使われていない倉庫で・紅葉の美しい頃・木の実を・見ていて隠された意味に気が付きました。
顔の整った男子学生が、自学の図書館の自習室にて歳時記や平安時代の風俗をまとめた辞典を片っ端からかき集めたもので巣ごもりしていた。その巣の中、机の上で学生の手が届く範囲内には使い込まれたノートが数冊広げられている。だがその中で、学生の視界の真ん中に必ず入る位置に真白に近いページがあった。その帳面には二つの句がボールペンでなるべく丁寧なる文字で描かれている。
「枯れぬ松 咲いたる芯のつやうらら」
「緑摘む くもなき空に浮く薫」
彼の家系に伝わる句だった。かぐや姫伝説において後世で語られることの無いうだつの上がらぬ男を先祖に持つと伝えられ、幼い頃からそう言い聞かされた男子学生は、自分の先祖の出生の是非を調査するために大学に入り国文学を専攻している。その口伝についての論文を一本書いたが、教授には信憑性に欠けると遠回しに文学批評に満たないとの烙印を押されてしまった。その低い評価に、大学生は特段残念にも思わず、引用できる資料も無いのに口伝だけでは当たり前だと納得した。図書館の司書には恐らく毎日来る学生として顔を覚えられているが、学生はただ黙々と巣ごもりをしながら卒論に使える材料を探している。卒論は必ずこの先祖の伝承について書き上げるつもりだった。だから集中できる個室の自習室を時間付きで借り上げ、集中力が切れると二つの句を見ながらぼうっと頭を白くするのだった。
集中力はある方なので、大学入試についても幾らかの合格を勝ち取った。男子学生としては、入試に臨むまでが勉学について一番集中していたと言っても過言では無い。とはいえ燃え尽き症候群になったことは無い。思春期特有の尖った興味より、大学生になったことで自由に触発された興味は質が変わっている気がする。だが男子学生の興味は変わらずただ一つであったので、いつまでも飄々と淡々と勉学に励んでいる。
彼の顔立ちは良かった。小学生の時からあまり変わらないパーツ故に、クラスの快活な女子グループの隠す気のないひそひそ話とした恋の噂に登場することが多々あった。だが男子学生は快活なリーダー格の女子が密かに気になっていたので、気にしないふりをしながらこっそり聞き耳を立てていた。その日々が過ぎる中、たまたまある日に自分の事をどう思うかという話になっていたので、同じ教室にいた男子学生は興味なさげにしながら内心心臓がばくばくと音を立てていた。すると話を振られたリーダー格の少女がその時言った。
「え、あいつなんかいつも目が死んでんだもん~。無いわ」
何気ない言葉だったが、男子学生の少年の心に突き刺さった。顔立ちは良いが何故かどこかモテきらない。魅力があるようで無い。それから思春期を経て伸びた背の学生は、何度か同級生や後輩から告白されたが、どれも男子学生はぴんと来なくて断った。そうして高校生になり、件の小学校が同じリーダー格のませた少女が女性の手前になったタイミングで男子学生に告白してきた。それも彼は断った。彼女は泣いたが、すぐに分かったと笑って走り去るぐらい大人びた少女だった。彼女の求める像が、男子学生がスポーツの部活動の部長になったこと、また学業の成績が大学入試に向けて上昇傾向にあったからだ。だから彼女は彼をステータスとしての自分を好いた。男子学生も彼女と付き合って良いかと思ったが、彼女はバスケットボール部の新部長になったばかりで進路は美容師業界を目指し専門学校志望と聞いていたから、ステータスとしては釣り合っている。だがステータスだけの恋愛に意味は無いし、時間を割くほどでもないと男子学生は思って切り捨てた。それ以降なんとなく恋人もなく、男子学生は卒論制作まで浮いた話が無かった。
句にある「緑摘む」を調べてみると、春の季語。松の新芽の一部を切ることを指すというのが分かった。そう考えると、対句であろう中に松と謳われているのは関連性がある。さらに調べると「松の芯」も春の季語であると分かった。松が芽吹く頃の春の情景を描いていると分かるが、これ以上この句がかぐや姫伝説に何の関係性があるのかまでは分からない。家長たる祖母に聞いても、かぐや姫と先祖が贈り合った句であるとしか伝わっていない。かぐや姫が実在の人物であったことを証明するのは、トロイ戦争の証明に生涯を掛けたシュリーマンと同程度の偉業になるだろう。出発点を”かぐや姫が実在する”ことか”かぐや姫が実在するという前提”の上にするかは文学研究としては大きな分かれ道になる。ひとまず男子学生は後者にすることにした。だから松にまつわる歌はそれなりのとっかかりになるはずだと、暗闇の海にカンテラとボートにオールのみで漕ぎ出している。先人の建てた灯台が山ほど建つ海もあるが、あえて彼は何も無い海を選んだ。だから一人でオールを漕ぎ、目標を見つけなければならない。
