番外編②
グラント元公爵夫人──イザベルの母親を名乗る女性が、公爵邸にやって来たのは数日前のことだ。
公爵とダミアンは出かけていて、屋敷には私だけだった。
生憎、イザベルの母親の記憶はなく、元公爵夫人の顔を知る使用人もほとんど残っていなかった。それでも中に通されたということは、疑いようのない何かがあったのだろう。
私は客人の待つ応接間に入ると、一人の女性がソファーに座っていた。公爵夫人だったとは思えないみすぼらしい服装に、痩せた体と血の気のない顔色。それでも、赤い瞳と顔立ちがダミアンによく似ていた。
「ああ、イザベル……っ! 私の娘、会いたかったわ!」
私を見るなり、母親と名乗った女性は駆け寄ってきた。
足元へすがりついてくる勢いの彼女に、傍にいた護衛の騎士が制止する。彼女は驚いた顔で見上げてきたが、私の態度は変わらなかった。
「夫人をソファーに」
床に膝をつく夫人を再び座っていた場所に戻してもらい、お茶の準備を指示する。公爵がいたら敷地を跨がせることもしなかったかもしれない。
けれど、私はイザベルの母親かもしれない女性を無下にすることができなかった。友達の母親という感覚に近いかもしれない。だから、追い出すことができなかった。
だが、夫人には不満だったようだ。なぜこんな仕打ちをするのかと、驚きの表情を隠そうともしなかった。
私は騎士を下がらせ、室内には数人のメイドを残した。ここへ入ってくる前に、騎士の人数を増やして廊下での待機を伝えておいたから、何があっても大丈夫だ。念のため、王宮にいる公爵にも知らせるように言っておいた。
「それで、なぜこちらにいらしたのですか?」
「……新聞で貴女の記事を読んだわ。皆、イザベルの話で持ち切りよ。母としてこれほどうれしいことはないわ」
そう言って夫人は、ポケットからよれよれの古紙を取り出した。新聞の一部を切り取ったそれは、イザベルの肖像画が掲載された記事だった。
王太子を救った英雄として称えている内容に、私は口元を歪めた。
「貴女とダミアンを置いて出て行ってしまったことを、今でもとても後悔しているわ。なんて馬鹿なことをしてしまったのか……」
何度も読み返したのだろう──しわしわになった新聞の切り抜きを、大切そうに引き伸ばす夫人の姿に、母親の顔が重なって見えた。
不快ではないものの、奇妙だった。どこの母親も我が子を思うとき、あのような優しい表情を浮かべるのだろうか。
それが、自ら捨てていった子供であっても。
「夫人が私たちを捨てたのは事実です。恨むなというほうが無理な話でしょう」
「それには訳が……!」
「──ですが、私も女です。貴女にも事情があり、女としての幸せを優先したことを咎めるつもりはありません」
母親だって一人の女性であり、一人の人間だ。
アキの母親だって、子供より仕事を選んだ。彼女は子供を産んで育てるより、仕事でキャリアを積むほうが幸せだったからだ。
そして、目の前の女性も家に帰ってこない夫より、寄り添ってくれる男性を選んだのだ。
「ありがとう、イザベル……。小さかった貴女が、こんな立派なレディになって」
夫人は娘の成長に涙を浮かべ、汚れた袖で目元をぬぐった。その仕草ひとつ、ひとつを白々しく思えるのはなぜだろう。
「でも、これからは母親である私が、貴女の傍についていてあげるわ。今まで寂しい思いをさせてしまったわね」
「──……」
今さら元に戻れると思っているのだろうか。
夫と子供を見捨てた女が、何もなかったように同じ場所に立てると本気で考えているのか。私は頭痛がしてきそうな額を押さえた。
「その必要はありません、夫人」
室内の空気がピリッと張り詰めた。控えていた使用人も表情を歪ませ、自分と同じ気持ちであることに安堵する。
ここにいる誰もが、公爵夫人の帰宅を望んでいなかったのだ。
「今の私に、名ばかりの母親は必要ないと言っているのです」
