表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異江戸ほたる屋奇譚  作者: 阿伽月 寛
1/1

― みんなトンカツが好きでした(4) ―

◆着物と陰間

 翌朝、呼ばれたいつもの古着屋が、これまたいつもの大きな行李を天秤棒に振り分け、毎度ありがとうございやすー、と上機嫌な声でほたる屋にやって来た。

 しかし、粋な着物のイメージが平太に無く、加えて清造と忠助の意見が大きく異なる上に互いが頑固に譲らず、ともすると(ののし)り合い、唾の吐き合いに発展しそうになった事から、割って入った太一の意見で、柄や色、素材にかけて、全てを文太に選んでもらう事となった。

「何よお、こんな朝早くから」

 急遽、太一に呼ばれて来た文太は、寝起きのすっぴん顔でぶーぶー言った。口の周りには青黒く髭が浮かんでいた。

「朝から悪いな。お前の抜群のセンスで、平太に粋な着物を選んでやって欲しいんだ」

忠助は古着屋に聞かれないよう、手を合わせて文太に頼んだ。金は出すが選べない、という太一の裁定案が気に入らないのか、清造はふて腐れた顔で帳場に座っていた。

「あらま、そうなの。でも、あたし銭は無いわよ」

 抜群のセンスと煽てられた文太は、少し明るい表情になった。

「銭は頭が払うんだ。だから値段は気にしないで、とにかく粋な男衆に見えるのを選んでやってくれ」

「そういう事ならこの文太さんにお任せよ。と言っても角の古着屋じゃないの。値段っても大して値の張るものは置いてないでしょ」

愛想良く嫌味を言いながらも、文太は何枚かの着物をラップさせて並べ始めた。

「あら、この空五倍子色(うつぶしいろ)の上田 (つむぎ)、いいわねえ。でも色もちょいと濃いし、この時季には暑いかもね」

文太の手にする色と柄は、さすがと言える鋭いセンスだった。

「やっぱり麻かしらねえ」

 独りごちるようにぶつぶつ言いながら、何枚もの着物を手にしていた文太は

「あった、これこれ。それとこれも」

二枚の着物を取り上げて腕に載せ、古着屋の顔に近づけた。平太には、文太が近寄る度にオカマっぽい中性的な存在が苦手なのか、困ったように顎を引いて上体を反らす古着屋が滑稽に見えた。

「この極端な薄鼠(うすねず)()と明るい萌葱(もえぎ)小千谷縮(おぢやちぢみ)。わあ、どっちも捨て難いわねえ」

「どうせなら両方買っちまおうぜ」

「そうね。って、何でわざわざ平太さんに着物買ってあげるの?」

「そりゃ後で説明するから。頭、着替えも要るだろうし、二枚いいですね」

忠助は首を捻って清造に声を掛けた。清造は未だ機嫌を損ねているのか、ああ、とだけ応えた。


 その後襦袢と角帯も購入し、古着屋は笑顔で帰っていった。

「ねえ忠助さん、何なの?何で平太さんに着物なの?」

文太が先ほどの疑問を蒸し返した。

「おう、そうだったな。お前にゃ何も教えてなかったな」

 忠助は簡単に事の経緯と明日からの平太の潜入を説明した。

「大丈夫?危険じゃないの?」

心配そうに訊く文太に

「大丈夫だよ。平太さんが茶屋で働いてる間、衣笠っていう腕の立つ同心様が見張ってくれるんだ」

太一が自慢そうに言った。

「あら、南町の衣笠様?あの同心、ほれぼれするほどの男前だわ。だったら平太さんより衣笠様が茶屋に行けばいいのに」

「お前ぇ馬鹿じゃねえか?お前ぇまで名前が知れてる衣笠様が潜入捜査なんてできる訳ねえだろう」

 清造が呆れ顔で言った。時間と共に少し機嫌が治ってきたようだった。

「そりゃそうよねえ……あ、だったら髪も格好良く結い直さないと」

文太は平太の頭を見た。

「そりゃそうだ」

 相槌を打つ忠助の横から

「文太、髪の結い直し以外にもう一つ頼みがある」

清造がいつになく真面目な顔で口を開いた。急に言い出した清造の頼み事が何なのか、見当のつかない四人は帳場に顔を向けた。

「さっきも太一が言ってたように、平太が茶屋にいる間は衣笠様が向かいから見張ってくれているんだが、おそらく店の中までは良く見えねえと思う。店の雰囲気を見張っているだけだろう。昨夜、寝ながら考えたんだが、それじゃまさかの時に対処の遅れる可能性があるから、文太お前ぇ、時折店に入るか覗くかして様子を(うかが)ってくれねえか?」

 清造も本気で平太の事を心配しているのだった。意固地で怒りっぽい頭だが、やはり組のみんなの事を陰日向なく考えてくれている、そう感じた平太は少し涙腺が弛みそうになったが

