嫌われ者令嬢と語られる真実⑩
これまで我慢してきた涙が、ここへ来てから簡単に零れるようになった。泣いた後は頭が痛くて、体が鉛のように重い。
ユヒ湖から目を腫らして帰ってくると、出迎えた使用人に心配されながら、部屋に戻るなりそのまま眠ってしまった。精神的に疲れていたのかもしれない。
目を覚ますと、次の朝を迎えていた。起きるには、いつもより早い時間。けれど、夕食も食べず寝てしまったせいか、腹の虫がうるさく鳴った。昨日のような出来事があっても、お腹はしっかり空くらしい。
軽く体を流した私は、身支度を整えて部屋を出た。
昨日の今日でリオネルと顔を合わせるのは気が引けたが、空腹には耐えられない。それに、逃げれば逃げるほど後が辛くなる。
それでも緊張しながら、自然と忍び足で廊下を歩いていった。
その時、突き当りの廊下から話し声がして、思わず近くの柱に身を隠した。耳を澄ませば、聞こえてきたのは年配のメイド長と話すリオネルの声だった。
「イザベルが起きてきたら、ダイニングに案内してくれ。昨晩は夕食もとらずに眠ってしまったようだから、お腹を空かせているはずだ。すぐに朝食の準備をするように」
柱が死角になって彼の表情まで見ることはできなかった。けれど、自分の元へ案内する必要はない、と付け加えたリオネルの声は、どこか寂しさがにじみ出ていた。
それでも私を気遣ってのことだろう。ふと昨日の悲しみに揺れる灰色の瞳を思い出して、唇を噛みしめた。
「畏まりました。……ふふ、お坊ちゃまは本当にイザベルお嬢様を愛していらっしゃるのですね」
メイド長は、まるで息子の成長を喜ぶような口ぶりで言った。
温かみのある柔らかな声だったが、過去の嫌な経験から私は顔を強ばらせた。しかし、その場から離れたくても、体が動かなかった。
また、あの時のように傷つきたくない。
もう二度と、好きになった人に裏切られるのも、忘れたくても忘れられない苦しみに苛まれるのも……。
「──ああ、ずっと昔から。生まれ変わっても、俺には彼女だけだ」
それは、メイド長よりずっと優しい声だった。その声から溢れ出る愛情に、全身が甘く痺れていく。
リオネルが敢えてイザベルの名前を出さなかった理由は、私だけが知っている。
頭が真っ白になっていく中「ただ今のような質問は、彼女の前では控えてくれ」と注意をしたリオネルは、朝の訓練のため外へ出て行った。
二人の気配がなくなった途端、体から力が抜けて、私はその場に座り込んだ。
心臓が破裂してしまいそうなほど、激しく脈打っていた。息が苦しくなって呼吸すらままならない。
これほどの愛を向けられたとき、他の人はどうしているのだろう。恥ずかしくて、苦しくて、怖い……。これまで抱いたことのない感情に、胸が張り裂けそうだ。
私は恐れから身を守るように膝を抱えた。昨日あれだけ泣いたのに、また涙で視界がぼやけた。
「……イザベル、ごめん」
ぎゅっと目を閉じた私は、頭を下げてイザベルに謝った。
──貴女を愛し、味方になれるのは自分だけだと思っていたのに。
本来はイザベルが受けるべきものを、今は譲りたくないとさえ思うようになって、やはり罪悪感を覚えずにはいられなかった。
★ ★
『──オーティス……っ!』
暗殺は自ら仕組んだものだった。
執着する彼女を自分から引き離すために、怖い目に遭えば自然と距離ができると考えていた。……ただ、怪我を負わせるつもりはなかった。
なのに、刃物を持った暗殺者から、身を挺して守ろうと飛び込んできた彼女に、心臓が大きく揺さぶられた。
『……貴方が怪我をしなくて、良かったですわ』
恋愛感情は持っていなかったのに、命をかけて救おうとしてくれた彼女に意識が変わっていった。
真っ直ぐに見つめてくる瞳も、自分だけに見せてくれる表情も、その仕草一つひとつから伝わってくる「愛している」の気持ちに、執着していったのは自分のほうだった。
どれだけ傷つけても、突き放しても、彼女──イザベルは、誰より愛してくれた。 国の最高権力者である両親より、無条件に、無償の愛で、地位や身分など彼女には関係ないように思えた。王位継承権を捨てても、イザベルだけは傍から離れずにいてくれただろう。
しかし、イザベルの手を取ることはできなかった。未来を見据えたとき、隣に立って同じ景色を見る女性は、彼女ではなかった。
心では求めていても、次期国王として育てられた立場が邪魔をした。
──本当は愛しているのに。
一途に想いを寄せてくれるイザベルに、この気持ちが気づかれないよう冷たく接するしかなかった。
だから、罰が下ったのかもしれない。
必死ですがりついてくるイザベルに、喜びを感じながら冷たく突き放した、あの日──彼女が怪我を負って危篤状態だと報告を受けたとき、全身から血の気が引いていった。
