番外編Ⅱ-③
その日、王城から正式な書状が届いた。
レクラム国の王太子オーティスが、マウロ伯爵家の長女フィオーナと婚約したという報せだった。
唯一の王位継承者であるオーティスの婚約は、国民なら祝うべき吉報だ。
しかし、オーティスに片想いしていたイザベルにとって、それは世界が音を立てて崩れ落ちるような瞬間だった。
「……どういうことなのっ!? どうして、伯爵令嬢ごときがオーティスと婚約できるのよ!」
次の瞬間──イザベルの部屋から、陶器が割れる音が響いた。続けて本の山が倒れる音に、泣き叫ぶような声。
屋敷中へ響き渡るような声に、廊下を行き交うメイドたちは怖がって誰も近づこうとしない。
けれどニーナだけは、ためらわなかった。
「お嬢様、失礼いたします!」
勢いよくドアを開けた瞬間、顔の横を何かが掠めた。
後ろの壁に激しい音がすると、足元に陶器の破片が散らばった。視線をわずかに下げれば、投げつけられた花瓶が砕けている。
それでもニーナは両手を握りしめて自身を奮い立たせ、泣きじゃくるイザベルに近づき、彼女の前に膝をついた。
「……放っておいてよ、ニーナ。貴女には、私の気持ちなんか……っ」
「いいえ、お嬢様をお世話するのが私の務めです。床は危険ですから、ソファーに移動しましょう」
物が散乱した部屋は、朝に掃除したときとはまるで違っていた。
ニーナがイザベルの肩に両手を添える。すると、言葉では突き放しても、ニーナの指が触れた瞬間、イザベルは糸が切れたように嗚咽を漏らした。
「……これでも、努力したのよっ! 王太子妃に相応しい女性になれるように、毎日勉強して……! でもっ……全部、無駄だったのよ! 私なんて、誰からも愛されないんだわ……っ!」
誰かに褒められるわけでもなく、誰かに認められるわけでもなく、ただ好きな人のために。
人知れず努力してきたイザベルの哀しみが胸を突いたが、かける言葉が見つからず、ただ寄り添ってあげることしかできなかった。
★★
王太子殿下オーティスは、イザベルにとってすべてだった。
公爵家にやって来たばかりのニーナですら、そう思ってしまうほどイザベルは彼に心酔に近い想いを寄せていた。
それだけに、彼が他の女性と婚約したことが広まると、イザベルは変わってしまった。
現実を受け入れず、気が触れたように問題を起こすイザベルに、家族間での衝突が絶えなかった。それでなくても顔を合わせることが少ない、公爵家の家族たち。
じっくり話し合う時間もなく、お互いに言いたいことをぶつけ合う日々が続き、すれ違いが起きるのは必然だった。
一度は「頭を冷やしてきなさい」と、グラント公爵領へ送られたこともある。
しかし、戻ってきたイザベルは、好きな相手に会えない環境から、食事もろくに摂らなくなり、さらに悪化してしまったように思う。
そのせいで、決して起きてはいけない事件が起きてしまった。
王宮の舞踏会へいつも以上に美しく着飾ったイザベルが父親の公爵と帰宅した時、これまでとは明らかに違う雰囲気に、屋敷内に緊張が走った。
『──娘を物置部屋に』
何が起きたのか説明はされなかった。しかし、愛する娘を物置小屋に閉じ込めるほどのことが起きてしまった、ということだけは分かった。
ニーナはイザベルのために毛布と、キッチンに忍び込んで食べ物をポケットに隠した。
しかし、他の使用人によってイザベルの元へ行くどころか、自分も捕らえられて屋根裏部屋に軟禁されてしまった。いくら体をぶつけてドアを押し開けようとするも開かず、なぜこんなことになったのか、一睡もできなかった。
ただ救いだったのは、物置を命じた公爵本人が「早朝には物置部屋から出して、ベッドで休ませるように」と、執事に伝えていたことだ。
少なくとも翌日の朝には、イザベルは温かなベッドに戻ることができる。
この一晩さえ過ぎれば──けれど、翌日の夜になってもニーナは解放されなかった。
不安に駆られてドアを叩き続けると、同じくイザベルに仕えていた年上のメイドが、ニーナの食事を運んできてくれた時にこっそり教えてくれた。
「お嬢様はまだ物置部屋に監禁されているわ。……食事どころか、水も与えられていないらしいわ」
「……そ、そんな……! お嬢様は、グラント公爵家の大切な公爵令嬢です! もし、お嬢様の身に何かあれば、私たち使用人全員のクビが飛んだっておかしくありません!」