「えー?男茶屋って陰間も入れるの?」

太一の一言で、それが無計画な心遣いである事に気が付いた。

「まっ、この子ったら。この文太さんを陰間だって?いつからそんな口の悪い子になったのかしら」

文太の目が吊り上がって眉間に皺が寄り、こめかみには血管が一筋浮いた。

「太一、お前は知らねえだろうが、この文太姐さんは大化けするんだぜ。それも全くの別人に」

 文太のセリフに苦笑しながら、忠助が太一を諭すように言った。太一は意味が分からず文太の顔を見つめた。

「ふぉっふぉっふぉ。ガキには分かんないでしょうねえ。今度この文太さんがメイクアップの奥義を見せてあげるわよ。楽しみにしておいで。ふぉーっふぉっふぉっふぉ」

「ふぉっふぉって、お前はバルタン星人か?」

手の甲を口に当てて怪しい高笑いを繰り出す文太に忠助がウルトラシリーズで突っ込んだ。今度は懐かしい宇宙人の名前が忠助の口から出た事で、再び平太の目が潤みかけた。

「まあ、何でもいいから、文太、やってくれるか?当然、経費はほたる屋で持つ」

 清造は顔の前で拝むように両掌を合わせていた。清造も文太の変身を知っていて頼んだのだった。それを見た文太は

「頭に手を合わせて頼まれて、誰が断れるもんですか。この文太、命に替えても引き受けさせて頂きます」

真面目な顔で両手を前に重ね、神妙に頭を下げた。

「言っとくが、平太の様子を確認するために行くんだぞ。お前の男漁りのために行くんじゃねえんだ。それに、払いはほたる屋って言っても、無尽蔵に出す訳にゃいかねえから塩梅は考えろよ」

 その神妙な姿に忠助が釘を刺した。

「へーんだ。そんな事、分かってるわよ。それより今からでも平太さんの結い直しをしなくちゃ」

文太は商売道具を取りに、そそくさと長屋に戻って行った。

「頭、俺のためにありがとうございます」

 平太は帳場の横で正座をし、両手をついて深々と頭を下げた。

「おいおい、組として当然の手立てを講じるだけだ。そんなご丁寧に額を床に着けるんじゃねえ」

清造は無理矢理平太の肩を引き起こして言った。

「だいたい儂はお前ぇだけじゃねえ、この三人の誰も行かせたかぁなかったんだ。だからいいか、絶対に無茶するんじゃねえぞ。目的は経営者と倉庫の情報を入手する事だ。それ以上の動きはするな。そして、ヤバイと思ったらすぐに逃げるんだ。分かったな」

清造の顔にはいつもに無い厳しい表情があった。へい、と応えた平太は再び頭を下げた。


 その翌日、いつものようにトモの作った朝食を摂った平太は、すぐに長屋に戻って文太の選んだ明るい萌葱の小千谷縮に袖を通し、角帯を後ろで貝の口に締めた。そして、真新しい竹皮草履に足指を通すと再びほたる屋に向かった。

「では、行って参ります」

ちょっと早いかな、とは思いながら、三人の前で深々とお辞儀をする平太に

「絶対に無茶はするな」

「吉報を待ってるぞ」

「平太さんなら大丈夫だよ」

ネガティブ、ポジティブ入り交じった声が掛けられ、へい、と元気良く応えた粋な若衆は暖簾を潜って浅草に向かった。

 半町ほど歩いて振り返った時、店の前に立つ三人の姿が確認できた。

“何だか今生の別れみたい……”

平太の心にふと不安が過ぎったが、それを振り払うかのように顔を左右に振り、態と大股で歩みを進めた。



◆男茶屋と探索

 この江戸に来て約半年、平太は例の日本橋の事件を除いて江戸城より東に足を運んだ事はなかった。

 それじゃあ不案内でしょ、と文太の描いてくれた地図を頼りに男茶屋を探し、程なくその店に行き当たった。

“やはり、少し早かったけど……ま、いっか”

そう思いながら、平太はまだ暖簾の出されていない店に足を踏み入れた。

 中では数人の若い男と小柄で目つきの鋭い中年の男が、開店の準備なのか卓を拭いていた。お邪魔します、と声を出した平太はその小柄な男に近づいた。

 突然の平太の出現に驚いたのか、その男は一歩後退するようにして平太を見上げた。

「巳五郎さんの紹介で来ました」

 相手の出方が分からない事から、平太は態と無表情でぶっきらぼうに言った。

「お、おう。巳五郎さんからの……ええと、名前は聞いてたが、誰だっけ?」

江戸ではかなり大柄な背丈の平太を下から見上げながら、男は探るような目つきで訊いた。

「平太って言います」

「そうそう、平太だったな」

そう言いながら、男は平太の顔から足元まで目を走らせた。

「でかいな。丈はいくつだ?」

「六尺二寸」

「どこに住んでる?」

「麹町の長屋です」

なるべく表情を顔に出さないよう平太は答えた。

 ふん、と軽く鼻息を吐いた男は

「手え見せろ、両手だ」

と言った。すると、意味が分からず、おずおずと差し出す平太の手を見て

「力仕事はやったことが無えようだな。ここの客は無骨な手を嫌うからな。よし、今日から働いてもらおう」

と言った。そして、パンパン、と両掌を大きく打ち、開店作業をしていた若い男達を集めた。その中でも平太の身長は抜きん出ており、みんなが平太を見上げていた。

「今日から入った……ええと、誰だったっけ……」

「平太です」

 男の適当な紹介に、平太は無表情で軽く頭を下げた。

「平太、今日のところは奥から茶や菓子を運べ。客の相手をしているこいつらが手を上げたら、その卓に行って注文を書き取って奥の奴に通し、出てきた茶や菓子を運ぶんだ。卓はいろはの‘い’から‘る’までの十卓だ。‘へ’は無えからな。分かったか?」

