番外編Ⅱ-②
『イザベルの支度を頼む。俺たちはすぐにここを発つ』
『承知しました。さあ、イザベルお嬢様』
イザベルが首都から離れ、途中で立ち寄った宿屋。
彼女を尾行する監視の目を欺くため、ニーナは仕えていた主人から離れた。
リオネルに連れられて遠ざかっていくイザベルの背を見送ったニーナは、彼女が着ていたドレスに袖を通す。
わずかに温もりが残っていたドレスからは、知らない香りがした──。
★★
――あの日、この手で掴んだ夢は、夢ではなかった。
孤児院を離れる朝、院長はニーナの手を握って言ってきた。
「貴族の屋敷は厳しいところだからね。辛いと思ったら、いつでも戻ってくるんだよ」
「大丈夫です。私には、お仕えするお嬢様がいますから」
ニーナはその足でグラント公爵邸に向かった。
高くそびえる門、その奥に広がる大きな屋敷に、視線が釘付けになる。だが、門の内側に入った途端、空気が重く変わる。
隅々まで手入れの行き届いた庭に、まるで「お前のような者は似合わない」と言われている気がして、鞄を持つ両手に力が入る。
門衛から使用人が使う出入口を教えられ、中へ入ると年配の執事が現れた。見るからに規律に厳しそうな男は、冷たい眼でニーナを見下ろしてきた。
「……君が、孤児院から来たという少女か」
言葉は丁寧だが、どこか棘があった。
ニーナは慌てて頭を下げる。
「はい、ニーナと申します! イザベルお嬢様にお仕えできるよう、精一杯務めます!」
「……たしかにお嬢様には、お前のような出自の人間がお似合いだ」
執事は皮肉そうに鼻で笑い、くるりと背を向けた。
ニーナは首を傾げつつも、その背中を追った。
廊下の隅々まで敷かれた絨毯は、歩く音を吸収し、屋敷の中にいる者たちの気配を消し去っている。
目に映るのは、絵画と磨かれた窓、そして飾られた花々――けれど、孤児院にはあった温もりが感じられなかった。
やがて執事が扉の前で立ち止まり、重々しくノックした。
「お嬢様。孤児院からやってきた者をお連れしました」
「──入りなさい」
その声は、妙に優しく感じられた。
扉が開かれると、机に向かって羽ペンを走らせていた少女が顔を上げた。
赤い髪、金の瞳、美しい顔立ち――ニーナが見た光が、そこにあった。
途端に、視界が滲む。
「……やっぱり来たのね」
「はい、ニーナです。お嬢様が、引き取り先がなかったら屋敷に来なさいと……」
イザベルは少しだけ眉を上げ、ニーナの横に立っていた執事に片手を振って下がらせた。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
「そう。……貴女を養子にしたいという申し出をすべて断って、わざわざ私のところへ来るなんて。まったく、なんて物好きなのかしら」
その時、イザベルの口元が緩むのを、ニーナは見逃さなかった。
「お嬢様以外のところへ行くつもりは、初めからありませんでした!」
「……言っておくけど、今のは褒めてないわよ」
「はい!」
素直に返事をすると、イザベルは近づいてきて、ニーナの頬にそっと触れてきた。
「お、嬢さま……」
「せいぜい励むことね。──ここは孤児院のように甘くはないわよ」
★★
「……また、新しい子が入って来たそうよ」
「お気の毒さま。あのお嬢様に仕えることになるなんて、長く持たないわね」
──翌朝、ニーナは臙脂色の制服に白いエプロンを身に着け、鏡の前で深呼吸をした。
見習いメイドとはいえ、公爵家の使用人が着る制服も上等な布が使われていた。ただ、自分に似合っているかどうかなんて考える余裕はなかった。
ようやくこの日を迎えることができたのだ。
それが嬉しくて、胸の奥が高鳴って仕方なかった。
「今日から私も、公爵家の一員だわ。……よしっ!」
気合を入れて廊下へ出ると、すぐに冷たい視線が突き刺さってきた。
廊下の隅では、年上のメイドたちが小声で囁き合っている。ニーナが通ると、揃って同情の眼差しを向けてきた。
