嫌われ者令嬢とアキの終わり⑤
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『アキちゃん? 一緒にいるけど友達じゃないよ。先生がグループに入れてあげてって言ってきたから、そうしてるだけ』
『アキ? べっ、別に好きじゃねーし! 家が近所っていうだけで、一緒に遊んでただけだし。だいたい、自分よりでかい女、誰が好きになるかよ!』
『あの子、いつも暗いし目つき悪いのよね。睨まれている気がして極力近づきたくないわ』
友達だと思っていた。
気心の知れた幼馴染みだと思っていた。
何でも話せる担任の先生だと思っていた。
そう思っていたのは自分だけで、実際は誰一人として私を必要としていなかった。
嫌われていた、疎まれていた。
──何もしてないのに。
ただ存在しているだけ。
それだけで心を踏み躙られる。いくら耳を塞いでも聞こえてくる声や嘲笑に、どれだけ好かれようとしても無駄なのだと理解した。
自分を見ようとしない両親と同じように、何を言っても変わらない。
次第に、流れに身を任せて生きていく術を覚えた。
この世は面白いほどに、成るようにしか成らないようにできている。
私が独りでいるのも初めから決まっていたのだ。
それなのに、手を伸ばして触れてはいけないものに触れようとするから痛い目に遭う。
だったら最初から諦めてしまえば、真っ平らな水面に荒波が立つこともない。
求めなければ虚しい思いも、悲しい思いもしないで済むのだ。
「お嬢様、旦那様のお出迎えは宜しかったのですか?」
散歩から部屋に戻ってくると、程よい疲れと、空腹が満たされたことで睡魔に襲われた。
私はベッドに寝転がり、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
次に「お嬢様」と声を掛けられて寝覚めると、窓の外は茜色に染まっていた。
目の前にニーナがいなかったら、イザベルに憑依したのはやはり夢を見ていたのだと安堵していたに違いない。
体を起こした私は欠伸を噛み殺し、着崩れたドレスやボサボサになった髪を直してもらうために鏡の前に座った。
「いいのよ。向こうも嫌っている娘の顔を、何度も見たくないでしょうから」
「そんなこと……っ! 旦那様はイザベルお嬢様のことを、いつも想っていらっしゃいます!」
「見舞いにも来ない父親が?」
「それは……」
どんなに嬉しい言葉を並べられても、結局は行動が全てだ。
心配していた、大切にしていた、と言われたところで、公爵は一度もそんな素振りを見せたことはなかった。
イザベルの父親であるグラント公爵が感情的に動いたのは、社交界で失態を犯した娘を罰した時だけだ。
普段は娘の存在など、彼の中にはない。
そういう意味では自分の両親と同じだ。
見た目や立場は異なっていても、イザベルと共通することが見つかって少しだけ安心する。
喜べる話じゃないが、下手にフレンドリーな家族の娘に憑依していたら、私はすぐにボロを出していただろう。
イザベルも似たような境遇だからこそ、同じようにふるまえた。
唯一違うのは、私はイザベルのように愛に飢えた少女でもなければ、孤独を恐れる性格でもなかった。誰にも期待を抱かず、諦めこそが最も楽な方法だと考える人間なのだ。
ニーナが身支度を整えてくれていると、先ほどの執事が迎えに来た。
以前は、前公爵から仕えている執事がいたのに、イザベルとして目覚めてからまだ一度も見ていない。
目の吊り上がった蛇のような男で、公爵とダミアンに対しては丁寧だったのに、イザベルのことだけは軽視していた。否、憎んでいたのかもしれない。
──多くの使用人を辞めさせたから。
傍若無人なイザベルを、彼は高貴な公女とは見ていなかった。
だから、公爵に命じられてイザベルを物置部屋に閉じ込めようとした時、彼は歓喜に打ち震えたような顔をしていた。ようやく巡ってきた機会に、よほど嬉しかったのだろう。
思い出すだけで、体に寒気が走って私はイザベルの腕をさすった。
イザベルにとってあの三日間は地獄だったはずだ。
自分でも耐えられたかどうか分からない。
そして、今からその罰を与えた相手と一緒に食事を取らなければいけないと思うと、胸がずしりと重くなった。
私がダイニングルームに到着すると、公爵はすでに席に着いていた。
イザベルより鮮やかな真紅の髪に黄金色の瞳を見ると、嫌でも彼が父親なのだと自覚させられる。
とても十八歳の娘を持つ父親とは思えないほど若々しく、座っていても鍛えられた肉体と長身であることが窺える。それから鼻筋の通った秀麗な顔立ちは、社交界でも有名だ。
結婚する前はさぞ多くの女性に囲まれていたことだろう。
私は公爵に向かって「お帰りなさいませ」と、ドレスの端を持ち上げた。
寒気は酷くなる一方だ。
イザベルが自分の父親に対して恐怖心を抱いている証拠だ。