「へい」

ウェイターのバイト経験を持つ平太にとって、分かったか、と訊かれるほどの内容ではなかったが、大人しく頭を下げた。

「平太、ちょっと来い」

 一応の紹介が終わると、男は平太を奥に呼んだ。

 やたら丈の長い暖簾を潜って奥に入ると、そこには二畳ほどの狭い帳場があった。その框に腰掛けた男は手を伸ばして帳面を引き寄せ

「ええと、平太ってどんな字だ?」

雇人(やといにん)帳なのか、名前や住まいを聞きながら書き取り始めた。

「前は何をしていた?」

「麹町にある口入れ屋、ほたる屋の使用人でした」

「何で辞めた?」

(くび)にされました」

「馘?」

「他の使用人に酷く苛められて、それを旦那に訴えたら逆に、店の調和を乱す奴だ、って馘にされました」

平太は俯きながら答えた。

「そんなに酷かったのか?」

「へえ。草履を隠されたり、飯の中に虫を入れられたり……」

「そりゃあ酷えな。俺も最初の店で苛められたが、ほたる屋ってのはそんな酷え店なのか?」

「へえ。旦那は意固地で変人で、気に入らない事があれば給金も払ってくれません。その上、兄分の使用人には意味もなく殴られるし、その下の奴は店の銭くすねて俺のせいにするんです」

 ほたる屋の皆には悪いと思いながらも、平太は嘘八百の偽りを口にした。

「しかも、旦那も上の使用人も衆道(しゅどう)男色野郎で、夜な夜な俺を手籠めにしようとするんです。店には怪しげな陰間を連れ込むし……それら全部を意見したら、馘になりました」

 面白半分で次々と作り事を言っている平太の耳に、突然、うっうっ、という声が聞こえ始めた。ふと見ると、男が筆を持ったまま俯いて泣いていた。

「俺と同じだあ……お前ぇの言ってる事は、俺がされたのと一緒だ。うっうっ。俺も嫌で嫌で仕方なかった。うえっ」

“マジかよ。適当に出鱈目を言ったのに、そんな店あるのかよ”

 面白可笑しく口にしたでっち上げに図らずも同調されてしまった平太は、返す言葉が無く突っ立っていた。

「す、すまんな。つい、昔の俺に重ねちまった」

そう言った男は懐から出した手拭いで、びー、と鼻をかみ

「そんな店、馘になって良かったんだよ。この店じゃそんな事無えから安心しな」

涙と鼻水で濡れた顔を平太に向けて優しく言った。平太は少し罪の意識を感じたが、そんな事は表情に出さず、へい、と両膝に手を当てて深くお辞儀をした。

「俺は伊平(いへい)だ。この店の帳場を仕切ってる」

 自分を紹介する男は自らの名を名乗り、再び鼻をかんだ。

「じゃあ、伊平さんがこの店の旦那ですか?」

「いや、俺はただの手代だ。つっても、この店にゃ番頭はいねえから、番頭も兼ねてるようなもんだ」

伊平はちょっと自慢なのか胸を張った。

「では、旦那様に挨拶を」

 平太は軽く探りを入れてみた。

「ああ、旦那ならいねえよ」

「旦那もいない店なんですか?」

「いやいや、旦那はトラジさんだ」

「トラジ?焼肉屋?」

迂闊にも平太はこの時代には無い店の名前を口にしてしまった。

「何だその、やにくや、ってのは?」

「い、いえ、昔似たような名前の店があったんで、勘違いしました。すみません」

慌てて適当に誤魔化しながら、平太は大雑把にしか聞き取らなかった伊平の耳に感謝した。

「旦那は四、五日に一度くらい店に顔を出すんだが、今日は来ねえ日だ」

 そうですか、と応えた平太は心の中で

“収穫あり。旦那の名前はトラジ”

と呟いた。

 その日、平太はそのまま店の表と奥の往復で働き、掃除も終えて夜五つに解放された。

 店ではずっと立ちっ放し、歩きっ放しで久々に足腰が疲れていた。店の裏口から出て

“初めてウェイターのバイトをした時と同じだ。ほたる屋だったら、時々座って休めるけど……これからまだ麹町まで歩かなきゃいけないし、しばらくはキツイな”

 そんな事を考えながら暗くなった通りをとぼとぼと歩いていると、横の路地から突然すっと手が伸び、着物の袖を引っ張られた。

 おわっ、と声を上げて逃げようとする平太の視線の先に見慣れない男の顔があり、その男は唇に人差し指を立て、しーっ、と口を鳴らした。そしてその後ろには衣笠が立っていた。

「驚かさないでくださいよぉ」

相手が確認できた平太は、どきどきする胸を撫でながら素早く周りを窺い、二人を追うように路地に入った。

吃驚(びっくり)させて申し訳ありません」

 少しだけ月明かりの入り込む路地で、衣笠が手刀を切るように詫びた。

「こいつは手下の金吾(きんご)です」

続けて紹介した御用聞きらしい男がぺこりと頭を下げた。薄暗い中で、同じ御用聞きの留吉よりも若そうな風貌が見て取れた。

「どうでした?」

「ちょっとだけ判明した事があります」

 小声で問い掛ける衣笠に近寄り、平太も声のトーンを合わせて報告した。

「あの茶屋には接客の若い者以外に手代の伊平という男がいて、トラジという名の旦那が四、五日に一度の割合で店に来るそうです」

「トラジ?……虎に次ぐとでも書くのかな。金吾、心当たりはあるか?」

「いえ、トラジという名だけじゃあ、あっしにもちょっと……」

訊かれた金吾が首を捻りながら言った。

「分かりました。他には?」

「今のところは……。まだ勝手も分かりませんし、すぐにいろいろ探り始めると不審に思われそうで……」

「そうですね。また何かありましたら、毎夜この路地で平太さんが通るのを待っていますので」

そう言って衣笠は白い歯を見せ、金吾も側に控えるように腰を低くして目で頷いた。

「ありがとうございます。では、何か分かった時はこの路地で報告しましょう」

 平太は腰を深く折って別れを告げ、路地から通りに出て九十度左に折れる時、ちらっと路地を見たが、既に二人の姿はそこに無かった。


◆井戸端とケイ

 翌朝、出勤場所が遠くなった事もあって、平太はいつもより更に早く起き、井戸端に腰掛けて歯を磨いていた。

「おはようございます」

 脚が怠いなと、ぼうっと考えながら機械的に房楊子を動かしていた平太は、突然横から声を掛けられた。声のした方を見ると、笊に泥の着いた大根を載せたケイが笑顔で立っていた。