先祖についてふと考える。うだつの上がらないが宮中に召し上げられている。伝わる話では馬の扱い方が上手いからだと聞いているが、それだけなのだろうか。平民の大抜擢にしては珍しい話だが、無いとも言えない。日本が今ほど広くはなく、天皇の権限が光りとなり大陸を照らしていた頃によく召し上げられたものだ。幸運が重なり宮中に召し上げられたのに、まさか陛下と恋仲になる女性を横恋慕することになるとは最大の不幸も同時にやって来たのだろう。それでも逞しく生き抜いた先祖は、かぐや姫から不老の力を僅かばかりに得たからだと子孫は語る。
かぐや姫は先祖に不老不死の薬を渡してどうしたかったのだろう。かぐや姫は元々戻ってくるつもりで、先祖と落ち合うつもりだったのだろうか。だから資格をあえて失った先祖に激昂した。そうなるとかぐや姫とはどのような存在になる。宇宙人?未来人?月に住む仙人?SFじみた考察はあるが、文学研究としては確証の無い道筋だ。男子学生はうなると、背にもたれて伸びをした。
かぐや姫が美しすぎる殿上人として描かれているのなら分かるが、月に帰るとは滑稽な設定だ。それすらが後付けされているような気がした。例えば、先祖と愛し合った女性が何か、SFのように選ばれた存在であることは確かだが、その選ばれし者が時の権力者である天皇の手にすら負えず消えゆく課程はまるで”彼女が世界から消えた”のではなく”世界が彼女を消した”のではないか。だが消し去れない証として富士の薬が残された。それを受け取ったのが天皇か平民である先祖かの違いで、彼女は、かぐや姫は何かによって消されている。だが後世に語り継ぐことが出来ているので、完全ではないのはかぐや姫がその”選ばれた者”のプロトタイプであったのではと想像を膨らませた。かぐや姫が選ばれた存在であり、月ではなく違う次元に連れて行かれた。だがそれにかぐや姫は抗って・・・いやこれはまるで三文小説のあらすじだとまで自嘲して、男子学生は普段癖ではないのに頭をぐしゃぐしゃと搔く。違う次元とは何だともう一度自分の思考にメスを入れた。そんな非科学的なものは論文としては不十分だ。選ばれて存在を消されるのに抵抗した彼女。そんな彼女に道連れにされそうになった彼。愛し合う物語が急に穢されたような感覚に、男子学生は目をごしごしと擦った。花粉症ではないのだが、どうにも思考がまとまらないので感覚器官を刺激すればストレッサーが軽減されるかもしれない。そんな本能的な行動だ。世界から消されてしまう人間の気持ちなんて自分には分からないし、誰にもそれは分からない。だからこんな馬鹿げた空想を持つのは辞めるべきだと、自習室の窓の外に目を向けた。図書館の向こうにも大学のキャンパスが広がって、いつもなら大学生が歩いているし近くに植えられている木々の葉が見える。一枚の葉のように。本疲れした目には優しい色合いがそこにあるはずだ。だが男子学生が期待した視界には、一人の高校生らしき男子が浮いていた。
首つりかと思ったがロープは無い。幽霊かと思ったがはっきりと見える。それなのに自分以外に誰も彼に気付いていない。夏服を着た男子高校生らしき彼は真剣な目でこちらを見つめてきて一瞬だけ首を振ったように見えた。
瞬きしたら彼はいなくなった。見えなくなって久々に動悸息切れ、どっと汗が出てきている。普段冷静であるのに、震えも出てきた。何なんだあれはと頭の中は疑問符が浮かんでは消えていく。かぐや姫の妄想に疲れて幻覚を見たのだ。きっと疲れで何かが見えてしまっただけだ。そう思い込もうとしてカーテンの無い窓を見ないようにして机に向かうと、巣ごもりの本やノートの上に千切られた紙が散らばっているのに気付いて今度は寒気が走った。先程まで自分はそんな物を広げていない。
その紙はメモ用紙、付箋紙など種類は様々だが、先程まで生きていた人間が書いたようにインクが瑞々しいままだ。だが走り書きで、文字は少々見えづらい。咄嗟に男子学生は身を床に沈めるような絶望に深い息を吐き、吸うのを忘れたがしばらくして呼吸を思い出した途端、そのメモ類を狂ったようにかき集めて句を書いたノートに挟む。そして他のノートや文房具を乱雑に鞄に突っ込んで、借りた図書をラックに戻して受付に貸し出し終了を伝えると足早に図書館を後にした。
一人暮らしをしていたので、講義を受けるのも忘れて一目散にアパートに戻るとあのノートを保管できるチャック付きの何かを探し、大きめのジップロックにノートを入れて空気を抜く。メモの中身を見ないように、だがそれを捨ててしまわないように。好奇心と探究心がこのものを捨ててはならないと告げているが、踏み込んではいけないと本能と少年の顔がそう言っていた。せめぎ合いの中で選んだのは、ひとまず劣化を避けるように封印しておくことだ。
そのジップロックをアパートのロフト部分に放り込み、彼は逃げるように実家に帰った。そう遠くない距離だったが、専業主婦の母や家長の祖母は快く迎えてくれて安堵する。だが一人暮らしする前の状態を保っている自分の部屋に入るやいなや、恐怖に似た感情がわき上がって来て着の身着のまま布団を被って潜り込んだ。鞄も肩にかけたままである。そして体が震える。何かがあるのだが今の男子学生の力量ではどうすることも出来ない。だからあれは一旦封印した。卒論のテーマを変えるか否かを自分で問いかけるが、今は体の震えを抑えたかった。
原典:一行作家