後編
莉緒の家に行くのは何年振りになるのだろう。少なくとも、中学生になってからは一度も行っていないから、三年以上は行っていない事になる。
しかも今回は遊ぶに行くわけではなく、部屋に引きこもっている莉緒を説得しに行くわけなのだから、気が重いってレベルじゃない。
「それ以前に、話すらしてもらえない可能性もあるけど……」
ともあれ──なんやかんやあって。
僕は今、莉緒の部屋の前にいた。
「さて。莉緒の部屋まで来れたのはいいけれど、ここからどうしたものか……」
ていうか、おばさんもよく部屋まで通してくれたものだ。いくら幼馴染とはいえ、数年以上来ていない上に、今は莉緒も大変な状況だというのに。
いや、だから僕に託そうとしたのか。こうして二人きりにしてくれたのも、頑なに部屋から出ようとしない莉緒を救ってくれるかもしれないと信じての事だろうと思う。
それはそれで荷が重いけども。
「ほんとに、どうしてこんな事になってしまったのやら……」
別段、こういう事態に慣れているわけでもなければ得意ってわけでもないのに。
「ここでごちゃごちゃ言っていても仕方ないか……」
などと独り言ちつつ、覚悟を決めるために何度も深呼吸を繰り返す。
そうして最後に頬を軽く叩いたあと、僕は意を決してコンコンと莉緒の部屋をノックした。
「莉緒、起きてる? 僕、蒼だけど……」
反応は…………ない。試しにもう一度ノックしてしばらく待ってみるも、やはり返事はなかった。
「あれ? 寝ちゃってるのかな……?」
寝ているのなら、いったん日を改めて再度来た方がいいかも。
なんて考えが頭を掠めた、その時──
「──起きてる……」
と。
弱々しくも、ドア越しから莉緒の声がした。
「莉緒? その、急に来てごめんね?」
「うん……」
「なんていうか、こうやって話すのも久しぶりだね。中二以来になるのかな……?」
「うん……」
と、僕の言葉に囁くような声音で相槌を打つ莉緒。
一応、僕の話を聞いてはくれているみたいだけど、顔を合わせる気まではないようだ。
できれば顔を見ながら反応を探りたかったところだけど、高望みはすまい。
とりあえず今は、話を聞いてくれているだけ御の字と思っておこう。
「それで、今日ここに来たのは、晴明から莉緒の話を聞いたからなんだ」
「………………」
莉緒の息遣いが聞こえる。ハッと息を呑むような、僕の言葉に驚いたような反応で。
「色々と心の整理が付かないと思うけどさ、せめておばさんにだけでも顔を見せてあげなよ。おばさん、すごく心配してたよ?」
「蒼ちゃんは──」
と。
ここで莉緒が、初めて頷き以外の反応を示した。
僕をちゃん付けで呼ぶ、小さい頃から変わらない懐かしい言い方で。
「晴明君からどこまで聞いたの……?」
「……妊娠したって聞いた。その相手が晴明だっていうのも」
「そう……」
「それで、昔も一度寝た事があるって聞いた。莉緒、晴明に告白した事があったんだよね? 知らなかったよ、莉緒が晴明の事を好きだったなんて。そりゃ僕が告白しても振られるわけだ」
「それは……!」
不意に莉緒が大声を上げた。さっきまでの小声が嘘のように。
でも、またすぐ尻すぼみになりながら、莉緒は言葉を紡ぐ。
「……それは、ちょっと違う。晴明君の事が好きだったのは本当だけど、振られてからはそこまで意識した事はないよ。それは今も同じ」
「じゃあ、単に僕を男として見れなかったって事? 異性として見れないってあの時は言っていたけど」
「うん。あの時はまだ、そう思ってた……」
「まだ……?」
と気になる言い方に訊き返す僕に、莉緒は問いかけに答えず「ねぇ蒼ちゃん」と別の言葉を投げてきた。
「蒼ちゃんは、まだ私の事を好き……?」
「それは……」
思わず言い淀む。