「お、おはよう」

 先日、忠助からケイの正体を聞いてしまった平太は、返事はしたけれどまともにその笑顔を見る事ができず、側に流れる溝に目を遣った。

「平太さん、今日は早いんですね」

「う、うん」

 溝を見ながらしゃかしゃかと磨き終えた平太は、そのまま逃げるように部屋に戻り、障子戸を閉めて框に座り込んだ。興奮して心臓が高鳴っている訳でもないのに、首から上が鬱血したような膨満感を感じていた。

 原因は自分でも分かっていた。あまりに意外なケイの正体に途惑うばかりで、平太の心の中にもやもやと暗雲が渦巻いているのだった。ケイの言葉にどう返せば良いのか、どう接すれば良いのか、これ以上接するべきではないのか、全く分からなくなっていた。

 平太は気持ちを落ち着けようと煙管を咥えて火を着けた。

“どうしたんだ?どう話をすればいいんだ?相手は俺とは違う種の人間だ……”

自問自答にもならない混沌状態のまま、無軌道にオーバーロードする思考を制御できないでいた。

“だけど、違うからと言って何がある?排除すべきなのか?忠助さんも、奇異な目で見る事なく極自然に接すりゃいい、と言っていたけど……”

 平太は煙管を指に挟んだまま、両掌で脳震盪を起こすくらい思い切り顔を張った。そうでもしないと、大声で叫んでしまいそうだった。

“あーーー、違う違う違う。頭で考えて人と話すのか?ダメだダメだダメだ”

答えは分かっていた。忠助の言うように、極自然に接すれば良いとは分かっていた。しかし、それができない自分が嫌だった。作戦でも練るように頭の中で接し方を考える自分が薄汚く思えた。

 自己嫌悪の泥沼に(はま)ってしまった。既に火の消えた煙管が指の間から土間に落ち、平太はそのまま横に倒れ込んだ。顔の前に突いた右手の指には、煙管を挟んでいた跡が薄黒く残っていた。

 ふと、井戸端に湯飲み茶碗を忘れてきた事に気が付いたが、それを取りに行く勇気は無かった。さっきと同じで、ケイの顔をまともに見られないのは分かっていた。何故か両目から涙が流れ、頬を伝わって板間に流れた。

 突然、がらっ、と建て付けの悪い音を立てて障子が開いた。         

「平太さん、早くご飯を……」

朝食を摂りに来ない平太を太一が呼びに来たのだったが、板間に転がる平太を見て立ち(すく)んだようだった。

「平太さん、平太さん、どうしたの?」

 太一が駆け寄って声を掛けても、平太は何も言わなかった。自分が酷く汚い人間に思えた平太は起き上がる事もなかった。

「大丈夫?どこか痛いの?顔が赤いよ」

太一の声が聞こえたのか、外からケイが心配そうに覗き込んだ。

“ダメだ。このままじゃダメだ”

 ケイの顔が目に入った途端、平太は縁に手を掛けて泥沼から顔を浮き上がらせて、ああ、と(うめ)き、のろのろと身を起こして衝立に掛けていた手拭いに手を伸ばして顔を拭った。板間の顔が置かれていた位置には、一文銭ほどの涙の跡が二つあった。身を起こした平太に、太一がもう一度その名前を呼んだ。

「大丈夫だよ」

 やっと平太は言葉を出したが、その声と表情は暗く深く沈みきったものだった。それを見た太一は、次の言葉を何も言えず、ただ土間に突っ立っていた。

「そろそろ行かなくちゃ」

立ち上がって抑揚なく呟いた平太は、浴衣を脱いで着物に着替え始めた。

「朝御飯どうするの?」

 太一がピント外れにも聞こえる質問をした。

「いらない」

そう言った平太は角帯を締め、草履を履いて太一の脇をすり抜けるように表に出た。

 外にはケイが前掛けで手をくるみ、心配そうな顔で立っていたが、あえて視線も振らず、平太は無言で長屋の木戸に向かった。平太の葛藤と自己嫌悪を知らない太一が、ケイの隣に立ってその背中を見送っていた。


 茶屋に着いた平太はケイの事と朝の葛藤を忘れるため、茶や菓子を運びながら店内の観察や情報の入手に集中した。食欲もない事から昼飯も摂らず水だけで働いた閉店時の顔は、目の下に隈ができていた。

