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「ごめんなさい……ごめんなさい」
「カリン大丈夫。大丈夫だよ」
小さなカリンをしっかりと抱きしめながらエリアスが優しくその背を撫でる。
「……すみませんレナ、カリンはその……雷が苦手なものですから」
「え……ええ、それはしかたがないです、誰だって大きな音がしたら」
怖いに決まっている。けれど、本当にそれだけなのかと疑問に思うくらいに、カリンの怯え方は異常だ。そもそも「ごめんなさい」と謝っているその意味は? とレナは知らず胃の辺りに手をやる。
またしても雷鳴が轟く。その光と音にカリンはますますエリアスにしがみつき、エリアスもまた必死にカリンを抱きしめる。そんな兄妹の周囲がキラキラと輝いており、ああ美しい兄妹愛、と思わず呆けたレナであるが即座に頭を横に振る。そんな暢気な光景ではない。兄妹の周囲に散っているのは砕けたコップの破片だ。
レナが近付けばますますカリンは泣きじゃくる。
「ごめんなさい、おとうさまごめんなさい! わたしが壊してしまったの、だからおにいさまを」
「カリン! 僕は大丈夫だから!! すみませんレナ、コップを落として割ってしまいました。弁償は必ずするので」
「わたしが落としたの! 壊したのはわたしなの!」
「落ちないようにもっと遠くに置いていなかった僕が悪いんです!」
「おにいさまを怒らないで! おとうさまお願い――」
レナは肩掛けをはずしカリンの頭をすっぽりと包み込んだ。そしてエリアスごと二人を抱きしめる。
「大きな音がしてびっくりしましたねカリン。もう大丈夫、こうしていれば聞こえないでしょう? それに雷ももうすぐ遠くへ行きますよ……ほら、少しだけ音が小さくなった」
いまだに轟音ではあるけれど、真上付近は通過しつつあるようだ。
「……ごめんなさいおとうさま……おかあさま……ごめんなさい」
「どうしてカリンが謝るんです?」
「コップを……割ってしまったの……」
「レナはそんなことでは怒りませんよ」
あえて軽やかな口調でそう言えば、少しだけカリンの体の震えが止まる。
「レナ……?」
「そう、ここにいるのはレナとカリンのお兄様のエリアスです。カリンの事を大好きな二人しかいません」
カリンがおずおずと顔をあげる。涙でぐしゃぐしゃになった顔を袖口で拭ってやれば、新たに涙がこぼれ落ちた。
「でも……コップ……」
「コップは落ちれば割れますから。それより破片で怪我はしていない? どこか痛かったりは?」
レナの問いにカリンは静かに首を横に振る。エリアスも同じくだ。
「ならよかったです。でもこのままだと危ないので、今日は私のベッドで一緒に寝ましょう!」
え、と固まる兄妹にレナはことさら何でもない風に言葉を続ける。
「ベッドの上に破片が散ってたら危ないでしょう? だから今晩だけ私のベッドで我慢してください。大丈夫、寝相が悪いので私のベッドは広いんです!」
寝相が悪いのに安心とはこれいかに、と自分自身に突っ込みを入れそうになるが、それには蓋をしてレナは兄妹をゆっくりと立ち上がらせる。カリンはエリアスにしがみついたままだが、それでも立つのを促すレナに抵抗はしなかった。
カリンを真ん中にしてベッドの上に横になる。相変わらずカリンはエリアスにぴったりとくっついているが、片方の手はしっかりとレナの指を掴んで離さない。そんなカリンの頭を撫でながら、レナはひたすらカリンとエリアスを褒め称えた。
「雷が怖いのに、頑張ってこらえててカリンは偉いですね!」
「……わたし、こらえてない……」
「いいえ、ものすごく耐えてましたよ。私がカリンくらいの時なんて、雷に負けないくらい大泣きして暴れてましたからね。だからカリンは偉いんです」
「それは……おにいさまがぎゅってしてくれるから」
「そう! エリアス様も偉いです。雷の大きな音なんて誰だってびっくりするし怖いのに、カリンをずっと抱きしめてくれていたんでしょう? その辺の大人だってできませんよそんなこと。うん、二人とも偉い、偉すぎますね」
我ながら下手くそかと思いつつ、それでもレナは二人を褒め続ける。エリアスはどうやらレナがカリンを落ち着かせようと、そしてなんとかしてカリンの自信を付けさせようとしているのを察したらしく、微妙な笑みを浮かべている。それでも、その瞳には不信感ではなく微かながらに喜色が混じっているのに、レナは内心ほっとした。
やがて、カリンはレナの腕ごと胸元に抱き込むように引き寄せ、そのまま小さな寝息を立て始めた。
必然的にエリアスと向き合う様な形になってしまう。カリンを安心させるためとはいえ、年頃の少年と同衾する事になってしまったのに今更気付き、レナは気まずくて堪らない。
「……ありがとうございます」
もう少ししたら自分はソファに移動しよう、と考えていたレナの耳にエリアスの小さな声が届く。
その感謝の言葉は、一体どれに関する物であるのか。コップを割った事を怒らなかったからなのか、それとも泣いて怯えるカリンを優しく慰めたからなのか、それとも――兄妹の異常ともいえる様子を前にして、問いただす事をしなかったからなのか。
全て正解かもしれないし、不正解かもしれない。だがレナにはどちらでもよかった。二人がこれまで置かれた状況を知りたくないわけではないけれど、いやむしろ、これから保護者として接していくからにはむしろ知っておくのが正解だろう。けれど、それは「今」ではないのは確かだ。今はただ、兄妹が少しでもレナを信頼してくれること、そしてとにかく安心して眠ることのできる場を用意してやるのが一番だ。
「ベッド、狭くないですか? 眠れそうです?」
何と言葉をかけていいのか分からず、ついそんなどうでもいい言葉が出てしまう。仮にも商売人なのに口下手がすぎる。あと大人なのに、と軽く自己嫌悪すら抱きそうになるレナに、エリアスは微かながらに笑みを浮かべた。
「いいえ、広くて暖かくて……ゆっくり眠れそうです」
ありがとうございます、ともう一度呟くエリアスは笑ったままだ。なのに、どうしてもその顔が泣いている様に見えてしまいレナの心臓がきつく痛む。
嬉し泣き――こんな、穏やかな一夜を過ごす事に涙を流すほど喜ぶとは、一体彼らはどんな仕打ちをあの家で受けていたのか。腹の奥底から湧き上がる怒りにレナは叫びたくて堪らない。だが、そうすればせっかく眠っているカリンが起きてしまうし、今にも夢の世界へ旅立ちそうなエリアスの邪魔をしてしまう。そもそもレナに怒る資格はないのだ。
だからレナはゆっくりと息をする。そうしてエリアスと同じように笑みを浮かべ、眠りの挨拶を口にする。
「それはよかったですエリアス様。おやすみなさい――良い夢を」




