【幕間】―フェランド―
その日、鮮やかな深紅の髪が目の前に飛び込んできた。
王太子付きの騎士になったばかりで、慣れない環境に四苦八苦していた頃だ。
そこへ現れたのが、レクラム国唯一の公爵令嬢だ。王太子の幼馴染みでありながら、彼女の悪評は社交界でも有名だった。
王太子オーティスの護衛を任されていた騎士が、彼女のせいで辞めさせられたという噂もある。
面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだと思っていた矢先、王宮内でイザベルに遭遇し、フェランドは小さな溜め息をついた。
しかし、イザベルはフェランドを見つけるなり、目を輝かせた。
「ちょうど良かったわ!」
イザベルは屈託のない笑顔を見せると、フェランドの背中に身を隠した。
「あ、あの、公女様……?」
「シッ。オーティスが来たら知らないフリをして」
唇に人差し指を当てて見上げてくるイザベルに、フェランドは耳まで真っ赤になりながら頷いた。
彼女の悪い噂の中には、男を虜にしてしまう魔術を使っていると、そんな馬鹿げた話がある。
けれど、整った顔立ちに吊り上がった金色の瞳が、愛らしい小悪魔のようで可愛かった。一瞬で心を奪われてしまった男が、あのような噂を流したことも理解できた。
イザベルはフェランドの背中に張り付き、体を丸めた。大きなフェランドの背中にすっぽり隠れてしまう彼女の姿は、まるで小動物か何かで、自然と守らなければという気持ちにさせられた。
そこへ、イザベルの名前を呼びながら走ってくるオーティスの姿があった。
「フェランド、良いところに! イザベル……グラント公爵令嬢を見なかったかい?」
「い、いえ……私は」
「……そうか。それほど遠くまで行ってないはずなのに。もし見かけたら、私の執務室へ戻るように伝えてくれ」
「……畏まりました」
護衛も連れず、再びイザベルを探しに向かうオーティスの背中を見送ったフェランドは、安堵の息を吐いた。
……王太子殿下に嘘をついてしまった。
今更ながら、どんな罰になるのか不安が押し寄せる。冷や汗の滲む額を押さえ、軽く後ろを振り返るとイザベルが必死で笑いを堪えていた。
「ふふ、……アハハ! 貴方のおかげで無事に王宮から脱出できそうだわ」
「あの、一体何をされたんですか……?」
「んー……そうね、貴方も共犯ということで教えてあげるわ。オーティスったら、仕事中に落書きをしていたのよ。それが下手すぎて、これも一種の才能ね」
そう言ってイザベルは後ろ手に隠し持っていた紙を出し、それで口元を隠した。フェランドから見て、裏返しになった紙にどのような落書きがされていたのか分からない。
ただ、それ以上は見てはいけない気がして「どうか殿下に返してあげてください。彼に嫌われてしまいますよ?」と切実に訴えた。
すると、イザベルは悩むような表情を浮かべた後、肩を竦めた。
「……貴方が正しいわ、オーティスに返してくる。からかい過ぎて嫌われたくないもの」
「公女様はその、殿下のことをお好きなのですか? ええ、と……その、そういう意味で」
イザベルがオーティスに執着し、一方的に想いを寄せているのは貴族なら誰もが知っていることだ。
そして、叶わない恋に身を捧げる彼女をあざ笑い、憐れむ声は後を絶たない。振り向いてもらうために、オーティスの元へ足しげく通うイザベルに、フェランドもまた同情を抱かずにはいられなかった。
けれど、イザベルはふっと真顔になって、呟くように言った。
「私は、オーティスを愛しているわ。……彼を諦めるぐらいなら、死んだほうがマシよ」
そう答えるイザベルの目は本気だった。死すら覚悟した顔は、少女とは思えないほど大人びていた。
愛する者のために身を捧げる彼女に、心臓を鷲掴みされた気分だ。
それからフェランドは、幾度となくイザベルと顔を合わせた。時々言葉も交わし、彼女のためにできる限りの協力もした。
近づけば離れていき、離れればさらに遠ざかっていくイザベルに、日が経つにつれ恋愛感情を抱くようになっていた。
だが、イザベルの瞳に映るのはオーティスだけだった。
ストラッツェ公爵家の公子リオネルでさえ、彼女の目には映っていなかった。一緒にいる光景を見ていれば、リオネルがイザベルに特別な想いを抱いているのは分かった。
もし、彼女の気持ちを独占することができたら。
自分だけのものにできたら、どんなに幸せだろうか。
たった一人を、あれだけ深く愛せる女性だ。政略結婚が当たり前の立場で、イザベルの愛を独り占めできたら、満ち足りた結婚生活が送れるのではないか。
悪評が目立つ今だからこそ、彼女を心から愛してやれるのは自分だけだ。
イザベルへの想いを募らせていく中、妹のフィオーナとオーティスの婚約が決まった。
王家からの正式な発表に、イザベルはオーティスから完全にふられたことになる。いくら公爵令嬢とはいえ、家門同士の繋がりを覆すことはできない。
恋に敗れたイザベルに、フェランドは最初こそ彼女の身を案じた。死を覚悟するほど愛していたからこそ、イザベルがこの現実を受け入れられるか心配だった。
できることなら今すぐイザベルの元へ行って、慰めてあげたかった。