 閉店後の片付けを行っていると、

「平太、どうした?具合でも悪いのか?」

心配でもしたのか伊平が声を掛けてきた。最初の面談擬きの会話から平太に同情したのか、伊平は店での振る舞いや仕事のやり方など、何かと丁寧に教えてくれていた。

「いえ、具合は悪くないんですが、食欲が……」

「そうか。そうだろうな、今まで酷え苛めに遭ってきたんだ。すぐにゃ食い気も戻らねえよな」

正直に答える平太に、伊平は完全に勘違いした言葉を掛け

「これで帰りに喉を通る物を、そうだな卓袱(しっぽく)蕎麦か、いや卵の入った麦とろ飯でも食いな」

周りを気にしながら懐の財布から一朱金を一枚取り出した。

「こ、これじゃあ多過ぎます」

「しっ、声が大きい。これは、昨日今日の働きを見ての祝儀みてえなもんだ。まぁ支度金も渡してねえしな。俺にゃ分かるんだ、お前ぇは正直で働き者だ。とにかく、いいもん食って力を付けねえと立ち直れねえぞ」

載せられた金貨を慌てて押し返そうとする平太の掌を、伊平は自分の両手でぎゅっと包み込んだ。

「ありがとうございます」

 素直に頭を下げた平太だったが、心の中に何故か申し訳ない気持ちが溢れるとともに、おそらく悪人ではあろう伊平が、適当に語った身上をまともに信じて情けを掛けてくれた事に、再び自己嫌悪の感情が湧き上がってきた。自分が最低のクズに思えた平太は、下げた頭を上げる事ができなかった。

「おいおい、他の奴らに見られちまうだろう。もういいから、顔を上げて片付けを済ましちまえ」

 平太の態度を感謝感激と勘違いした伊平は、周りを見回しながら平太の肩をぽんと叩き

「お前ぇ本当に素直でいい奴だな。そうだ、明日から新入りが入るんで、運び役はそいつにやらせるから外回り、接客をやってくれ」

そう言って帳場に下がって行った。

 伊平の言葉は平太を信じて心から言っているように聞こえた。素直で良い奴と言われ、平太の自分に対する嫌悪感は更に膨らみ、しばらくその場から動けなかった。


 その後も自分を侮蔑しながら片付けを終えた平太は、灯りの落とされた店を後にして通りに一歩出た。後ろで誰かが閂を下ろす音が聞こえた。

「平太さん」

 少し歩くと、例の路地から低く抑えた金吾の声が聞こえ、平太は周りを窺いながら、すっとその路地に入り込んだ。そこには昨夜と同じく衣笠の姿もあった。

「どうでした?」

「はあ、何もありませんでした」

 最低の気分に落ち込んでいる平太は、衣笠の問いに力無く返した。

「どうしたんですか?目の下に隈もできているし、何かあったんですか?」

衣笠の心配そうな問いには答えず

「ああ……そうだ。情報とは言えませんが、少し感触を(つか)んだ部分があります」

平太は言った。

「感触?」

「ええ。店の使用人は手代と称する伊平と俺を除いて七人いるんですが、その内の四人がただの使用人とは思えないんです」

「ほう。何故そう思うんですか?」

「目つきも(するど)過ぎるし、身のこなしもただの町人とは思えません。店が終わった後も伊平とその四人は残っているようです。俺を含めた他の四人とも全く話をしないし、確実に一線を引いている感じです」

平太は店で感じた事を抑揚の無い調子で話した。

「と、言う事は」

「おそらくその四人は、実行犯もしくは深く事情を知っている者ではないかと思います。もし、次の犯行が行われるとすれば、その四人と伊平に何らかの動きがあるかも知れません」

「もしそうなった時、その動きを掴む事は可能でしょうか?」

「それは……分かりません」

 何とも言いようが無く顔を伏せて答える平太に、衣笠は

「すみません、愚問でした」

と頭を下げ

「また何か分かりましたら、ここで連絡をお願いします。しかし、平太さん」

と言った。はい?と顔を上げた平太に

「かなり(やつ)れて見えますが、大丈夫なんですか?」

顔を覗き込むように続けて訊いた。

「はあ、いろいろあって……食欲も湧かないんで、今日は何も口にしていないんです」

「どこか体の具合が悪いんですか?」

「いえ、体はぴんぴんしています。ちょっと思う事がいろいろと……」

「そりゃいけません。この先何日この探索が続くか分からないのに、何の悩みか知りませんが、食い物が喉を通らないなんて、それじゃあ続きませんよ」

「いやいや、大丈夫ですから」

 首を振りながら胸の前で両掌を震わせる平太に、金吾が低い声で口を開いた。

「平太さん、さっきもふらつくように歩いていやした。あっしが口を挟むのも差し出がましいんですが、おそらく心に何か(わだかま)ってるんでやしょう。しかし、何か口にしねえと衣笠様の仰るように続きませんぜ。探索に集中できなくなったり、最悪動きが取れなくなったりした日にゃ、平太さんだけじゃねえ、お奉行所にも迷惑の掛かる話でさあ」

「金吾、言葉が過ぎる!控えろ!」

 厳しい言葉で衣笠が制した。即座に、へい、と頭を下げた金吾が一歩下がった。

「平太さん、金吾がつまらぬ事を言いまして申し訳ありません」

「いいえ、いいんです。金吾さんの言うとおりです。まだ何日続くか分からない大事な探索なのに、自分の事だけで頭を一杯にして、うじうじしていた俺が悪いんです」

詫びる衣笠に、平太も深く頭を下げた。

「ならば、何か食しに行きませんか?」

 突然の衣笠の提案に平太は、へ?と顔を上げた。

「私も金吾も本日これでお役御免なんですが、実は二人、昼も摂っていないんです。ちと、どころか空腹 (きわ)まりない状態です。まあ、明日もありますので、あくまでも平太さんさえ良ければ、ですが」