──あの我儘お嬢様の担当になったらしいわよ、と。
事実、グラント公爵令嬢に仕えた教育係やメイドたちは、これまで何人も辞めさせられている。彼女は気難しく、傲慢で、癇癪持ち。屋敷内では密かに『我儘姫』と呼ばれていた。
それでもニーナは迷わなかった。
彼女の本当の優しさを知っているのは自分だけだから。
見習いメイドとして働き始めてからしばらく経ち、基本的な礼儀や掃除を一通り学んだその日、ニーナは初めてイザベルの部屋の掃除を任された。
室内は広く美しいが、物が多い。どれも繊細な飾り物ばかりで、壊したら大変なことになる。ニーナは、緊張と嬉しさで手が小さく震えた。
「そこの花瓶、倒さないように気をつけなさい。前の子はそれで泣いて辞めたの」
「はいっ、気をつけます!」
返事をしながら、ニーナは布を握る手に力を込めた。
ニーナが動くたび、イザベルの視線がちらちらとこちらに向く。そのたびに鼓動が跳ねる。
やがてイザベルがふっと息をついた。
「……ねえ、ニーナ」
呼ばれて顔を上げると、イザベルが鏡の前で赤い髪を梳いていた。
金色の瞳が、鏡越しにこちらを見ていた。
「貴女、髪を結うのが得意だったでしょ。……今日は、任せてあげるわ」
その言葉に、ニーナは思わず息を呑む。
孤児院で、いつかこの人の髪を結いたいと繰り返し夢見てきた。
(……ようやく、この手で)
ニーナは両手に櫛と髪紐を持ち、静かに一礼した。
イザベルの後ろに立って迷いを断ち切るように赤い髪を持ち上げると、その柔らかさに目を瞠ってしまう。
「……どうしたの?」
「い、いえ……お嬢様の髪があまりに美しくて……」
「お世辞なんて聞き飽きたわよ」
そう言いつつも、イザベルの耳たぶがほんのりと赤く染まっていた。
ニーナは気づかないふりをして、器用に髪をすくい上げ、ねじり、留めていく。
「……悪くないわね」
言葉とは裏腹に、鏡越しの彼女の表情がわずかに緩んだ。
その頬が紅く染まっているのを見て、ニーナの胸がきゅっと締めつけられる。
「……ありがとう、ニーナ」
「お、お嬢様……?」
「なんでもないわよ、髪を整えてもらって気分が良かっただけよ」
そう言いながら、イザベルは立ち上がり、裾を翻して部屋を出ていった。
残されたニーナは、鏡の前で深く一礼した。
──今日、あの方の髪を結ったのは自分だ。
その誇りが、何よりの幸福だった。
公爵邸に来てから、何度も過ごしてきた夜。屋敷の灯りが一つ、また一つと消え、広い廊下は静寂に包まれていった。
ニーナは自室に戻る途中で、ほんのりと香る薔薇の匂いがして思わず足を止めた。
それは、イザベルの部屋の前にだけ漂う香りだ。
昼間に掃除したばかりの扉の向こうから、灯りが漏れている。
「……まだ起きていらっしゃるんだ」
声をかけるべきか迷いながら、静かに耳を澄ます。
紙の擦れる音と、ペンの走る音。それから、わずかに聞こえた呟き。
「……どうしてあの人は、私を見てくれないの」
儚く聞こえてきた声は、恋をしている少女の本音だった。
ニーナは咄嗟にドアノブを掴みかけたが、すぐに手を離した。
(私の仕事はお嬢様を支えること……)
イザベルが恋い慕う相手は、使用人の間でも噂になるほど有名だ。
……彼女が抱く想いの深さも。
こうして夜遅くまで勉学に励むのは、彼に釣り合う女性になろうとしていたからだ。それを止める資格は、自分にはない。
ニーナは音を立てないように扉を締め、静かにその場を離れた。
窓の外では、黄金色に光る月が浮かんでいた。
しかし、月明かりで蒼く染まった雲がその輪郭を覆い、屋敷はゆっくりと闇夜に沈んでいった……。
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連載が開始される前に第二章を週一ぐらいで更新していく予定です。
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