ここで安易に好きだの嫌いだのと言っていいものだろうか。莉緒は今、ただでさえ不安定な状態だ──何がきっかけとなって莉緒を追い込む形になるか、わかったものじゃない。
なんて思い悩んでいると、ドア越しから「そうだよね……」と落ち込んだような声がした。
「好きでもない男の子と一緒に寝た上に、妊娠までしちゃった女なんて嫌だよね……」
「いや、そんな事は……ていうか、僕が莉緒の事を好きかどうかってそこまで重要? どのみち男としては全然見られていないのにさ」
「違う……」
と。
予想していなかった応答に、僕は動揺した。
「えっ……違うって、どういう意味……?」
「──蒼ちゃんの事、男の子として好きって意味」
最初、幻聴が聞こえたのかと自分の耳を疑った。
だって、そんなのありえない。
莉緒が僕に好意を抱いているだなんて。
などと困惑のあまり閉口する僕に、莉緒は覇気のない声で、
「信じられない、よね……。蒼ちゃんの告白を断っておいて、今さら好きなんて言われても……」
「うん……まあ……」
「でも本当だよ? あの時、蒼ちゃんを男の子として見れないって言ったのは嘘じゃないけど、あのあと少しずつ蒼ちゃんの事が気になるようになってきて……そうしたらいつの間か、蒼ちゃんの事を好きになってたの……」
──わたしも最初は信じられなくて、ずっと何度も否定してた。
そう訥々と語る莉緒に、僕は黙って耳を傾ける。
「本当は、もっと早く蒼ちゃんに告白しようって思ってた。けど、今さらどんな顔で会えばいいかわからなくて……だから蒼ちゃんと会っても、まともに目を合わせる事すらできなくて……それで……」
「晴明に相談したって事……?」
僕がそう訊ねると、莉緒はか細い声で「うん……」と肯定した。
「晴明君だったら、蒼ちゃんとも仲がいいし、良い相談相手になってくれると思ったから……」
「それでなんで晴明と寝る事になるのさ……僕が好きなくせして、他の男と寝たって事になるじゃん」
「だって……だって……!」
と、不意にポタポタと水が滴る音がした。いや、これはたぶん落涙の音だ。莉緒が泣いているんだ。
なんて思い至った途端、莉緒がここ一番大きな声を張り上げて言った。
「……だって、寂しかったからっ!」
悲鳴に近いその大声に、僕は気圧されるように後ずさる。
「ずっと蒼ちゃんと話したかったけれど、どうやって話しかけたらいいかわからなくて……蒼ちゃんからも避けられちゃうし、もうどうしたらいいかわからなくちゃったの。寂しくて寂しくて、誰かに慰めてほしかったの……!」
「……でも、だからって避妊もなしに──」
「わかってる! わかってるよ! わたしだってバカな事をしちゃったってわかってる! でも、あの時はそんな事考えられなかったんだもん! 昔好きだった人に抱いてもらえたら、気持ちも少しは落ち着くかもって思っちゃったんだもん!」
「莉緒……」
「蒼ちゃん……蒼ちゃん……どうして今になってわたしに会いに来たの……? こんな形で蒼ちゃんと話したくなかった……会いたくなんてなかった……」
ああ──やっとわかった。
あの時、晴明の言っていた事の意味が。
晴明が言っていた「引きこもっているのは蒼と会いたくないから。でも本心では会いたがっている」というのは、こういう事だったのか。
それならそうと晴明も言ってくれたらよかったのにとも思ったけれど、莉緒の口から直接告白しないと意味がないとでも考えたのだろう。実際「俺の口からは言えない」とか口にしていたし。
せめて、それとなく僕と莉緒の仲を取り持ってくれたら状況も少しは変わったのだろうけど、僕が莉緒の事をどう思っているかなんて晴明に話した事がないし、振られた件がまだ傷として残っているのなら下手に会わせるべきじゃないと晴明なりに配慮してくれたのかもしれない。
まあ結果的には逆効果というか、完全に裏目に出ちゃった感じだけれども。