衣笠は照れ笑いをしながら頬を掻いた。

 その屈託のない笑顔を見た途端、今まで何も感じなかった平太の腹が、きゅう、と鳴った。

「へい。お腹は正直なようで。では、行きやしょう」

 一歩下がっていた金吾にも聞こえたようで、笑顔で一歩前に出た。態と作った笑顔にも思えたが、平太は始めて金吾の笑顔を見たような気がした。

「すみません。今になって腹が減ってきました」

平太も照れながら月代を掻いた。


 用心深く路地を出た三人は、通りを横切って反対側の路地に入って行った。

「金吾、昨夜と同じ店か?」

 歩きながら衣笠が訊いた。

「いえ、毎日同じ店じゃあ面白くありやせんので、今夜は手下で使ってる下っ引きの‘これ’がやってる店に行きやしょう」

前を行く金吾は、右手の小指を立てた。

「しかし、こんな時刻に開いている店があるんですか?」

 平太が素直な疑問を口にした。平成の時代と違って、深夜営業や二十四時間開いている店など無い事は分かっていた。

「まあ、奉行所からのお達しもあるんですが、それはそれ、地味にやっている店もありますよ。犯罪の温床にさえならなければ、お目溢(めこぼ)しってとこですかね」

同心としてあるまじき発言が衣笠の口から吐かれた。

「下っ引きの女房がやってる店ってのもありやすが、われわれ十手を預かる者達の集まりの場にもなってやして、同心方々との聞かれたくねえ打合せを行う、って事もあるんでやす」

半ば言い訳のように金吾が言った。

 そうする内に、程なく縄暖簾の下がる小ぢんまりした店に着いた。外の提灯の灯りは落とされていたが、中からは良い匂いが漏れ漂っていた。金吾はちょっと背を屈めて暖簾を分け、邪魔するよ、と引き戸をスライドさせた。

「あら、金吾親分。いらっしゃい」

 中からは嬌声(きょうせい)にも近い明るい声が返ってきた。続いて入った衣笠と平太にも

「まあ、お珍しい。衣笠様も、それと、ええと」

店の中程で女将と思しき若そうな女が、真っ黒い出っ歯を剥き出しにして笑っていた。

「平太さんだ」

 衣笠が横に一歩除けて紹介した。平太もぺこりと会釈した。

「あれま、衣笠様がさん付けをされるとは、訳有りの御仁(ごじん)ですかい?」

「そんな事より、奥は空いてるかい?」

女の疑問を制するように金吾が訊いた。

「へいへい、空いておりますよ。いつもの内緒話ですね。お出しするのは毎度のものでよろしいですか?」

女は左手で奥の障子を案内し、金吾は、おう、と応えた。

 障子を開けた先は、三畳ほどの狭い畳部屋だった。これまた狭い卓を挟んで三人が腰を下ろすと、程なく女が大きな盆に載せられた徳利と杯、田楽や煮物の盛られた皿を運んできた。

「それでは平太さん、明日もよろしくお願いします」

「こちらこそ。お二方にはご面倒をお掛けしますが、よろしくお願いします」

 杯を手にした三人だったが、平太だけがそれを目の高さに掲げる、この時代では不自然なポーズを取った。衣笠と金吾はその仕草に首を捻りながらも杯を口にした。

 極度の空腹に流し込んだ人肌の酒が平太の胃袋を刺激し、急激に胃酸の分泌を促し始めた。加えて、皿に盛られた田楽から立ち上る香ばしい匂いも加勢して、平太は先程までの食欲不振が嘘のように箸を伸ばした。そして、褐色の味噌が塗られた豆腐を一口ほ頬張って、その熱さにほふほふと息を吐きながら嚥下した後、ほうー、と呼気とも吐息ともつかない空気を一リットルほど吐いた。

「どうです?旨いでしょう」

 平太の顔を覗き込みながら金吾が訊いた。

「ええ。空腹のせいだけじゃなくて、本当に旨いですね」

酒を一口 (すす)って口の中を落ち着けながら平太は応えた。

「味噌にどう味付けをしているのか、田楽に関してはこの店が江戸で一番だと思いますよ」

衣笠も蒟蒻(こんにゃく)を噛みながら言った。煮物の昆布、大根と続けて口にして一息ついたのか、平太は箸を置いて猪口を口にした。三つ、四つと種を食した他の二人も同様に半ば手酌で猪口を(あお)っていた。

「少し顔色が良くなってきましたよ」

 自分で猪口に注いだ衣笠が、その徳利で平太の猪口にも酌をしながら言った。

「はあ。胃の腑は少し落ち着きました」

「一体、そんなに食も無くなるほどの事とは何なのですか?」

平太が猪口を煽るのを見ながら衣笠が訊いた。

 しかし、平太は何も答えず、困ったような顔で衣笠に返杯した。気遣う二人に対し、口にしても詮の無い話であったし、口にはできない話でもあった。

「女でやしょうかね」

 右手に徳利、左手に猪口、口にちくわを咥えた金吾が、訊くでもなく断定するでもなく、猪口を見ながら言った。やはり平太は何も言わなかった。

「相手は訳有り。諦めて一切気にしねえように無視するか、どうしようか、分かんなくなっちまって……ってとこですかね」

 酒を煽って吐く金吾の言葉が、無反応を装う平太の心にぶすりと突き刺さり、猪口を持つ手が止まった。突っ込んで良いのか図りかねる衣笠は、二人の顔を交互に見ていた。

「そう……見えますか」

 一度止まった手を無理矢理動かし、平太は猪口を置いて言った。その猪口に酌をしながら

「あっしゃこう見えても、この衣笠様から十手を拝領するまでは女がらみの色恋仕事ばかりやってました。色恋どころか女衒までやりやした。病以外で飯の食えねえ悩みなんてのは、大方借金か色恋事に決まってまさあ。特に女と違って男ってえのは、すぐに顔に出るんでさあ」

