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【幕間】―グラント公爵①―

 ★ ★


「……やはり、私を憎んでいるのか」

「私が憎む? それは公爵様の方ではありませんか。私には公爵様を憎む理由がありませんので」


 一度は怒りを露わにするも、淡々と話す娘の態度に感情をぐっと堪えた。

 その間にもイザベルはメインの料理を食べ終え、デザートのケーキを無表情のまま口に運んでいく。

 ──あれは本当に自分の娘なんだろうか。

 今までとは違う雰囲気に、一瞬だけ疑いの目を向けた。


 なぜ、急に「お父様」ではなく「公爵」と呼ぶようになったのか。

 なぜ、食事を一緒に取る日は必ず出迎えてくれたのに、姿さえ見せてくれなかったのか。

 なぜ、憎んでいるのは自分じゃないと言い切るのか。


 訊ねたいことは山ほどあったのに、イザベルは皿を空にすると立ち上がって出て行ってしまった。

 慌てて呼び止めても、娘が振り返ることはなかった。

 それは完全な拒絶だった。

 公爵は以前とは違うイザベルに、暫く呆然としていた。


 私の方が憎んでいるだと?

 本気で実の娘の死を望んでいると?


 一体、誰がそんなことを言ったんだ。

 公爵は室内にいた使用人たちに鋭い視線を向けたが、彼らは怯えて俯くだけだ。

 つい最近一掃したばかりなのに、また使用人を入れ替える必要があるかもしれない。

 ──イザベルが変わってしまった。

 誰よりも、大切に思ってきた娘が──。



 生まれたばかりのイザベルを両手に抱いた時、壊してしまいそうで恐ろしくなった。

 公爵にとって小さな娘は、どんな高価な宝石にも敵わない唯一の宝物となった。

 翌年には息子のダミアンも誕生し、グラント公爵は満足していた。

 妻が、平民の使用人と出ていくまでは。


 前グラント公爵夫妻は恋愛結婚し、二人の息子にも恵まれ、幸せな家庭を築いていた。

 だが、他人にも自分たちにも甘かった彼らは、公爵家を陥れようとしていた輩に隙を与え、大きな負債を背負ってしまった。

 輩の中には親しい友人もいたようだ。

 信頼していた友に裏切られたことで前公爵夫妻は心労で倒れ、長男に跡を継がせると早々に隠居した。

 彼は父親のようにはなるまいと、自分に対しても厳しい姿勢を崩さず、本当に信頼できる者以外は距離を取った。

 その一方で、公爵は大きな事業を抱えていた伯爵家に近づき、政略結婚を持ち掛けた。

 貴族の間ではよくある話だ。

 伯爵家も、名門であるグラント公爵家と繋がりを持てることに喜んでくれた。

 妻となった相手は両親のような恋愛結婚ではないものの、公爵家を救ってくれた伯爵家の娘であるため、夫として誠実に一生涯を捧げる覚悟だった。

 しかし、娘と息子ができたとは言え、公爵家の負債を返済しながら、自身の仕事もこなしていた公爵は、連日帰宅できないほど多忙な日々を送っていた。

 唯一の楽しみは、帰宅した時に報告される子供たちの話だった。

 今日はようやく立ち上がった、一人で歩き始めた、言葉を喋るようになった、と嬉しくなる報告に、緩みそうになる表情を必死に隠した。

 何度もその場に赴いて見守ってやりたいと思ったが、口惜しいことに我が身は一つしか無い。

 妻にも時間を作ってやれず、ただ彼らが何不自由なく過ごせるようにと、疲れた体に鞭打って働く他なかった。

 けれど、イザベルが十歳の誕生日を迎える前に、妻はいなくなった。

 彼女が平民の使用人と駆け落ちしたと報告を受けた時、公爵は激しい衝撃を受けた。



 不貞を働いていた妻が消えた。

 それ以上に公爵の心を打ち砕いたのは、妻が平民の使用人と逃げ出したという事だ。

 ──名誉も富も遥かに自分の方が上だった。

 妻はグラント公爵家の女主人として、充実した生活を送っているものだと思っていた。

 何より、彼女だって二人の子供を大切にしていたのではないのか?

 それなのに、どうして平民の男の手を取ったのか。

 なにが彼女を狂わせたのか。

 これまで家族や公爵家を守ってきたのに、妻は他の男を選んだ。

 夫や子供を見捨てて。

 彼女は女として満足させてくれる男と一緒になったのだ。

 それは公爵のプライドをズタズタに引き裂き、グラント家にも深い影を落とした。



 妻がいなくなったという噂は、社交界でも随分話題になったが、平然を装うことである程度は牽制できた。

 しかし、公爵夫人の座を狙う家門や女性は多く、蹴散らすのに随分神経を使った。

 公爵は、屋敷を出ていった妻のことは探さなかった。

 見つけたところで、絶望的なほど壊れてしまった夫婦の関係は元に戻らない。修復は不可能だ。

 彼は、妻が二度と戻ってこられないように、彼女の居場所を全て奪った。彼女の私物は燃やすよう命じ、公爵夫人がいたという形跡すら消した。

 もちろん彼女の実家は謝罪してきたが、すでに公爵を敵に回したという話が出回り、少しずつ──だが、確実に没落の一途を辿っていった。

 容赦のない公爵のやり方に、社交界でもこの話はタブーとされ、命が惜しければ逆らうなという暗黙の了解ができていた。

 けれど、完璧に思えた行動も、子供たちの前では頭を悩ませることになった。

 母親を失った子供たちにどう説明するべきか。

 きっと泣かれるだろう。

 もし母親を求められたら、なんて答えればいいのだろうか。

 私たちは見捨てられたのだ、と言えるわけがない。同時に、妻に逃げられた父親だと思われるのも怖かった。

 子供たちに軽蔑されたら、今度こそ築き上げてきた己の城が一気に崩れ落ちるような感覚がした。

 今はまだ話さなくてもいいだろう。いずれ彼らも知る時がくる。

 それまでは母親がいなくなったということだけ伝えて、なるべく寂しい思いをさせないように使用人を増やし、優秀な教育係をつけ、遊べる友人を持てば、自然と母親の記憶は薄れていく筈だ。

