盤上の絆(前編)
その女の子が転校してきたのは、僕が小学校三年生にあがった五月だった。朝のホームルームで担任の先生が、
「今日は転校生が来ました。今日からみんなと一緒に勉強する仲間です。じゃあ入って」
と言ったのに、その子は教室に入って来なかった。クラス中の生徒の頭の上に「?」が浮かんでいる中、すぐに「!」を浮かべた先生が廊下にその子を呼びに行く。
先生に連れられて入ってきた女の子は、肩まで伸ばしたきれいな黒髪がよく似合う、目がぱっちりした可愛らしい子だった。クラスの中心的な男の子たちがはしゃぎ出す。彼女はそんな様子を一切気にするような素振りもなく、自己紹介では一言も話さず、黒板にきれいな文字で自分の名前を書いた後、「わたしは耳がきこえません」と書いたのだ。先生も気を遣ってか、改めてみんなに仲良くするように告げた後、彼女をたまたま空いていた教室の左前の席に着かせた。朝のホームルームはその他に連絡事項もなく、一、二時間目の国語が始まった。
一、二時間目の国語が終わり、二十分休みになった。転校生が来るとみんな、転校生を取り囲んで前の学校について質問したりとか、学校を案内してあげるとかワイワイガヤガヤするのだが、今回はみんな距離を置いている。耳が聞こえない相手にどう接すればいいか考えているようだった。彼女はと言えば、そんな周りの気配も全く気にせず黙々と机に向かっている。
僕は進んで人に接するようなタイプでもなかったので、彼女と関わりを持とうとは考えてもいなかったのだが、彼女の机の前を通ったときに、一体何にそんなに夢中になっているのかだけが気になって机の上をちらりと見た。机の上に見えた見覚えのある六十四マスの紙が僕の気持ちを高ぶらせる。
紙でできたチェス盤だ
紙の上には自分で作ったのだろうか、KとかQとか書かれた同じく紙でできた駒もあった。間違いない。
僕は一度席に戻り、自由帳と鉛筆を持って彼女の席に行き、「チェスできるの?」と自由帳に書いて見せた。彼女は最初驚いたようだったが、僕の自由帳に「できるよ」ときれいな文字で書いた。
周りのクラスメートたちは、まさか僕が一番に転校生の所に行くとは思ってもみなかったようで、ザワザワし始める。
二十分休みの終わりを告げるチャイムが鳴り、みんな席に着く。僕も自由帳に「またあとで」と書いて彼女に見せると、自分の席に着く。
三、四時間目は算数だった。僕はチェスができる小学三年生を同じクラスに見つけたことが嬉しくて授業に全然集中していなかった。先生に当てられても、どの問題のことを言っているのか分からず、黙っていると次の子に回っていった。
給食の時間になり、班の子たちが楽しそうに話すのを聞きながら横目で彼女を見る。彼女も班の子の話についていけていないようで、黙々と給食を食べていた。僕と同じだ。そんな風に感じた瞬間、彼女と目が合う。彼女は僕に笑いかけ、また給食を食べ始める。
給食を食べ終わって、自由帳と鉛筆を持って彼女の所へ向かう。まだ名前を名乗っていなかったことを思い出し、「ぼくは、はせがわ みなと」と書く。「わたしは、かんな。つもり かんな」彼女も書く。朝の自己紹介で前に書いていたんだ、当然知っている。
「チェスをしよう」
僕ははやる気持ちを押さえきれずに続けて書く。
彼女は頷いて自作のチェス盤を机の上に広げる。僕は白番を譲ってもらい、得意のイタリアン・ゲームを仕掛けるべく、ポーンをe4へと進める。彼女はほぼノータイムでポーンをe5に進める。この子は多分強い、そんな予感が僕を襲う。
結果的に僕のミスでツーポーンダウンでエンディングに入り、そこで昼休みが終わってしまったので僕がリザインという形でその一戦は終わった。