今度は平太の顔を見ながら自信満々に言った。

「でしょうねえ」

そう返した平太はまだ自分を嫌悪しているのか、上唇を強張らせて、ふん、と鼻息を吐いた。その視界の隅に、興味津々で二人の会話を聞いている衣笠が見えた。

「相手は、他所のお内儀……もしくは武家の娘」

 マジシャンが客の捲ったカードを当てるように語る金吾に

「違います」

平太は素っ気なく返し

「金吾さんは恐ろしい人だ。俺から全てを引き出そうとする」

と続けて言った。

 金吾は表情を変えず、窺うような目で平太を見ていた。そしてその目を逸らして衣笠に酌をしながら

「言っときますが、別に平太さんの色恋のお悩み相談をしようってんじゃねえんです。平太さんが女の事で悩もうが飯が食えまいが、そんな事ぁ知ったこっちゃねえ。そんな心の中が整理できねえ状態で今の仕事を続けられちゃ、困るんでさあ」

 金吾の言葉は厳しかった。衣笠が、おい、と制するように横目で見た。しかしそれは平太にも分かっている事だった。だから、それを整理できない自分を嫌悪しているのだった。

 平太は卓に伏せてあった湯飲み茶碗に酒を注ぎ、荒く飲み干した。料理を口にしながらとは言え、極端な空腹で飲み始めたせいかアルコールが血中に充満してきていた。

「俺は、自分に腹が立って……嫌いなんですよ、自分が」

 何も言うつもりはなかったのだが、つい口にしてしまった。

「あっしゃ自分が大好きですがね」

金吾は挑戦的な言葉を口にしながら、平太の持つ湯飲み茶碗に酒を注いだ。それを衣笠が再び目で制したが、金吾はお構いなしだった。

「金吾さんが自分を好きだろうが嫌いだろうが、そんなのは知りません。俺は、頭で考えて人と接しようとする、理屈で人との付き合い方を決めようとする自分が嫌いなんです」

 平太は再び湯飲み茶碗を煽った。

「ほう。じゃあ女の話じゃねえんで?」

またも平太に酒を注ぎながら、金吾は意地悪く訊いた。

「女は女ですよ」

 平太は徐々に金吾の術中に填っていった。

「その女との付き合い方を理屈で考えるご自分が嫌なんですかい?」

「そうです」

「何で頭で考えて付き合わなけりゃいけないんでしょう?」

「そりゃ、さっき言ったように、訳有りだからですよ。訳有りだという事を知ってしまったからです」

先刻訳有りと口にしたのは平太ではなく金吾だったが、術中に填るとともに急激に酔いの回り始めた平太には、どうでもいい事になってきていた。

「そんなに嫌いな自分なら、捨ててしまいましょう」

 衣笠が突然口を開いた。

「必要の無いもの、嫌なものは切り捨てる。これが世の(ことわり)です」

場に不似合いな、にこやかな表情でそう言った。

「それができないから嫌になっているんですよ」

簡単に言わないでくれ、とでもいう顔で平太は吐き捨てた。

「じゃあ認めましょう。そういう自分を認めましょうよ」

衣笠も湯飲み茶碗を手に取り、自分で酒を注いだ。

「頭で理屈を考えてもいいじゃないですか。しかし、その女の人とは接したいんでしょう?接したくないと言うのならそこまで悩む事も無いでしょうから。ならば理屈だろうが頭で考えようが、思うように接すればいいじゃないですか」

そう言った衣笠は湯飲み茶碗を一気に煽った。

 馬鹿みたいに単純な言葉を投げつけられた平太は、湯飲み茶碗を手にしたまま呆けたように口を開けた。さらに衣笠は手酌で酒を注ぎ

「その女と接したいと思うのも理。接し方を頭で考えてたとしても、それもまた理。ならば理は理と認め、それに則して行動するのが人としての道。これが朱子学の核心です」

かなり怪しげな、というより完全に朱子学を曲解した解釈まで持ち出し、当たり前の事をさも当然のように語る衣笠の笑顔が眼前に迫った途端、平太は一瞬で全てが阿呆らしくなった。衣笠の言葉は平太の悩みに対する何の回答にもなっていなかったが、何故かすっと肩から力が抜け、後は苦笑しか出てこなかった。

「参りました」

湯飲み茶碗を置き、泣き笑うような表情で平太は言った。

「全ては理のままに、ですね」

「そうです」

平太の悩みに一発回答が出せたと勘違いしたのか、衣笠は胸を張って答えた。

 その後は暫し無言で酒を酌み交わし、料理の皿が空になった頃

「明日もありやすんで、そろそろ帰りやしょうか」

金吾の一声で平太は腰を上げた。衣笠はまだ飲み足りない感じなのか他の二人の顔を見比べていたが、その二人が腰を上げた事から、残念という表情で刀を手に立ち上がった。そして

