番外編Ⅱ-④
『あの……イザベルって、誰……?』
──最初は、混乱しているのだと思った。
頭を打って生死をさ迷っていたのだから、後遺症が出ても不思議ではない。
ただ生きてさえいてくれるなら……。
それだけで良かったのに。
『お加減はいかがですか?』
『……もう大丈夫よ。心配かけたわね』
『そんなことありません! お嬢様が無事目覚めてくれて安心しました……っ』
『……ありがとう。おかげで生きていたわ』
『記憶も問題なくて良かったです。やはり昨日のお嬢様は混乱されていたんですね。すぐに主治医を連れてきますから、そのままお待ち下さい』
目覚めてから翌日のこと、イザベルは本来の自分を取り戻していった。
記憶も彼女しか知り得ないことを覚えていた。口調だってイザベルそのものだ。
けれど……。
「お父様」だった呼び方は「公爵様」に変わり、衝突を繰り返してきた弟とは、何を言われても冷たくあしらうだけ。犬猿の仲だった幼馴染の子息とは仲良くなり、そして──心から愛していた王太子は、未練もなく想いを断ち切ってしまった。
そして──
『──ニーナ』
そう呼ばれるたび、言い様のない違和感だけが積み重なっていった。
★★
グラント公爵領──。
馬車の窓から燦燦と降り注ぐ陽光が、ニーナの頬を照らしていた。
降り立った屋敷は、息が詰まるほど静かだった。
老執事だけがイザベルに扮したニーナを出迎え、ひっそりと屋敷の中へ入っていった。
イザベルが目覚めてから今日まで専属メイドとして仕えてきたニーナは、主人の元を離れ、護衛の騎士たちと共にグラント公爵領にある公爵邸にやって来た。
目的は、イザベルを尾行する輩を彼女から引き離すこと。そのため入れ替わったニーナは、この公爵邸で主人に代わり、公爵令嬢を演じなければならなかった。
最初は元孤児に貴族令嬢など荷が重いと思ったが、ストラッツェ公爵家の子息リオネルに「誰よりもイザベルのことを分かっているお前が適任だ」と頼られ、複雑な気持ちになった。
……本当に分かっていたら、今もお嬢様はお嬢様のままかもしれない。
なのに、傍についていながら、引き留めることができなかった。
ニーナは、変わってしまったイザベルのことを訊きたかったが、リオネルが彼女を見つめる表情が、切なくなるほど愛しい者に向けるそれで、それ以上尋ねることができなかった。
一方、イザベルはその後も本物のイザベルのように振る舞った。
それでも、人に物を頼むときに遠慮する癖、他人の顔色を窺う癖、何でも一人でこなそうとする癖は、無意識に出てしまうものだ。
とくに彼女は、相手の反応をよく見ていた。空気が少しでも変われば、不安に駆られるような繊細な心の持ち主なのかもしれない。
だからこそ、ニーナは注意深く、これまでと変わらないように仕えた。
彼女が、自分と同じように、イザベルを大切にしようとしたのが伝わってきたからだ……。
リオネルの計画を遂行するために、ニーナはイザベルのように背筋を伸ばして屋敷へ入っていった。
使用人たちの視線は、王都の屋敷にいる使用人たちより冷ややかだった。
「元孤児らしいわ」「公女様があのような者を傍に置いておくなんて」「あの我儘姫には丁度いいのさ」──そんな囁きが聞こえてくるたび、胸の奥がきゅっと痛んだ。
けれど、ニーナは視線を上げて堂々と階段を上がり、案内されたイザベルの部屋に向かった。
老執事が「イザベルお嬢様が帰られる時、誰も入れないようにと命じられたため、誰も入れておりません」と教えてくれた。
イザベルは一度だけ「頭を冷やすように」と公爵領に送られたことがあった。けれど、ニーナは同行できず、彼女がここでどんな風に過ごしてきたか分からない。