これまで、イザベルを失うことなど考えたこともなかった。彼女のほうから離れていくなんて、思いもしなかったからだ。
それはオーティスの思考を狂わせた。彼はすべてを投げ出してグラント公爵家へ向かおうとしたが、国王夫妻である両親が許可しなかった。互いに離れるチャンスだと思ったのだろう。
場所や立場も憚らず怒鳴って喚いたが、部屋に監禁されてイザベルの元へ駆けつけることができなかった。辛うじて、従者が知らせてくれる報告だけが頼りだった。
しばらくして、生死をさ迷ったイザベルが目を覚ましたと聞かされたときは、安堵してその場にへたり込んでしまった。
何度も、自分の元から離れていくイザベルの姿を想像してしまった。
あの時、いや……もっと前から優しくしていたら。もっと、もっと彼女の気持ちに応えていたら。その後悔は悪夢になって、オーティスの精神を蝕んでいった。
監禁が解かれ、オーティスはまずイザベルに見舞いの品を贈った。当然、直接面会したいという手紙も届けさせた。
だが、イザベルからの返事はこなかった。面会も、イザベルの体調不良を理由に公爵家が断ってきた。
見えない壁に阻まれているようで歯がゆかった。
早く彼女に会って安心したかった。今までの態度を謝罪して許しを乞いたかった。
そして、イザベルが望むなら、自分もまた一緒になりたいと伝えたかった。周囲からどんな批難を受けても耐えられるなら、今度こそ彼女の気持ちに応えたいと密かに決意していた。
──しかし、オーティスの期待していた通りにはならなかった。
ようやく会えたイザベルは、あれほど毛嫌いしていたリオネルにエスコートされながらオーティスの前に現れた。
二人とも同じ色とデザインの装いに、睦まじい恋人同士のようだった。
『オーティス王太子殿下とフィオーナ様のご婚約お祝い申し上げます。お二人の幸せを心から祈っております』
イザベルは他の貴族たちが見ている前で、オーティスたちにこれまでの行いを謝罪してきた。それだけでなく、オーティスたちの婚約を祝福してきたのだ。
会わない間に何があったのか。
少なくとも自分の知るイザベルは、そんなことを口にする女性ではなかった。オーティスを一番に考え、他の女性に危害を加えるほど嫉妬深い女性だった。
あの悪夢が現実になったようで、足元が崩れて暗闇に放り出された気分だった。
あれほど執着していたではないか。
あれほど愛してくれていたではないか。
『イザベルは自分の意思でお前を諦め、これから他のことにも目を向けるようになる。──だから、もう邪魔をしないでくれ』
イザベルが変わったのと同時に親友のリオネルも離れていき、一人取り残された気分だった。
言いようのない空虚感に襲われていると、イザベルとリオネルの噂が耳に届くようになった。
先日のパーティーでも、体調を崩したイザベルをリオネルが片時も離れず介抱していたという。それは自分の役目だったはずなのに。
これが正しい形なのか。
オーティスの周囲はホッと胸を撫で下ろし、王宮内に平和が訪れたと話す者たちまでいた。
「イザベル……」
本当に自分への想いは消えてしまったのか。忘れようと無理をしているのではないか。
イザベルと会って以来、執務室にいても仕事が手に着かず、公務にも身が入らなかった。婚約者であるフィオーナとも連絡を取らず、ただイザベルのことばかり考えてしまう。
今、どこにいて……どんな気持ちを抱いて、何をやっているのか。
いつもは訊ねなくても自ら話してくれた。どんな些細なことも、オーティスに喋りかけてくるイザベルの笑顔は、眩しいぐらい輝いていた。
そんな表情も、もう見せてはくれないのか。
不安と後悔が幾度となく押し寄せ、もう一度会って話したいという衝動に駆られる。
そんな感情を必死で耐えていたとき、従者が血相を変えて部屋に飛び込んできた。
「殿下、婚約者のマウロ伯爵令嬢が……っ」
「……フィオーナがどうした」
グラント公爵家かイザベルに関する知らせかと思ったが、期待外れだった。最初は気にも留めていなかったが、次に告げられた報告にオーティスは目を瞠った。
「先ほど伯爵家から知らせがあり、令嬢が毒を盛られたと……。幸い犯人は捕まったのですが、その犯人によると、伯爵令嬢の食事に毒を盛るように命じたのは……グラント公爵令嬢だと」
「────」
刹那、全身に鳥肌が立って歓喜に震えた。オーティスは口を押え「はは……」と短く笑った。
──嗚呼、やはりイザベルの目には、自分しか映っていなかった。リオネルではなく、イザベルが最後に選ぶのはオーティスなのだ。
「王太子、殿下……」
「──ただちにグラント公爵令嬢を捕縛し、王城へ連行しろ。次期王太子妃を毒殺しようとした重要参考人だ」
従者に命じたオーティスは、もはや狂喜に歪む顔を隠そうともしなかった。