オーティスを通じて色々と共有してきたからこそ、彼女の悲しみを分かってやれるのも、彼女の悔しさを理解してやれるのも自分だけだ。
フェランドは妹の幸せと別に、イザベルへの想いを堪え切れず求婚の申し入れをした。
王太子が国王となったとき、マウロ伯爵家は王妃を輩出した家門となり、公爵家にとっても悪くない繋がりになる。両親は渋い顔をしていたが、息子に押される形で公爵家に手紙を送った。
しかし、求婚に対して届いたのは断りの返事だった。
オーティスの婚約にショックを受けて、求婚を受け入れる気になれないのか。王宮にもしばらく顔を出さなくなったイザベルに、不安が押し寄せる。
社交界ではイザベルをあざ笑う声だけが聞こえてきた。
そんな中、当家でフィオーナの婚約を祝うパーティーを開いた。親族や親しい家門ばかりを招待した、ささやかなパーティーだった。
だが、そこへ招待していないイザベルが姿を見せた。オーティスの婚約発表後、公の場に出てくるのは久しぶりだ。以前に増して細くなった体に罪悪感を覚える。
たった一人で現れたイザベルは、皆から冷ややかな視線が送られ、彼女の味方は誰もいなかった。
居ても立っても居られず、フェランドはイザベルにダンスを申し込んだ。もしかしたら気持ちが変わって、求婚の応じてくれる気になったのかもしれないと、淡い期待を抱いて彼女に手を差し伸べた。
けれど、イザベルはフェランドを拒絶し、その気持ちを踏みにじり、プライドを傷つけた。彼女は、フェランドの名前すら碌に覚えていなかったのだ。
現実を叩きつけられたのは己のほうだった。
──あのまま死んでくれていたら。
イザベルはその後も社交界に顔を出しては、フィオーナに数々の嫌がらせを行ってきた。オーティスへの執着も深くなっていき、自ら破滅への道を辿っていった。
フェランドの気持ちもまた愛から憎しみに変わっていき、イザベルの行いを激しく非難した。
令嬢たちが集団でイザベルを咎めると知った時も、彼女の味方になりそうなグラント公爵とリオネルを会場から遠ざけるように仕向けた。
公爵令嬢とは思えないほど情けない姿に胸が躍った。
このまま孤立して、誰からも見向きされなくなったら、唯一手を差し伸べた自分のことを思い出すだろう。
そして、あの日……オーティスに追いすがろうとするイザベルを、強く突き飛ばした。げっそりと痩せこけた彼女の体は簡単に傾き、頭を打って動かなくなった。
自分の手で彼女の命を奪ったと思った瞬間、フェランドの中には恐れや後悔ではなく、歓喜だった。ようやく自分だけのものになると。
しかし、イザベルは命を繋ぎ止めた。
確実に息は止まっていた。だが、しばらくしてイザベルはリオネルの誕生日パーティーに現れた。リオネルの手を取り、以前とは違う雰囲気を纏いながら。
あれだけオーティスに執着していたではないか。他の男に乗り換えるくらいなら、最初から自分の手を取っているべきだった。
なのに、なぜ今になって気持ちが変わったのか。
なぜ、自分では駄目だったのか。
「他の者の手に渡るぐらいなら……」
イザベルはまた社交界に顔を見せなくなり、苛立ちが膨らんでいった。
そこへ、彼女が療養のため領地へ帰る噂が流れてきた。フェランドは監視をつけ、イザベルの行動を逐一報告させた。妹を守るためだと言えば、忠実な部下は疑問を持たなかった。
公爵家へ潜り込むことはできなかったが、邸宅で過ごしているかどうかぐらいは調べられた。
「領地で大人しく過ごしているようだな。……本当に王太子殿下への気持ちは吹っ切れたということか」
報告によればイザベルは敷地にある庭園を、一人で散歩している姿などが確認できたという。どこへ行っても嫌われている女だ。
フェランドは受け取った報告書を読み終わると、口の端を持ち上げた。──準備は整った。
そこへ扉がノックされて、妹のフィオーナがやって来た。
「お呼びでしょうか、お兄様」
「ああ、お前に知らせることがあってな。そこに座って待っていてくれ」
兄妹の関係は良好で、フィオーナは疑いもせずソファーに座った。遅れて、メイドがお菓子とお茶を運んでくる。
メイドが下がった後、お菓子とお茶に口をつけたフィオーナを確認すると、フェランドは椅子から立ち上がって彼女に近づいた。
「……お兄様?」
「フィオーナ──これはお前のためでもあるんだ」
まるで自分へ言い聞かせるように。
フェランドはフィオーナの顎を鷲掴みすると、薄く開いた唇に、持っていた小瓶の液体を流し込んだ。
「──っ、げほっ、な、なにを……っ」
「安心しろ、命を奪うほどの毒ではない」
毒を飲んだフィオーナは喉を押さえたまま、床に転がった。騒ぎを聞きつけて使用人たちがすぐに飛び込んでくるだろう。
フェランドは床に落ちたカップに向かって、さらに毒を数滴たらした。足元では泡を吹いて苦しむフィオーナの姿があった。
「──感謝するといい。お前が次に目覚めたときは、すべてが終わっているはずだ」
フェランドは駆け付けた使用人たちにフィオーナの救護と、お茶を運んできたメイドの捕縛を命じ、邸宅内は混乱に陥った。
そんな中でただ一人、フェランドだけは自らが起こした光景を冷静に見つめていた。