彼女にチェスで負かされた後の五、六時間目は理科だった。先生が花の構造について話しているのを聞き流しながら、僕は先の対局の分析をする。驚いたことに、彼女の指し方に悪手がほとんど見当たらない。一体どうしたらこんなに強くなれるのだろう。彼女に興味が出てきた。
放課後、ランドセルに荷物を入れて帰ろうとしていた彼女の前に「もう一回だけチェスをしよう」と書いた紙を差し出し頭を下げる。彼女は笑顔で頷き、荷物を入れたランドセルを床に起き、中から自作のチェス盤を取りだし机の上に広げる。
今度も僕が白番で、今度はルイ・ロペス定石を試そうとポーンをe4へ進める。このルイ・ロペス定石は古典的な定石で変化も多く、その分相手の実力がよく分かる。ところが彼女はポーンをd5と進め、スカンディナビアン・ディフェンスで受けてきた。この定石は黒番で指すと不利になるとされているので僕は驚いたが、セオリー通りセンターの黒のポーンをとる。
その後も対局は進み、結局お互いキングのみになってしまったのでドローとなった。将棋と違って、とった相手のコマを使えないチェスではキングのみになることがあり、これは当然ドローになる。
お互い頭をフルに回転させていたので疲れてしまい、下校時刻も近かったのでその日はその二局でお開きとなった。二人で会話もなく校門まで行ったものの、帰る方向が全くの逆方向だったので、校門で手を振って彼女と別れる。
家に帰るとお母さんが、「今日は遅かったわね」と僕に声をかける。僕は今日の出来事を話す。
「今日ね、転校生が来たんだ。耳が聞こえないんだって」
「あら、大変ねぇ」
「でもね、チェスがすごい強いんだよ」
「湊はチェスが大好きだもんね」
「うん、他にできる子がいなかったからすごくうれしいんだ」
「良かったじゃない、仲良くするのよ」
「うん」
僕は自分の部屋で二局目の棋譜を分析する。しばらく分析を進めると、僕は致命的なミスをしていたことに気付く。そして彼女もまたそのミスを見逃すというミスをしていた。三十一手目、僕のビショップがただ取りになっていたのだ。一局目、中盤戦までとはいえ、ほぼ悪手なしで進めていた彼女がこんなミスを見逃すだろうか。
そこで僕は一つの結論に至った。二局目、彼女は手を抜いていたのだ。思えば彼女は二局目も通常不利な黒番で指していたし、オープニングから黒番に不利になるような定石を進めてきた。僕にもプライドがある。明日ガツンと言ってやろう、いや紙に書いて見せつけてやろう。
この日は算数の宿題が出ていたことを思い出し、きちんと終わらせてから夕飯に呼ばれて部屋を出た。
帰ってくるなりチェスのできる友達ができたと嬉しそうだった僕が、夕飯に仏頂面で表れたのを見て、お母さんは驚いたように尋ねる。
「湊、どうしたの?何かあった?」
「あいつ、多分手加減したんだ」
「チェスができるっていう友達?」
「そう」
「そうなの?お母さんはチェスはよく分からないけど、もしかしたら何か事情があったのかもしれないよ」
「明日ちゃんと聞いてみる」
その夜は明日のことが気になって、いつもは九時には寝てしまう僕も十時くらいまで起きていた。
「きのうはわざと引き分けにしたでしょう?」
登校してきた彼女にそう書いた自由帳の一ページと鉛筆を突きつける。彼女は少し驚いたような顔をして、すぐに悲しそうな顔をしながら続きに「ごめんなさい」とだけ書く。謝ってほしい訳じゃない、どうしてそんなことをしたのかが知りたかった。続きに「どうして」と書く。すると彼女は困ったような顔をして、文章を綴る。
「前の学校でいっしょにチェスをしていた子が、わたしが強いからわたしをきらいになったの」
「そんなの弱いやつがわるい」
