プロローグ
ねえ、あなたにとって「おとぎ話」って何?
ほら… おとぎ話って、よくお姫様や騎士、城やドラゴン、魔法や呪いの話として語られるでしょ?
でもね、それだけじゃないのかもしれない。
眠る前の読み聞かせ以上に、背景のある物語。
そのメッセージは、道徳だけじゃなく、現実についても語っている。
たとえば、ヘンゼルとグレーテルの話。
貧困、飢え、そして…人肉を食べるという恐怖の話にも読み取れる。
──もし、そういう視点で見たいなら、だけどね。
大切なのは…そういう物語って、思っている以上に深い意味を持ってるってこと。
「森に一人で入ってはいけない」
「知らない人について行ってはいけない」
「いい子にしなさい」──そういう教訓が詰まってる。
でも反対に、苦しみや犠牲の先に幸せが待っている、という希望を語るものもある。
物事はそんなに単純じゃない。
すべては「作者が何を伝えたいか」によるんだ。
──だからこそ。
あなたも、別の視点から「おとぎ話」を覗いてみたくはない?
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とある町の古本屋。中年の女性が営むその店から、一人の女子高生が本を手にして出てきた。
黒い髪に、黒い瞳。
十六歳にしては小柄で細身。そのせいか、実年齢よりも幼く見える。
彼女の名前は──青木サリナ。
ごく普通の高校生で、本を読むのが大好きな少女だった。
(やっと……やっと手に入れた! 数ヶ月待ったんだから!)
にっこりと笑いながら、新しい本を抱きしめて通りを渡る。
それは、彼女がずっと待っていたシリーズの最新巻。
サリナにとって、本を読むこと以上に幸せな時間はなかった。
インクの匂い、紙の手触り、美しい文章、そして未知の物語──
そのすべてが愛おしかった。
気持ちはシンプル。でも、心からのものだった。
早く家に帰って、読みふけりたい。
そう思いながら、足取りも軽く近所の道を歩いていたとき──
通りの向こうに、同じ学校の女子二人が話しながら歩いてくるのが見えた。
「……」
サリナは、彼女たちに気づかれないよう、そっと目を伏せてすれ違う。
十分距離が取れたのを確認してから、ふぅっと息を吐き、歩みを再開した。
いつもの帰り道を、ただまっすぐに。
──そして自宅のある通りに差しかかったところで。
「こんにちは、青木ちゃん。」
(うわ……今はちょっと……話しかけられたくない……)
別に、その人が嫌いなわけじゃない。ただ、今日は早く本を読みたいだけ。
でも無視するのも失礼だし──
「こ、こんにちは……ミツハさん。」
ミツハさんは、近所に住む優しいおばあさん。
サリナの家族とは、彼女が生まれる前からの付き合いがある。
「今日が誕生日だって聞いたの。だから……ほら、本が好きでしょ?」
そう言って、彼女は自宅から持ってきた一冊の古びた本を差し出した。
「これ、気に入るかもしれないと思って。」
その本にはタイトルもなく、埃にまみれていた。
「亡くなった主人が昔拾ってきた本なの。
どこかの廃寺で見つけたって言ってたわ。
私は読書家じゃなかったから内容は分からないけど……あなたなら楽しめるかもね。」
──正直、古い本にはあまり興味がない。
でも、せっかくの贈り物を断るのは失礼だ。
(……仕方ない。
それに、ご主人の話をすると悲しそうな顔になるし……私が気まずくなるだけだよね。)
「ありがとうございますっ……!」
そう言って、少しぎこちない笑顔を浮かべた。
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家に帰ると、サリナはベッドにダイブした。
両親も兄も不在。
誰にも邪魔されず、自分だけの時間。
「ふぅ……やっと、今日も終わりっ。」
小さくつぶやいて、深く息を吸った。
(さあて……読書タイム!)
バッグから新しい本を取り出そうとしたそのとき──
ふと、もう一冊の本が視界に入った。
ミツハさんにもらった、あの古い本。
ベッドの上に置きっぱなしだった。
買ったばかりの本と、もらった本。
どちらを先に手に取るか、少しだけ迷って──
「……はぁ、せめて中身ぐらいは見ておこうか。」
買った本を本棚に戻し、仕方なくもう一方を手に取った。
埃を吹き飛ばし、ページをぱらぱらとめくる。
(さて……どんな秘密が隠れてるのかな。ふふ。)
半ば冗談混じりに開いてみたが──
(……え? 真っ白?)
中身は、まるで印刷ミスのように何も書かれていない。
何ページもめくるが、どこまでも空白。
──ただ一か所。
本の中央だけ、二ページにわたって奇妙な記号が描かれていた。
日本語でも英語でもない。
見たこともない文字。
インクの色合いからして、かなり昔に書かれたもののようだった。
「……これ、一体なんなの?」
顔を近づけて見ても、意味はさっぱり分からない。
「……」
ため息をついて、ベッドにごろりと横になる。
(読む理由、なくなったな……)
正直、ちょっと安心していた。
そんな彼女の思考を遮るように──
ページの上の記号が、動き始めた。
一つ、また一つ……インクの文字が揺れ出す。
サリナは、思わず身を起こして見つめる。
「な、何これ……?」
文字はページから浮かび上がり、宙に漂い始めた。
まるで、インクが命を持ったかのように。
「っ……!」
サリナは反射的に本を閉じた。
(な、なに今の……!?)
冷や汗が背中をつたう。
震える手で、もう一度本を開こうとしたそのとき──
本が激しく震え出した。
「きゃっ!」
叫びながら押さえようとするが、間に合わなかった。
──次の瞬間、本は爆ぜた。
ページが風もないのに部屋中を舞い始める。
そして、足元に広がったのは巨大なインクの魔法陣。
その中心には、未知の文字と古代の紋様が輝いていた。
「な、なにこれっ!? 一体どうなって──!?」
逃げ出そうとするも、足が動かない。
空中を舞う真っ白なページ。
床に広がる黒インク。
浮かび上がる不気味な記号。
「…………っ!」
叫ぼうとしても、声が出ない。
足元から伝わる吸い込まれるような感覚に、意識が引きずられていく。
──そのとき。
意識が途切れる直前、彼女は「それ」を見た。
誰かの、影。
そして、すべては消えた。
サリナも、インクも、ページも──
あとには、無題の古びた本だけが、静かに残っていた。
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数週間後。
サリナは「失踪者」として届け出が出された。
家族は絶望し、警察も何の手がかりも得られなかった。
学校の友人たちも、彼女が授業を終えて帰ったところまでは知っている。
だが、それ以降の記憶はない。
普段からあまり社交的ではなく、友達も少なかった彼女。
遺書も残っていなかった。
──ただ、消えたのだ。
なぜ姿を消したのか。
どこへ行ったのか。
そして──また戻ってくるのか?
誰にも分からない。
だが、そのころ──
サリナは別の場所にいた。
おとぎ話のような世界で、
──物語の冒険を生きていた。