ニーナが必死で説得するも、年上のメイドは恐れを成したのか「わ、私だって何とかしたいけど、執事長が……っ!」と言って、食事をその場に落とし、逃げ出すようにその場から離れていってしまった。
ニーナは「待ってくださいっ!」と叫ぶも、遠ざかっていく足音に、ドアに両手をついて崩れ落ちるように座り込んだ。
「どうしよう、お嬢様が……っ」
不安で全身がぶるっと震えた。
その後も屋根裏部屋の扉が開かれることはなく、ニーナは天窓から夜空を見上げた。
物置部屋はここより環境が悪く、外の様子を見ることもできない。食事どころか、水すら与えられていないとすれば命だって危ぶまれる。
ニーナは星空に向かって両手を組み、必死にイザベルの無事だけを祈った。
外が騒がしくなったのは、イザベルが監禁されてから四日後の夜だった。
屋根裏部屋の鍵が静かに外れる音がして、それからパタパタと離れていく足音が聞こえた。
ニーナが近づくと、扉が開いた。
もしかしたら年上のメイドが開けてくれたのかもしれない。けれど、今はそれを気にしている余裕はなかった。
急いで階段を下りて一階へ向かうと、公爵を出迎える使用人たちが玄関ホールに揃っていた。
馬車から降りて玄関ホールに入ってきた公爵は、そこにいつも出迎えてくれる娘の姿がないことに、わずかに落胆の表情を見せた。
今も娘が監禁されているなど思わなかっただろう。
ニーナは公爵の元へ向かって、無我夢中で駆けだしていた。
「旦那様っ! どうか、ご慈悲を!」
ニーナが現れるとは思っていなかった他の使用人たちは驚きを隠せず、その中の一人がニーナを引き留めて床に押し付けた。
それでもニーナは必死で訴えた。
「イザベルお嬢様をお助けくださいっ! このままでは、お嬢様が死んでしまいますっ!」
公爵は多忙さから屋敷を留守にしがちだが、彼が誰よりも娘を愛していることは見ていれば分かった。
自分には血の繋がった親兄弟もいなかったけれど、孤児院の院長先生たちが子供を世話するときに見せる愛情のこもった目と同じだった。
深夜、眠りについたイザベルの部屋の前で立ち止まって、娘の幸せを心から願うように一度だけ扉に手をついてから離れていく公爵の姿を見たことがある。その行動には、確かな愛が詰まっていた。
ニーナが泣きながら叫ぶと、公爵はすぐに動いてくれた。
急いで物置部屋に向かうと、ぐったりと倒れ込んでいるイザベルを見つけたときは息が止まるかと思った。
幸い命に別状はないと医者に言われたときは、全身から力が抜けた。
けれど、一度死にかけた彼女は、自暴自棄になっていたのかもしれない。どこにそんな力が残っていたのか、目を離した隙にイザベルは公爵家から姿を消してしまった。
屋敷中を探し回ったニーナにとって、屋根裏部屋で閉じ込められていたときより長く感じる日だった。
不安と焦りを募らせていると、そこに真っ青な顔をした公爵がイザベルを抱えて戻ってきた。
物置部屋へ入れるように命じた時の彼とは違い、取り乱した様子で主治医を呼べと叫ぶと、娘を部屋のベッドに寝かせた。
……一体何が起きて、何があったのか。
ニーナは血の気のないイザベルをその目にした瞬間、冷水をかけられたような気分だった。
「……お嬢様……?」
主治医が公爵に向かって「ご覚悟を──」と伝えているのが聞こえた。
……一体なにを覚悟すればいいのか。
一生を捧げてもいいと思った人、大好きなお嬢様、ちょっと困らせてくることもあるけど、それでも嫌いになれないお嬢様。
──こんなに愛しているのに……それだけでは、足りなかったですか……?
ニーナはほぼ眠らず、イザベルにつきっきりで看病した。
孤児院で手を差し伸べてくれた日から今日まで、まだ何も返せていないというのに。
──絶対に、失いたくない。
その強い想いが通じたのか、イザベルは息を吹き返すように目を覚ました。ニーナは嬉しさのあまり顔をくしゃくしゃにしながら喜んだ。
しかし、体を起こしたイザベルは周囲を見渡した後、少し困ったような表情で首を傾げた。
『あの……イザベルって、誰……?』
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