 公爵は変わらず忙しい日々を送っていたが、月に数回子供たちと食事できる時間を設け、限られた時間を一緒に過ごした。

 その時だけは疲れも、嫌なことも忘れられる。

 家のことを除けば、娘と息子さえいてくれれば他に望むものは何も無い。

 誰よりも子供たちを愛し、二人を守れるのは自分しかいないと思っていた……。



 グラント公爵家の令嬢イザベルは、王女のいない国の中で最も高貴な未婚の女性だった。

 国王夫妻は、王族でもないのに傲慢に振る舞うイザベルを快く思っていなかった。一方、公爵もまた幼馴染みとはいえ、イザベルが王子と頻繁に過ごしていることを良く思っていなかった。

 だから、イザベルと第一王子であるオーティスの婚約話が持ち上がった時、両家とも素直に頷くことができなかった。

 イザベルは外見や教養こそ問題なかったが、成長していくたびに傍若ぶりを発揮し、使用人たちを困らせていた。

 母親がいない寂しさを紛らわそうとしていたのかもしれない。

 その気持ちを知らず、公爵令嬢に対して陰口を叩き、わざと距離を置いて関わらないようにしていた使用人たちの存在は把握していた。

 イザベルが彼らにクビを言い渡した時、公爵は多目の退職金と推薦状を持たせていた。

 長らく仕えていた執事は良い顔をしなかったが、命じられたまま従っていた。

 結局、オーティスは伯爵令嬢と婚約することが決まり、公爵は内心安堵していた。

 イザベルがオーティスに抱いていた気持ちは知っていたが、いずれ王妃になることを考えれば娘には無理だった。

 軍務大臣として王族の傍で仕事をこなしてきた公爵は、王室が抱えている闇の深さまで知っている。そんな場所に大事な娘を嫁がせたくはなかったのだ。

 イザベルには、ずっと傍にいてくれるような相手と一緒になってほしい。

 自分のような男ではなく。そして、いつまでも笑っていてほしいと願った。

 しかし、公爵の想いとは裏腹に、イザベルは片思いしていたオーティスに執着するようになっていった。



「父上、オーティス王太子殿下から姉上を引き離すべきです」


 屋敷にいる僅かな時間の合間に息子のダミアンを呼んで、領主に必要な知識や公爵家が手掛けている事業の内容を教えていた。そこで、ダミアンは緊張した面持ちで言ってきた。


「……お前も随分王太子殿下に入れ込んでいると聞いたが」

「それはいずれ仕える身として!」


 あくまで個人の感情はないと主張するが、イザベルとダミアンの不仲は伝え聞いている。

 公爵は鋭い視線でダミアンを見やると、息子は顔を背けて俯いた。

 姉弟として仲良くしなければいけない二人が、屋敷の中で対立している方が放っておけない。


「告げ口をする前に、まずお前が姉に対する態度を改めるべきだ。使用人まで味方につけて、孤立するイザベルを見るのがそんなに楽しいか?」

「──…っ」

「話は以上だ。部屋に戻れ」


 図星を言い当てられて顔を真っ赤にしたダミアンは、言い掛けた言葉を呑み込み、公爵の執務室から出て行った。

 プライドが高いのは悪いことじゃないが、素直になれないのは問題だ。改心してくれることを願ったが、あの調子では難しいだろう。

 だが、ダミアンが告げてきた話を無視することもできなかった。

 第一王子のオーティスが王太子となり、婚約者が決まった時、イザベルは激しいショックを受けていた。

 数日間は寝込み、部屋から一歩も出て来なくなった程だ。

 ようやく姿を見せたかと思えば、イザベルはさらにオーティスの後をついて回るようになっていた。

 王室からも苦情が寄せられている。

 ダミアンが言ってきたのも、もしかしたらオーティス本人から直接言われた可能性もある。

 公爵は天井を仰いで、深い溜め息をついた。


 教育の過程で向き合う機会の多い息子と違い、イザベルとはじっくり話す機会を作ってこなかった。

 大切にしたい反面、段々と妻に似てきた娘を前にすると、自分が平民の男より劣っていると惨めな気分にさせられた。

 その娘に、オーティスへの恋心を諦めろと言える自信がなかった。


 ──妻に逃げられた男が何を言うのか、と。


 だが、その甘さがイザベルを更に追い詰め、社交界でも孤立させてしまうことになる。

 誰もが次期王太子妃を支持し、イザベルの味方は誰一人としていなかった。

 そして公爵もまた、いけないと分かっていても自分の気持ちを押し切ろうとするイザベルに、他の男と逃げていく妻の姿を重ねてしまった。

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