ただ、この部屋は今──イザベルが最後に使ったきり、誰もその痕跡を消すことなく残っているということだ。
恐る恐る扉を開けて中へ足を踏み入れた瞬間、ニーナは息を詰めた。
逃げ場を失った薔薇の香りが、空気の中に沈んでいた。
窓から差し込む日差しもなければ、木のぬくもりも感じない。イザベルの気配だけが、閉じ込められていた。
ニーナは家具に気を付けながら、閉め切られたカーテンを開くと、レース越しに差し込んだ光が部屋を薄く照らした。
振り返って部屋全体を見渡すと、立ち止まっていた時間が静かに動き出す。
入った瞬間は、公爵令嬢の部屋とは思えなかったが、それぞれの位置に置かれた大きな家具を感じさせないほど、広々とした空間に圧倒させられる。
ふと視線を走らせば、テーブルの上に空になったティーカップと、転がった羽ペンと、書きかけの手紙があった。
ここで、ニーナの知る「イザベルお嬢様」が過ごしていた。
それだけで、視界が歪んだ。
「お、嬢様……」
そこはイザベル自身の思い出がたくさん詰まった部屋だった。
愛する、大切なお嬢様の。
ニーナはテーブルに近づき、薄く埃の被った手紙を震える手で持ち上げ、そっと文字に目を通した。
『──ニーナへ。貴女の髪結いが一番好きよ。でも、それを言うと、きっと調子に乗るから言わないでおくわ。それから、もし私がいなくなったら――』
そこで、インクの跡が途切れていた。
書こうとした言葉が、最後まで形にならなかったのだろう。
インク瓶の蓋は開いたまま、ペン先が乾いている。
まるで、書きかけの想いをそのまま残し、立ち上がって出て行ったようだった。
「──……っ」
体が床に落ちるまでの間、これまで張り詰めていた何かが一気にほどけていく。
堪えていた感情が、堰を切ったように溢れ出した。
「……お嬢様っ! どう、して……! ずっとお傍で仕えるって……約束、したのに……っ!」
喉を焼くような嗚咽がこみ上げる。
あの日、何もできなかった後悔が再び胸をえぐる。
ニーナは泣きながら、静寂の中で手紙を抱きしめた。
「……お嬢様、どうして……っ! なぜ、思い留まってくれなかったのですか……っ!」
もっと、お嬢様と話がしたかった。
もっと、笑う顔が見たかった。
もっと、髪を結ってあげたかった。
もっと、もっと、傍で……一緒に過ごしたかった。
床に膝をつき、顔を伏せ、あふれ出た涙が頬を伝う。
これまで必死に我慢してきたものが、遠く離れた地で一人になったことで、自身を覆っていた鎧がすべて脱げ落ちてしまったようだ。
誰もいないこの部屋なら、泣いてもいい気がしたのだ。
もちろん、慰めてくれる人はいない。
この世界の、どこにも。
──お嬢様は、遠くへ旅立ってしまったのだから……。
いつの間にか、明るかった空は夕暮れの柔らかな日差しが差し込んでいた。
その柔らかな光の中で、ニーナは静かに微笑んだ。
「……私はずっと、お嬢様のメイドです」
ニーナは涙を拭い、赤い髪を取り外して立ち上がった。
泣き切ったら、あとはお嬢様のメイドであるニーナに戻るだけだ。
この場所で、あの人の生きた証を守り続けるために。
そして今を生きる「イザベルお嬢様」が、同じ選択をしないために。
──それが、一生仕えると誓った主人の願いだから。
ニーナは手紙を丁寧に折り畳んでポケットにしまい、イザベルで満たされた部屋に一礼して、静かに掃除を始めた。
それは誰かと語らうように、夜が明けるまで続いた──。
ニーナちゃんの番外編でした~
前編後編で終わる予定が、気持ちが溢れて長くなってしまった…
次から第二章を更新していきます、引き続きよろしくお願いします!
コミックス④巻も発売しておりますよ!