「こんなはずじゃなかった……もっとちゃんとした形で蒼ちゃんに告白したかったのに……。もう頭の中がぐちゃぐちゃだよ……だから蒼ちゃんと会いたくなかったのに……妊娠した事まで知られちゃって、わたしもう、どうしたらいいかわからない……!」
依然として涙混じりに言葉を紡ぐ莉緒に、僕はそっと寄り添うようにドアに手を添える。
少し鈍感な僕でもわかる。口ではこう言っているけれど、本当は会いに来てほしかったんだろうな、と。
でなきゃ、こうして僕と話をするわけがない──拒絶しないはずがない。
だからこそ、言わなきゃいけない事がある。
莉緒に好きと言われたからこそ、返さなきゃいけない言葉がある。
「ねぇ莉緒……莉緒の気持ちは素直に嬉しいよ。だって一度は告白して振られた女の子に好きってもらえたわけだし、嬉しくないはずがない。でも──」
僕は言う。
非情と思われるかもしれないけれど、それでも僕は言う。
「ごめん。莉緒の気持ちには応えられない」
「蒼、ちゃん……」
莉緒の嗚咽が聞こえる。胸が軋むように痛む。
振られるのもキツいけど、振るのもこんなにキツいだなんて思ってもみなかった。
けど、耐えなきゃいけない。僕には言わなきゃいけない事が──伝えなきゃいけない言葉がまだある。
「莉緒、よく聞いて。今の莉緒には、僕よりも大切な存在がいるはずでしょ?」
「それって、お腹の赤ちゃんの事……?」
「うん」
「で、でも、望んで出来た子じゃない! わたしが本当に欲しいのは、蒼ちゃんの──」
「だとしても!」
莉緒の言葉を強引に遮る。
それは決して言ってはならないセリフだから──言わせてはならないセリフだったから。
「だとしても、莉緒は自分の体とお腹の赤ちゃんの事を最優先させなきゃいけないんだよ。だって莉緒は、もう親なんだから」
しばらく沈黙が続いた。相変わらず莉緒の嗚咽は聞こえるけれど、言葉を発しようとはしなかった。
そうして僕も黙っていると、ややあって「蒼ちゃんは」とおもむろに莉緒が口を開いた。
「蒼ちゃんは、わたしに赤ちゃんを産めって言いたいの? 責任を取れって事……?」
「ううん、違うよ。産む産まないは莉緒と晴明が決める事だし、僕が口を挟む事じゃない。それに産む事が必ずしも責任を取る事だとも思わない。二人でよく考えて、それでやむなく堕ろす事を選択したのなら、それもひとつの責任の取り方だと僕は思う」
「……そんな事言われても、よくわからないよ。産んだ方がいいのかそうじゃない方がいいかなんて」
「だから、それをこれから晴明と一緒に決めるんだ。晴明だけじゃなく、莉緒のおじさんやおばさん、それに晴明の両親ともね。大丈夫……莉緒はひとりじゃない。だからひとりで抱え込まなくてもいいんだよ。もっと周りを頼っていいんだ」
「じゃあ、蒼ちゃんも……?」
「もちろん、僕も相談に乗る。だって──」
言って、僕はドアに額を当てた。
少しでも僕の気持ちが伝わるように。
「僕達、幼馴染なんだからさ」
一度、疎遠になってしまったけれど、
互いに告白を断った相手だけれども。
それでも、幼馴染という関係が変わるわけじゃないし、莉緒を助けない理由にもならない。
たとえ、それで自分を苦しめる事になろうとも。
「幼馴染……」
「うん。友達とは少し違うし、もちろん家族とも違うけれど、それでも兄妹みたいな関係だって僕は思ってるよ。だから助けてほしい時はいつでも言って。すぐに駆け付けるから」
「ほんと?」
「ほんとだよ。約束する」
「うん……ありがとう、蒼ちゃん」
と、相変わらず顔は見えないけれど、どこか微笑んでいるような声音で応える莉緒。
この分だと、もう心配する必要はなさそうだな。むろん、まだ完全に安心とは言い切れないけれど、少なくとも自傷行為に及ぶような早まった真似はしないだろう。
