、よく履いていた草臥れたジーパン。
まるで、そこのコンビニに煙草でも買いに行くというかのような軽装で。
それきりアイツは、何か月待っても帰ってこなかった。
大和がオレの部屋にボストンバッグを置くようになって一二か月目。
オレは、大和を待つことをやめた。
大和の形跡だけが、オレの部屋の中に残る。
オレの趣味じゃない、灰皿に押しつぶされたオレのものとは違う煙草の吸殻。
大和の気に入って使っていたレディースのオード・トワレ。
着丈の長い派手なシャツに、オレとは好みの違うヘア・ワックス。
彼が使っていたヘアゴムと、セックスの時に使ったコンドームと彼が買い直したローション。結局、ローションなんて使ったのは最初の数回だけで、ゴムはコンビニで適当に買った五個入が二つだけ切り取られて無くなっている。
ただ、それだけだ。
そして、彼の数着だけの服が入っていた安物のプラスティック・ケースの中に残された一カートンだけの煙草。
コンビニでは売っていないせいでわざわざ通販で取り寄せていた趣味の悪い、甘いチョコの香りがする洋モク。
そのツラで甘党かよ。そう笑ったのも記憶の底に残っている。
大和と過ごしたのは、一年の内のほんの数か月で、いままで生きてきた二〇年以上のうちのたった数か月だった。
それでも、オレはもう、大和がいなかった頃にどうやって生きてきたのかも覚えていないし、何を考えていたのかも、何もかも、分からなかった。
これから先を、どうやって生きて行けばいいのかも本当は分かっていない。
ソフトケースを破って一本口に咥える。
黒いボディに、甘いチョコの味がついたフィルター。ゆっくり息を吸いながら火を点すとジジ……、と小さな音がして赤が燈る。微かなチョコレートが燻る。
「趣味悪ぃ」
小さく笑って、涙が零れた。
大和のオード・トワレを軽く振ると甘い煙草の香りと、どうしてかオレの煙草の匂いにも似たスモーキーな香りがして、まるでそこに大和がいるようだった。
大和がこのちっぽけな一二畳の部屋から出て行ってから二か月。
ようやく、オレは大和がもうこの部屋にいないことを理解して、それから少しだけ泣いた。
今日も、オレはあのクソ野郎が置いて行った煙草を吸って、あの男が置いて行った香りを纏う。
無くなっても買い直すことはしない。これは、一種の弔いだ。
置いて行かれてどこへ行くこともできなくなった、オレの恋心の、弔いだ。
あの男がいなくなってから半年。ようやく、煙草は最後の一本を迎えた。
じゃあな、クソ野郎。笑うとどこからかあのクソ野郎の笑い声が聞こえたような気がして、甘ったるい趣味の悪ぃ煙を空へ吐き出した。
ベッドシーンを書くのは正直得意ではありません。
けれど、この二人には避けて通れない瞬間があって、どうしても描かなければならないと思いました。
愛だとか恋だとか、きれいな言葉では括れない関係。
不器用で、どうしようもなくて、それでも一緒に生きてしまった。
その“惰性の生”を最後まで見届けてくださって、ありがとうございました。