嫌われ者令嬢と拗れた恋心①
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覚えているのは、耳に焼き付いている男の声と、掴まれた手の感触──私には、どちらも心当たりのないものだった。
考えられるのは、本来の持ち主であるイザベルの体に刻まれた記憶ということになるが、いくら探っても気分が悪くなるだけで詳細を知ることはできなかった。
部屋では、私の具合を心配したニーナが付きっ切りで看病してくれ、おかげで仮病を使うことなく、公爵との食事も断ることができた。
「ニーナ、もし市井で家を借りることになったらいくらぐらい必要?」
「家、ですか……? お嬢様には無縁の話だと思いますが」
「もしもよ、もしも。本気にしないで」
とは言ったものの、唐突な質問にニーナは疑うどころか、深刻な顔で私の身を案じてきた。
公爵令嬢が屋敷を出て、一人暮らしをしたいと口にしたようなものだ。私の知らないところで屋敷の警備が強化されたことは言うまでもない。
だが、いくら出て行きたいと思っても、あの日から毎晩のように襲ってくる悪夢によって心を蝕まれ、部屋から出ることも難しくなっていた。
『お前なんか──』
消えてほしい?
それとも、死んでほしい?
これまで直接的な言葉を投げつけられたことはなかった。
私を見ようとしなかった両親は、娘の存在を無視続けてきた。
本当は口にしなかっただけで、心の中ではそう思っていたのかもしれない。両親にとって私は邪魔者でしかなかった。
イザベルだって同じだ。
我儘を言わなければ、誰も耳を傾けてくれない。横暴に振る舞わなければ、誰からも相手にされない。
ただ『私』を見て、愛してほしかっただけなのに……。
「……ベル、イザベル!」
「────っ!」
どこまでも落ちていく意識の中、力強い声に呼ばれて現実に引き戻された。
私は目を見開いて、息を吹き返すように上体を仰け反らせた。直後、全身からじっとりとした汗が流れる。
……何が起きたのか。
私は荒い呼吸を繰り返し、暫く呆然として動けなかった。
いつの間に眠っていたのだろう。
その時、横から声を掛けられて反射的に視線を向けた。
「……大丈夫か?」
「え……っ? あ、公爵様……?」
「……酷く魘されていたが、悪い夢を見ていたようだな」
「────……」
昼間だと思っていたのに、窓の外は日が沈んで真っ暗になっていた。ベッド脇の棚に置かれたランプの明かりが、ゆらゆらと揺れていた。
目を凝らすと、公爵のシルエットがぼんやりと浮かんでくる。
──どうしてここにいるのだろう。
そう思った時、自分の右手に違和感を覚えて飛び上がりそうになった。私の右手が、握手を交わすような形で公爵の手を握りしめていたのだ。
「……っ、手を!」
「気にしなくていい。よほど怖かったんだろう」
今までとは違って、温もりのある優しい声だった。
私は困惑したまま、繋がった手を振り払うことができなかった。もう慰めてもらうような年齢でもないし、そんなことをされた経験もないのに。
人の温もりを知らない私は、公爵のがっしりした手の大きさに戸惑いを隠せなかった。
「体の調子は戻っても、心の病はそう簡単に治せるものではない」
「……今まで通り、放っておいて構いません」
「お前が私を避けるのも無理はない。私は危うくお前を殺しかけたのだから」
──死んでほしかったですよね。
少し前だったら平気で口にしていたのに、今は言葉が出てこなかった。
この温もりに、ほだされてしまったのか。
もし、本気で「死んでほしかった」と言われたら、公爵の顔は二度と見られなくなるだろう。
手を繋ぐことも、言葉を交わすことも。
──本物の娘じゃないのに。
自然と繋がった手に力をこめると、気づいた公爵が腫れ物にでも触れるようにそっと両手で包み込んできた。
「それでも私は、一度としてお前に死んでほしいなんて願ったことはない」
「…………」
「今更何を言っても遅いが、お前は私の大切な娘だ。それだけは分かってほしい。誰も、お前にいなくなってほしいなんて思っていない」
切実に訴えるような言葉が、私の胸に鋭く突き刺さる。
──大切な娘だ、と。
公爵の口から言ってくれたのに、その言葉を一番に聞きたかった相手はもうこの世にいないのだ。
もっと早く伝えてくれていたら。イザベルが生きている間に聞けていたら、彼女は死なずに済んだはずだ。
私はもどかしさと、やるせなさに唇を震わせた。
その一方で、娘を思う公爵の感情が痛いほど伝わってきた。
深手を負って生死をさ迷う娘を、公爵はどんな心境で見守っていたのか。娘から生きていることを謝罪された時、父親としてどう思ったのか。
そして、あの日から何度も誘った夕食の席に一度も現れない娘を──公爵は、どんな気持ちで待っていたのだろう。
「イザベル、すまなかった。お前を守ってやれず、酷い仕打ちをしてしまった。許してくれなくてもいい……だが、また以前のように私を、父と呼んでくれないか……?」
「……っ、……ふっ、ぅ」
公爵の伸びてきた手が一瞬私の顔に触れ、拒むように顔を背けたが、大きな手に包み込まれて視界が滲んだ。
これはイザベルの体だから。
私だったら人前で泣くことも、弱さを見せることもなかった。
泣き方さえ忘れてしまっていたのに、感情豊かなイザベルだからこんなにも切なくて涙が溢れてくるのだ。
人は、こうやって泣くのか……。
息をするのも苦しくて辛いのに、涙は簡単には止まってくれなかった。
私が声を殺して泣いている間、公爵は何度も涙を拭ってくれた。
全てを許せるわけじゃないけれど、公爵にとって娘のイザベルがどんな存在だったのか、分かっただけでも良かった。
「……お前が屋敷を離れたがっていると聞いた。ここではまだ嫌な記憶も残っているだろう。もし離れたいというなら、いくらでもお前の住める家を用意しよう」
「なぜ、そんなに……」
「二度とお前を失うような思いはしたくない。あんな恐ろしい思いをするのは、二度とご免だ……」
頬に添えられた公爵の指先が僅かに震えていた。
本気で娘の心配をする様子に、私は初めて口元を緩めた。
皆から嫌われて独りぼっちだと思っていたのに、一人でも愛してくれる人がいたじゃないか。
それをイザベルに教えてあげたかった。同時に、公爵の娘じゃないからこそ、この優しさと温もりに甘えてはいけない。
私は公爵の手に自らの手を重ね、ゆっくり口を開いた。
「それでしたら、お願いがあります──」