僕はすかさず自由帳に書きなぐる。彼女は僕の言葉を見て、僕の顔を見る。そして左手を前に出し、右手で拝むような動作をとった。僕が首を傾げると「あ、がと」と言って笑った。
それからは休み時間の度に彼女の席に行き、ひたすら対局をして、授業中に分析をするというのが僕の日常になった。本気を出した彼女には一度も勝てず、ギリギリ引き分けに持ち込めたら万々歳だった。悔しさは募るがどうしても勝ちたかったので、何度も何度も挑戦した。
そんなある日の放課後、掃除当番になった彼女と放課後の対局をするため、教室で待ちながら次の作戦を考えていた時だった。廊下ではしゃぐ声が聞こえる。気が散るので廊下を見ると、同じクラスの内田君と田中君が彼女の後ろから悪口を言っていた。バカだとか、ブスだとか。彼女は何も聞こえていないので掃除を続けている。
別に好きで耳が聞こえない訳じゃないし、何か二人に迷惑をかけるようなこともしていないだろうに。そう思うと無性に腹が立ってきて、気が付くと僕は何も言わずに二人に突進していた。二人はいきなり突進してきた僕に驚いたが、逃げる暇もなかったようでその場で立ち尽くしている。僕は内田君の方に飛びかかって馬乗りになり、渾身のパンチを内田君の右頬にお見舞いしてやった。焦った田中君が僕を引き剥がそうとする。彼女は急に起こった乱闘に泣き出してしまった。
すぐに騒ぎを聞きつけた先生がやって来て事態は収束する。彼女も含め、四人で職員室に呼び出される。
「だって津守さんが掃除サボってたんだもん」
「そうだそうだ」
子どもは時に残酷だ。相手が反論してこないのを分かっている内田君と田中君は、口を揃えて平気で嘘をつく。彼女はまだ泣き止まないし、僕が反論しなければ、そう思うのに何も言えない。
結局、僕と彼女は二人とも先生に怒られてしまった。
「今回の件はちゃんとご両親にも伝えるからな」
そう先生は締めくくり、僕たちは解放された。
家に帰るのがここまで嫌だったことは今までにない。なるべく遠回りして家に帰ったつもりだったけれど、いずれは家に帰らなければならないと思い、仕方なく家に帰る。玄関のドアの前まで来て入るのを躊躇っていると、中からお母さんが出てきた。なかなか帰って来ない僕を心配して探しに行くところだったのだろう。
「あぁ、ここにいたの。先生から話聞いたよ、とりあえず家入りなさい」
「ごめんなさい」
「ちゃんと話してみな、謝るのは後でいいから」
僕はお母さんに彼女が苛められていたのを見ていられなかったこと、内田君を殴ったのは悪いと思っていること、内田と田中君が嘘をついていることを泣きながら話した。お母さんは全て聞いてから、「湊はよく頑張ったね」と言って抱き締めてくれた。
「でも内田君には謝りにいかないとダメだね、お母さんも一緒に行くから」
しばらくして落ち着いた僕は、菓子折りを用意したお母さんと内田君の家に向かう。インターホンを鳴らして出てきた内田君のお母さんはとても怒っていた。僕のお母さんはすぐに謝る。
「この度はうちの息子が大変御迷惑をおかけしました。これ、つまらないものですが」
「ほんとですよ、うちの子は掃除をサボっていた女の子を注意しただけなのに、どうして殴られなきゃならないんですか?」
「すみません、本当にすみません」
お母さんは僕にも謝るように促す。でも僕は謝らない。頭は下げるけれど、ごめんなさいが出てこない。その様子を見て内田君のお母さんは、
「聞きましたよ。お宅のお子さん、学校では一言も喋らないんですって?どういう教育をなされているのかしら?」
と、お母さんに言ってしまった。
お母さんは「え?」と言ったきり言葉が出てこない。追い討ちをかけるように内田君のお母さんは続ける。
「一度病院で診てもらったほうがいいんじゃありません?」




