外伝⑤
「ところでお父様って、再婚しないのかしら?」
「──げほっ、げほ!」
舗装された路面をゆるやかに走っていく馬車から外を眺めていた私は、ふと気になっていたことをダミアンに尋ねた。
いくつもの書類とにらめっこをしていたダミアンは、私の突然すぎる質問に思わず咳き込む。
「ど、どうして急に、そんなことを……⁉」
「だって、お父様が独り身になってから随分長いじゃない? 私たちの知らないところで、そういう話はなかったのかしらと思って」
私はダミアンの手から滑り落ちた書類を拾い上げた。そこに書かれた文字や数字を見るだけで、乗り物酔いしてしまいそうになる。
ダミアンもまた散らばった書類を直しながら、一瞬言葉にしてもいいか悩む仕草を見せた後、口を開いた。
「父上は破天荒すぎる姉上の世話で手一杯でしたから」
「……反論、できないわね」
その破天荒な姉というのは、本物のイザベルであって私ではないのだけれど。
イザベルとして生きることを決めてからは、過去の行いに対する非難も受け止めるようにしていた。ただ、時々イザベルに文句のひとつでも言いたくなることはある。こういう時は、とても。
「実際のところ、そういう話はいくらでもあったはずです。ただ父上は忙しい人ですから、肝心のお相手と顔を合わせる時間もなかったのだと思います」
確かに、イザベルの記憶を探ってもグラント公爵の周囲に、女性の影はまったくと言っていいほどなかった。
しかし、公爵と結婚すれば高位貴族の仲間入り。すでにダミアンという後継者もおり、跡継ぎを産むプレッシャーからも解放されることから、公爵夫人の座を熱望する貴族女性は多かったはずだ。
それでも公爵は、新しい妻を迎えることなく独り身を貫いていた。
「前公爵夫人のことを、忘れられないなんてことは……」
「ないですね。父上に限ってそれは考えられません」
イザベルの母親に未練でもあるのかと思ったが、息子であるダミアンがそこまで言い切るのだから、本当なのだろう。
そういえば、以前に公爵のことを「お父様」と呼ばなかった時は指摘されたが、今の私にとって母親となる女性を肩書きで呼んでもダミアンは何も言ってこなかった。
それだけ彼も、母親には何の思い入れもないのかもしれない。
私は拾った書類をダミアンに渡した。
「そういうダミアンは、婚約しないの?」
「また唐突ですね。……婚約者ならいましたよ──破談になりましたが」
「……え? どうして」
私は無意識に書類を持つ指に力をこめると、受け取ろうとしたダミアンの手が止まった。
よく似た姉弟が、お互いに目を丸くして見つめ合う。
すると、ダミアンが書類から私の指を一本、一本引き剥がしていきながら、深いため息をついた。
「姉上がいかに、僕に興味がなかったのかが分かりました」
「……待って。その破談はまさか、私のせいなの?」
姉にこそ知っておいてほしかったと言いたげな表情に、嫌な予感がして聞き返した。くしゃくしゃになった書類はダミアンの手に渡り、元の位置に戻る。
けれど、何も聞かなかったことにはできなかった。尋問するような目で訴えると、ダミアンは唸るようにして答えた。
「王宮のパーティーで起きた出来事の後、婚約者から破談の申し出がありました」
「なぜ受け入れてしまったの……? 格下の家門なら繋ぎ止めておくこともできたでしょうに。姉とは縁を切る、とでも言えば良かったじゃない。公爵家の跡継ぎは貴方なのだから」
王太子オーティスの誕生日を祝うパーティーで、イザベルが断罪された話はあまりにも有名だ。顔も、名前も知らない令嬢たちから、数多くの非難が浴びせられ、事実のみが糾弾された。
そして、それがイザベルの死を招く引き金となった。
私としては、あまり思い出したくない記憶ではあるものの、もしかしたらイザベルを批判していた令嬢の中に、ダミアンの婚約者もいたのかもしれない。
益々頭痛がしてきて額を押さえると、ダミアンは「姉上には関係ありません」と言ってきた。
──破談の原因が、その姉なのに?
唇を尖らせて「関係ない」と顔を背けるダミアンに、私は素直に謝った。姉がそんな問題を起こさなければ、ダミアンが婚約者から捨てられることもなかった。
イザベルに憑依したばかりの頃は、冷たい態度をとって突き放してきた。それが、いざ向き合ってみると自己嫌悪に陥ることばかりだ。たとえ、自分の犯してきた問題でなくても、周りはそう見てくれない。
ダミアンに対する言動の数々を思い出して、さらに両手で顔を押さえた。
羞恥と後悔でどうかなってしまいそうになると、目の前から「プフッ」と吹き出して笑う声がして、指の間から覗いた。
「姉上が気にすることはありません。元から乗り気のしなかった縁談です」
「でも、公爵家としても繋がりを持ちたかった家門ではなくて?」
恋愛結婚が大半だった前の世界とは違い、身分制社会であるこちらの世界では政略結婚が一般的だ。
以前の暮らしから、身分に関係なく好きになった人と一緒になってほしいと願うものの、後継者として厳しく教育されてきたダミアンが自分の気持ちを優先するとは思えない。
それならば、利益に繋がる良縁に恵まれればと思ったが、破談になっているとは知らなかった。
──なんてことをしてしまったのだろう。
弟の縁談すら、全力でぶち壊していったイザベルが憎い。これは擁護できない、とばかりに天井を仰ぐと、ダミアンはさらに笑った。
「……笑いごとじゃないわ」
「僕としては、破談になってくれて良かったと思っています。それでも、悪いと思うなら……僕に新しい婚約者ができるまで、リオネル公子との婚姻は待っていてくれますよね、姉上?」
体を前に倒して顔を近づいてきたダミアンが、悪戯な笑みを浮かべてきた。
私は、婚約する前から結婚を推し進めようとしてグラント公爵に叱られたリオネルを思い出し、口元を引きつらせる。
「えぇ……と、それは……」
このことを知られたらまた面倒なことに巻き込まれるような気がして、何とかしなければと思うのだった。