今すぐにでも逃げ出したいのを堪え、私は平常心で席に着いた。
席は公爵の斜め横だった。
もっと離れた場所でも良かったのに、今日はいつもより近い。
ただ、同じ席に弟のダミアンはいなかった。昼間のやり取りを考えると、少しだけ安堵する。
「私の出迎えに姿を見せなかったな」
「疲れて休んでおりました」
椅子に座ると早速料理が運ばれてきた。
食事の作法はイザベルの記憶だけが頼りだ。体が勝手に動いてくれることを願うしかない。
──ああ、部屋だったらもっと美味しく食べられるのに。
野菜スープを口にしたが、まったく味がしなかった。
「……体調はどうだ」
「優秀な担当医のおかげで良くなりました」
いつもはあまり話しかけてこない公爵が、今日は珍しく口数が多い。
なんとなく見られているという視線を感じたが、私は手元の料理だけに集中した。
質問にも間髪を容れずに答えていく。早くこの場から抜け出すには何も考えず、出された料理をただ口に入れて食べ終えることだ。
「全く、馬鹿なことをしたものだ」
機械的に手だけを動かしていると、公爵はため息混じりに言った。
確かにイザベルの行動には問題があった。
馬鹿だと罵られても仕方ない。
イザベル本人だったら怒りや悔しさにカッとなっていたかもしれないが、幸いなことに私はイザベルではない。彼女の感情が流れてきても落ち着いていられる。
「──ええ、私も深く反省しております」
緊張で乾いた喉を潤すためにグラスの水を含んだ私は、イザベルの父親に視線を向けた。
同じ金色の双眸が重なる。
私はグラスを置いて皮肉そうに口元を歪めた。
「ですから、今後も罰として物置部屋に入っていれば宜しいでしょうか? ──公爵様の気が済むまで」
「なん、だと……」
「お父様」ではなく「公爵様」と。
本当の父親ですら数えるほどしか呼んだことがないのに、他人の父親をそう呼ぶことはできなかった。
当然、娘であるイザベルから肩書きで呼ばれた公爵は、居心地が悪そうに顔を顰めた。
散々「お父様」と呼んでも、他人のように聞き流してきた癖に。
私は笑い飛ばしそうになるのを抑え、直後に運ばれてきた牛肉にフォークとナイフを入れた。
「前回はたったの三日でしたが、次は公爵様が望む通り死ぬまで入っていましょう」
「──イザベルッ!」
ダンッ! と激しい音を立てて、公爵がテーブルを叩いた。
貴族のマナーには疎い私だって、今のは行儀が悪いと理解している。けれど、ここでは公爵を叱れる者はいない。
使用人たちは激昂する公爵に震え上がっていた。壁際に並んでいる使用人たちは見覚えのない者たちばかりだったが、少しだけ気の毒に見える。
「お前は、自分が何を言っているか分かっているのか!?」
「公爵様こそ、なぜ私を助けたのですか。あのまま放っておけば不運な事故死として片付けられたものを」
でも、私は喋るのをやめなかった。
やはり本物の父親じゃないからか。それともイザベルの気持ちに同調したからか。
私にとっても父親は、居ても居なくても一緒だった。
──きっと、これからも必要のない存在だ。
公爵は落ち着き払った娘に、思いの外ショックを受けているようだった。まさか、娘自ら「死なせてくれれば良かったのに」と言われるとは思わなかったようだ。
「本気で言っているのか……?」
「公爵家に泥を塗る娘など、これ以上置いておく必要もないでしょう。お望みでしたら、明日にでも出ていきますので」
「……やはり、私を憎んでいるのか」
「私が憎む? それは公爵様の方ではありませんか。私には公爵様を憎む理由がありませんので」
だって、イザベルじゃないから。
公爵の娘は死んでしまっている。この先、彼らがどんなに彼女を求めても、二度と向き合うことはできない。もう手遅れなのだ。
私はメイン料理を食べ終え、デザートのケーキを口に運んだ。
急いで食べたせいか胃がキリキリしてくる。後で胃薬が必要になるかもしれない。
でも、これでやっと窮屈な食事から解放される。
皿を空にした私は、椅子から立ち上がった。
「──食べ終わりましたので、お先に失礼致します」
「イザベル!」
一足先に食べ終わった私は、公爵を残してダイニングルームから出た。
はしたないと思われても仕方ない。
けれど、娘を見つめてくる公爵の目から一刻も早く離れたかったのだ。
公爵の向けてくるものが怒りや憎しみであっても、無関心の世界で過ごしてきた私にとっては慣れないものだった。
私は両腕をさすって、恐怖に耐えたイザベルを労った。
彼女は愛に飢えていたが、何一つ得られることなくこの世を去ってしまった。
可哀想なイザベル──だから、今度は。
「私だけは、愛してあげる」
イザベルという、嫌われ者の令嬢を。
誰よりも分かってあげられるのは自分だけだと決意するが、私は自分の頬が濡れていることに気づくことはなかった。