「イザベル……っ!」
冷たく言い放つと、夫人はテーブルを叩いて立ち上がった。怒声を上げたことで、メイドたちが駆け寄ってくる。騎士まで室内に飛び込んでくる始末だ。
私は片手を上げて彼らを制した後、夫人に向かって薄笑いを浮かべた。
「どうして自ら出ていったのに、戻れると思ったのですか?」
「私は貴女たちの母親なのよ?」
娘の反応が予想外だったのか、夫人は額を押さえてソファーに尻をついた。所作や仕草に貴族らしさが残っている。
しかし、いくら血の繋がりがあると言われても、目の前にいる人物が母親だとは到底思えなかった。やはり入れ替わった私には受け入れようと決めた人以外、赤の他人なのだ。
「……もし、夫人が一緒になった男性と幸せな家庭を築いていたら、ここには戻ってこなかったと思います」
「それは……」
「出て行った先で幸せになれなかったから、私たちの元へ戻ってこようなどと、都合がよすぎます。夫人の身勝手な行動で、私たちがどれだけ傷ついたか分かりますか。──何があっても、貴女はここへ来るべきではなかった」
逃れた先で幸せになっていたら、夫人は戻ってこなかったはずだ。新しい家庭で満足したら、捨ててきたもうひとつの家庭を顧みることはなかったはずだ。
夫人が出ていかなければ、イザベルは愛に執着することもなく、普通の令嬢として育っていたかもしれない。公爵やダミアンだって、傷つくことはなかった。
どこまでも自分勝手で卑怯な考えに、私は冷たく言い放った。
「我が公爵家に、夫人の戻ってくる場所はありません。お父様がお戻りになる前にお帰りください」
夫人に、戻れる場所があればだが。けれど、それを気にしてやるほど人間できていない。
私が「夫人をお連れして」と命じれば、騎士たちは待っていたとばかりに夫人を取り囲んだ。
「待っ……、イザベル! イザベル、どうか話を! 放して、放しなさい!」
「最後に教えて差し上げます。お父様が再婚されないのは、貴女のことが忘れられないからです。──もちろん、憎しみのほうですが。ここへいても命の保証はできません。早々に離れたほうが賢明でしょう」
「な……っ」
実の真相は分からないけれど。
暴れる夫人に騎士の一人が剣に手を掛けた瞬間、夫人は短い悲鳴を上げた。命が惜しいなら夫人は今すぐ逃げたほうが良いだろう。戻ってきた公爵が、どんな行動に出るか分かったものではない。
夫人は真っ青な顔になって大人しくなり、騎士たちに引きずられるようにして出て行った。
──さようなら、イザベルの母親だった人。
公爵邸に平和が戻ると、私は気が抜けたように座り込んだ。すると、真っ先にニーナが駆け寄ってきた。
夫人がいる間、ニーナの殺気がびしびしと伝わってきて、公爵より先に彼女が殺してしまうんじゃないかと気が気ではなかった。夫人がいなくなった後も「やはり今からでも……っ!」と、鼻息を荒くするニーナをなだめた。
それからしばらくすると、今度は公爵が慌てた様子で飛び込んできた。
「イザベル、無事か!」
「ええ、私は大丈夫です」
こちらの世界で私の父となった公爵は、普段と変わらない私の姿に安堵の息をついた。夫人とは違って、偽りのない本物の表情だ。
私は夫人がやって来た経緯や、話した内容を伝えた。公爵は無表情ながらも、赤い瞳は怒りで燃え盛っていた。
その後、公爵が元妻に対してどのような対応を取ったのか、私は知らない。知る必要もない。顔を合わせることは、二度とないだろうから。
「それより、本日の夕食はこちらで召し上がりますか?」
「……ああ、そうだな。ダミアンが帰ってきたら、三人で食べよう」
「はい、お父様──」
私の家族は、ここにいる。
この世界で生きていくと決めた瞬間から。
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