外伝①
ひっつき虫が、実は虫ではないことを教えてくれたのは近所に住む幼馴染みだった。
誰かに教えてもらったのか、それともテレビなどで得た知識なのか。
よくよく調べてみれば植物の種子で、うっかり衣服につけてしまうと取るのに苦労する。子供のイタズラにも使われるそれは「ばか」とも呼ばれていた。
──なぜ急に、そんな話を思い出したのか。
私は用意されたお茶も飲めず、ソファーに座って天井を見上げていた。
無の境地、とまではいかないが、考えたら負ける、と悟りを開くことで、乗り越えられる壁もある。
婚約者が腰にくっついたまま離れようとしない時は、とくにだ。
自ら余計なことはせず、詮索もしない。面倒臭いことに巻き込まれることは、目に見えていたからだ。
周囲の空気が死んでいたとしても、私は何もしない……したくない。
しかし、無視したくてもできない理由があった。
つい昨日のこと、婚約者の家から手紙が届いたのである。
手紙を送ってきたのは、ストラッツェ公爵家の公爵夫人だった。──未来の義母になる方だ。そんな方から至急だという手紙が送られてきて、無視する勇気はなかった。
渋々手紙に目を通すと、達筆な文字で「我が不肖の息子のことで、公女様にお願いがあります──」と、冒頭からすでに嫌な予感は当たっていた。
公爵夫人は言葉を選びながら、丁寧に、丁寧に伝えてきたが、要約すればこうだ。
「うちの馬鹿息子が公女様に夢中で、公爵領に帰りたくないと駄々をこねて困っています。後継者教育の一環で、領地の視察などもさせたいのですが、離れるのが嫌だと怒って言うことを聞いてくれません。どうか、公爵領へ行くように説得していただけませんか……?」
そんな内容の手紙だった。
私は読み終えた後、公爵夫人からの手紙だということも忘れてくしゃくしゃに丸めていた。
「……どうやって説得しろと」
母親である人でもできなかったことを丸投げされて、私はため息をついた。
だいたい、すでに何かを察した婚約者がこの有り様だ。
屋敷にやって来るなり、私のところへ現れて抱き着いてきた。引き剥がそうにもがっちりとホールドされて、ひっつき虫より厄介この上ない。
とはいえ、このままでは困る。
身動きが取れないし、何より足が痺れてきた。
「リオネル、足が痛くなってきたわ」
「……」
これだけ密着していて、聞こえないはずはない。
私はイラッとしてリオネルの耳をつねった。
「痛……っ! なんでつねるんだ⁉」
「貴方が無視するからでしょ。ほら、さっさとどいて」
邪魔よ、邪魔と手で振り払う仕草を見せると、リオネルは嫌々体を起こして横に座った。
すると、専属メイドのニーナがよれよれになったドレスの皺を伸ばし、新しいお茶を淹れてくれた。さすが訓練されている。
「……ベルは、俺と一か月近く会えなくても平気なのか?」
そんな深刻そうな顔で言われても。
けれど、つい先日もたった三日会えなかっただけで死にそうになっていたから、リオネルには死活問題なのかもしれない。
捨てられた子犬のような表情に、心は揺れ動く。
でも、お茶を淹れていたニーナが吹き出し、口元を引き攣らせる他の使用人たちを見たら、ここは心を鬼にするしかないと思った。
「領地に帰らなきゃダメよ。貴方のせいで、公爵夫妻との関係が悪くなったらどうするの? 私が婚約者を囲って帰らせないようにしているなんて、変な噂が立ったら困るわ」
「お前に囲われるなら本望だ。それに俺たちが結婚したら父上たちは公爵領に隠居するって言っていたし、顔を合わせるのも年に数えるぐらいだ」
「そういう問題じゃないわ」
婚約してからまだ日も浅いというのに、すぐに結婚の話へ誘導しようとする。
それに今の息子の言葉を聞かされて、公爵夫妻が怒らないか心配だ。
「とにかく、貴方は自分の領地に帰ること」
「……その間、ベルはどうするんだ?」
今にも泣き出しそうな顔で訊ねられて、言葉に詰まる。これでは誤魔化すこともできないではないか。
私はため息をついて、正直に答えた。
「私も良い機会だから、グラント公爵領に行くつもりよ。ダミアンが行くというから、それについていくの」
……隠していたわけではない。ただ、言うタイミングがなかっただけだ。
けれど、リオネルは明らかにショックを受けた様子だった。その顔には「信じられない」と書いてあるように見えて、予想通りの反応にぐるりと目を回した。
やはり、自分が犠牲になるしかないようだ。
「分かったわ。リオネルが自分の領地に行ってくれるなら、一つだけ貴方の言うことを聞いてあげるわ」
「──なに、本当か⁉」
さっきまでの落ち込みは一体どこへ。
一瞬で態度を変えたリオネルに、周りにいた使用人たちが「ああ、お嬢様……」と同情した眼差しを向けてきた。同情するなら、代わってほしい。
「無茶なお願いは聞けないわよ。私ができる範囲で……」
「それならお前と旅行がしたい! ほら、結婚する前に行くやつがあるだろ⁉」
お願い、と言う前に、リオネルが興奮しながら言ってきた。鼻と鼻がぶつかってしまいそうなほど寄せられた顔に、思わず息を止めてしまう。
「……婚前旅行のこと?」
「そう、それだ! 前に行ったルーアナ街でもいいし、ベルの行きたい場所があるならそこでもいい」
逃がさないとばかりに両腕を掴まれ、距離を取ることもできなかった。私はリオネルの圧と勢いに流されて、気づけば頷いていた。
ただ断る理由もなく、こちらの世界に慣れるために旅行は悪くないと思った。リオネルがそこまで考えてくれたとは思わないけれど。後に、ニーナが呆れながら「あれは、お嬢様を独り占めしたいだけです」と言ってきた。
それでも、目の前で子供のようにはしゃぐリオネルを見たら、自分まで嬉しくなってきた。
そういうところは昔と変わらない。強引ではあるものの、誘った相手を嫌な気分にさせないところが彼の魅力のひとつだ。
私もまたどんな旅行になるのか、少しばかり胸を躍らせていると、リオネルが顔を覗き込んできた。
「なに……?」
「なあ、もう一つだけお願いしたいことがあるんだけど、頼んでもいいか?」
欲張りではないか。
しかし、リオネルは続けて「これは、ダミアンになんだけど……」と言ってきて、とりあえず聞くだけ、聞くことにした。
頼みたいことがあるなら本人に直接言えばいいのにと思ったが、改まって頼み事を伝えられると私は困惑した。
瞬時に、望みが薄いと判断したからだ……。