「それじゃあ、僕はそろそろ帰るよ。あんまり長居しても莉緒の体に障るだろうし」
じゃあね、と。
別れの挨拶を告げて踵を返した、その時だった。
ドアが勢いよく開く音と共に「蒼ちゃん!」と背中越しに莉緒の声が響いた。
「もしも……もしもわたしが妊娠してなかったら、蒼ちゃんはわたしと付き合ってくれた……?」
莉緒が問いかける。背中を向けたままの僕に。
莉緒──少し赤みがかった髪で、いつも癖っ毛なのを気にしている女の子。猫みたいに愛らしい顔立ちで、笑う時にチラッと見える八重歯が可愛くて、誰に対しても明るく接する魅力的な女の子。
そして、僕の大切な幼馴染。
振り向けば、その幼馴染の姿が見える事だろう。
けれど、僕は振り向かない。
今は髪もボサボサで目の下に隈もできているだろうから、男の僕に見られたくないだろうという配慮も当然あるけれど、それだけが理由じゃなくて。
ここで僕が振り返ってしまったら、お互いにダメになると思うから。
きっと、互いの傷を舐め合うだけの共依存のような関係に堕ちてしまうだけだ。
だから──
「もう遅い……遅すぎたんだよ、莉緒──」
ここだけは、一線を引く。
これだけは絶対に超えてはならないラインだから。
「そっか……そうだよね……」
背中から莉緒の声が聞こえる。
涙に濡れた、哀切に満ちた声音で。
「……もう、遅いよねぇ…………っ」
「──────っ!」
返事をする前に、僕は全力で駆け出した。
最後まで、莉緒の方を振り向く事なく。
■ ■ ■
「はあ……はあ……はあ……っ」
どれくらいの間、走り続けていたのだろう。
ふと気付けば、近くの土手にある橋の下にまで来ていた。
息が苦しい。酸素が足りない。呼吸が乱れる。
本当に?
乱れているのは心の方じゃなくて?
「なんで……!」
八つ当たりするように強く壁に手を突く。そしてそのまま体重をかけるように上半身を落とす。
夕暮れ時の薄暗い橋の下、誰もいない裏寂しい場所で、僕は独り言を呟く。
「なんで今になって、あんな事を言うんだよ……!」
諦めようとしていたのに。
ようやく諦めかけていたところだったのに……!
「なんで……なんで……っ」
ずるずると壁に手を突いたまま、地面に両膝を付ける。項垂れる。
僕はどうすればよかったのだろう。諦めずにもう一度告白していれば、莉緒と付き合えたのだろうか?
しかしその場合、晴明と体の関係を持っていたと知らないまま莉緒と付き合う事になる。本当にそれでいいのか?
けど少なくとも、莉緒が妊娠する事はなかったかもしれない。最悪、莉緒から晴明との関係を知らされたかもしれないけれど、それでも莉緒と付き合っていたかもしれない。
だって僕は、今でも莉緒の事が好きなのだから。
だとしても。
だとしても、だ。
すでに莉緒は妊娠してしまっている。
もしかしたら晴明とはきっぱり関係を断って、莉緒とおじさんおばさんとで子供を育てるかもしれないけれど、そこに僕が入り込む余地なんてない。あるわけがない。
所詮、僕と莉緒は幼馴染でしかないのだから。
知りたくなかった、莉緒の僕に対する想いなんて。知らずにいれば、こんなに傷付く事もなかったのに。
莉緒への恋心だって、いつか消えてくれたかもしれないのに。
けれど莉緒の告白のせいで、塞ぎかかっていた傷口がさらに広がってしまった。
つまり徹頭徹尾、どうしようもないほど──
もう、遅いのだ──……。
「うっ……ううっ……」
とめどなく涙が溢れる。頬を伝って首筋にまで垂れた涙が冬の外気によって冷やされて、すごく寒い。こんなに頬は熱いのに、まるで体だけは氷にでもなったかのような気分だ。
それなのに。
それなのに──
この行き場を失った熱情だけは、どれだけ経っても冷えてはくれなかった。
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