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王宮前に馬車が到着し、リオネルのエスコートを受けて外へ出ると、周囲は瞬く間にざわついた。
すぐさま王室の騎士たちが駆けつけ、馬車を取り囲む。一度は尻尾を巻いて逃げたものの、今度はそうもいかない。彼らにもプライドというものがある。
剣を抜いてイザベルの身柄を要求してくると、公爵家の騎士たちに睨まれ、一触即発な雰囲気になった。
「私なら平気よ。行ってくるわ」
アキはイザベルらしく片手を上げて味方の騎士たちを制すると、自ら王室の騎士の前に出た。
堂々とした様子に、王室の騎士たちはたじろぐ。しかし、すぐにイザベルの身柄を確保しようと乱暴な手つきで腕を掴んできた。
「おい、丁重に扱え。まだ彼女が犯人だと決まったわけではない。今後のために身の振り方は考えたほうがいいぞ」
「……リオネル」
かわいそうに、リオネルに目をつけられた騎士たちは顔面蒼白になっている。
ただ、今の言葉が功を奏したのか、とても重罪を犯した犯罪者を連行しているとは思えないほど丁寧な扱いになった。
それでも連れて行かれたのは地下の牢屋だ。分厚くて重いドアには鉄窓があり、中はゾクッとするほど寒かった。
「すぐに暖かな布をお持ちします」
「ありがとう」
ぶるっと体を震わせると、騎士が気を利かせてくれた。お礼を言えば、騎士は真っ赤な顔をして一礼すると、来た道を慌てて駆けて行く。
アキは何もない牢屋に嘆息し、壁際に寄って腰を下ろした。
リオネルから離れて一人になった途端、不安が襲ってくる。大丈夫と言い聞かせても、一歩間違えれば殺されるかもしれないのだ。
気づけば死んでいたアキの時とは違い、大勢の前で首を刎ねられるかと思うと恐怖で体が震えた。
アキは両膝を抱えて頭を下げた。こうやって体を丸めていないと、奮い立たせたものが逃げていってしまう気がした。
しばらく蹲って時間が経つのを待っていると、牢屋の外から人の声がした。視線を上げるとドアが開いて、覚えのある人物が入ってきた。
「……王太子、殿下」
現れたのはオーティスだった。
彼は騎士から預かってきた毛布を受け取ると、アキに近づいてきた。
「イザベル、なぜこんなことを……」
オーティスは毛布を広げてアキの肩にかけてきた。その表情は、愚かなイザベルを憐れんでいるように見えた。
アキは眉根を寄せ、掛けられた毛布を引き剥がして床に叩きつけた。
「王太子殿下、私は何もしておりません」
なぜイザベルは、こんな男に執着していたのだろう。
初めて顔を合わせたときは、イザベルの感情が流れ込んできて胸が張り裂けそうになったのに、今は何も感じない。むしろ、嫌悪感すら覚える。
リオネルから、イザベルがオーティスに執着するきっかけになった事件を聞かされたからだろう。
彼は、イザベルの純粋な気持ちを弄んだのだ。
「しかし、君がやったという証言が……。イザベル、正直に話してくれ。私を想ってやったというなら、私は王太子の権限を行使してでも君を守る。悪いようにはしない」
本物のイザベルだったら、どうしただろうか。オーティスを憎むこともなく、彼が差し出してきた手を掴んだだろうか。
けれど、今イザベルの体にいるのは別人だ。オーティスに想いを寄せていたイザベルはもういないのだ。
「だから、今も私を愛していると言ってくれ。イザベル、君の気持ちが知りたい」
アキは頬に触れてくるオーティスの手を振り払った。
好きでもない相手に触れられるのは、こんなにも気持ちが悪いものなのか。鳥肌が立って吐き気すら催した。
『もし、オーティスが和解を持ちかけてきても、頷かないでくれ。不安で心細いのは分かる。でも、俺たちがイザベルの無実を証明するから』
ここへ来る前にリオネルが言ってくれなければ、生き残るために気持ちが揺れ動いていたかもしれない。
目の前にいるのは軽蔑するべき最低な人間だ。
「提案はお断りいたします。私は、無実です。裁判が開かれれば、それが明らかになるでしょう」
「イザベル、私は君のためを思って……っ!」
「私のためを思うなら、無実を信じるべきではありませんか? ──話は以上です。王太子殿下が長居する場所ではございません、早くお戻りください」
「イザベル……」
そう、彼は最初から自分のためにイザベルが悪事に手を染めたと決めつけていた。否、そうであることを願っているのだ。本当に最低だ。
散々突き放しておきながら、気持ちが自分に向いていないと感じた途端、手のひらを返したように愛を求めてくるなんて。
顔を背け、これ以上話すことはないと口を閉ざせば、オーティスは苦虫を噛みつぶしたような顔で牢屋から出て行った。
息が詰まるような雰囲気から解放され、アキはホッと胸を撫で下ろした。手のひらにじっとりとした汗が滲んでいる。
アキは倒れ込むようにして床に転がった。冷たい石の床に体温が奪われる。それでも、オーティスが持ってきた毛布を使いたいとは思わなかった。
閉ざされた空間で一人ぼっちになると、嫌な記憶ばかりが浮かんでくる。アキのときに経験した嫌な思い出や、ほんの少しの後悔。
無事にここを乗り越えたら、今度こそ後悔しない生き方をしたい。
「リオネル……貴方の言う通りにしたわ。だから、早く私を救いに来て──」
ここは寒くて、心まで凍えてしまいそうだ。
アキはルーアナ街で過ごした日々を思い出した。短い滞在ではあったが、これまでの人生で一番充実した時間だった。
美しい湖も、賑やかな市場も、美味しいご飯も、どれもアキを楽しませた。
そして、そこには自分を唯一知る幼馴染みがいた。
時には忘れたい過去であり、時には心強い味方であり、時には傍にいて、時間を共有したい相手だった。
いい加減、意地を張らず素直に認めるしかない。
全身から伝えてくる彼の愛に──それに、応えたい。
体は冷え切っているのに、なぜか胸元だけ温かくなってくると、ドアが軽く叩かれた。最初は警戒したが「公女様」と呼ぶ声に、起き上がってドアに近づいた。
「どうか、ご内密に。ストラッツェ公爵家の公子様よりお渡しするように言われました」
「リオネルが……?」
すると、格子の間から外套が押し込まれる。さらに「あと、こちらも」と、騎士が遠慮がちに手のひらサイズの黒い熊のぬいぐるみを渡してきた。
用事を済ませた騎士はそそくさと去って行ったが、受け取ったアキは次の瞬間顔に火がついたような羞恥心を味わった。
「な、な……また子供扱いして……っ!」
ぬいぐるみには小さな手紙がくくりつけられ、リオネルの文字で「心細いと思って」と書かれていた。
何もかもお見通しなところも気に喰わないが、一度だって貰ったことがないぬいぐるみを受け取り、嬉しいと思ってしまった自分が一番悔しい。
アキは大股で牢屋の中を歩き、落ちていた毛布を床に敷き、その上に腰を下ろした。
「全然心細くないし! 私一人だって平気だわ!」
それでも受け取った外套を体に羽織る。外套からはリオネルの香りがして、体温が一気に上昇した。
ぬいぐるみに八つ当たりしたくても、黒い毛に覆われたそれにアキ自身が浮かんできて投げつけることもできなかった。
代わりに、リオネルに対する文句を吐きながら、アキはぬいぐるみを抱き締めてその気恥ずかしさをやり過ごした。