「金吾、勘定を訊いてくれ」

と言った。

 それを聞いた平太は

「い、いや、ここは俺が」

と衣笠と金吾の間に割って入った。

「何を言うんですか。誘ったのは私ですから」

「それは困ります、あっ」

 平太は思い出したように声を上げた。

「そう言えば、ここに一朱ありますが」

懐から金貨を取り出し、茶屋で伊平から貰った経緯を二人に話した。

「そのような銭で勘定を払ってもらう訳にはいきません」

衣笠は臭いものでも払うように顔の前で掌を往復させた。

「あっしゃ聞かなかった事にしやすんで、その銭は黙って収めてくだせえ」

隣で金吾も言った。でも、と食い下がる平太に衣笠は

「さっきの話の女に簪でも贈れば良いではないですか」

笑いながら無責任な使途を口にした。

「そ、そんなあ。悪党かも知れない奴からの銭ですよ?」

「さあて、私もこの話は聞かなかった事にしますので」

困った顔をする平太に衣笠は素っ呆けた顔で言い、障子を開けてさっさと雪駄を履き始めた。

「あら、もうお帰りですか?」

そう言いながら寄ってきた女将に、いくらだ?、と金吾が訊いた後、ほい、と衣笠が懐から手を出して銭を手渡した。

「ご馳走になりました、ありがとうございました」

 店を出てすぐ、平太が衣笠に深々と頭を下げると

「とんでもない、礼を言われるまでもありません。これから麹町までちょっと距離はありますが、気を付けて帰ってください」

衣笠は気さくに手を上げ、では、と言って金吾と二人背を向け、雪駄をチャラチャラ鳴らせながら歩いていった。

 その背中を見送りながら

“悪い人じゃないんだろうけど、何だか……二人とも良く分からない人だ”

と平太は思い、もやもやしていた思いが少し軽くなったような、それでいて何も解決はしていない事を自覚せざるを得ない、複雑な気分で二人とは反対方向に踵を返した。

 帰る道すがら、腕組みをしながら歩く平太は

“理か……”

適当にしか聞こえなかった衣笠の言葉が頭に浮かび続けていた。


◆井戸端とケイ

 翌朝、昨夜は飲んで帰りが遅くなって短い睡眠時間だったにも拘わらず、平太はかなりすっきりとした目覚めを感じていた。夢を見た憶えも無く、短時間でもかなり熟睡したようだった。

「ん?」

 昨日の朝、井戸端に忘れたはずの湯飲み茶碗が流しに置いてあった。太一が入れておいてくれたのか、中に立てられている房楊子とともに、もう忘れちゃだめだよ、とでも言いたげにぽつんと、それでいて十分目につく位置にそれは置いてあった。それを前に少し途惑った平太だったが、意を決したように歯磨き粉とともに手に取って障子を開けた。

 そこには、昨日と同じように食材を洗うケイの姿があった。一瞬平太の脚が止まり掛けたが、無理矢理に腰から下の筋肉に力を込め、井戸端に足を進めた。

「おはよう」

淀みなくすんなりと言葉を出す自分に心の中で驚きながらも、平太はいつものように井戸から水を取り、房楊子に歯磨き粉を着けた。

「おはようございます」

 房楊子を咥え、今度は首の筋肉に電気信号を流し、挨拶を返すケイを振り返った。身構えるようにぎこちない動きをする平太に比べ、ケイの表情に昨日までとの変化は見当たらなかった。

「太一さんに聞いたんですが、このところほたる屋さんとは違う所で働いているんですか?」

 青菜を洗う手を止め、ケイが見上げるように笑顔で訊いた。

「あれ、太一そんな事言ったんですか?」

太一もつまらない事を言う、と思いながらも、平太はいつもと変わらないケイの笑顔で、すんなりと会話に入って行ける自分を感じていた。

「実は頭の指示で、浅草にある店で働いているんです」

 一度水を口に含んで歯磨き粉を吐き出した後に言葉を続けた。

「それはほたる屋さんのお店なんですか?」

「いえいえ、ほたる屋とは違うんですが、少し事情があって俺が行く事になったんです」

平太は茶屋に行く事になった事情には触れず、簡単に説明した。

「そうなんですか。でも浅草はちょっと遠いですね」

「だから、このところ朝が早いんです」

湯飲み茶碗の水で房楊子を洗いながら応え

「そろそろ朝飯食って行かなくちゃ」

ケイになのか自分になのか分からない、独りごちるような言い方をした平太は、ケイの顔を見下ろすように、じゃあ、と笑顔で右手を上げた。

 部屋に向かって踵を返したその背中に、行ってらっしゃいませ、とケイの声が聞こえた。その声に、平太は振り返ろうかと思ったが、ケイに見せる笑顔が素直なものになるのかは自信が無かった。その代わり、猫のように少し背を曲げてもう一度右手を上げた。

 部屋に戻って框に腰掛けた平太は

“すんなりと話ができたじゃないか”

丹田から深く息を吐きながら自分の心に呟いた。そして、彼らを奇異な目では見る必要は無えし、極自然に接すりゃいいんだ、という忠助の言葉が思い出された。

“極自然に……か”

 そうだよな、と声に出して呟いた平太はすくっと立ち上がり、再び

「そうなんだ」

と少し大きな声で言いながら、嬉しいような泣き笑いのような表情で浴衣から着物に着替え始めた。


◆接客と陰間

 その日から平太は客の対応に回った。伊平の言ったとおり新たな使用人が一人増え、茶や菓子の配卓から人手の足らなくなっている接客をするようになったのだった。

 長身で端整な顔立ちをした新たな接客係は客の婦女子に大好評で、ほとんどの客から名前のみならず趣味や住まいまで訊かれる始末だった。

「これで益々客が増えそうだな。俺の見込んだとおりだ、平太。その顔に加えて背が高けえってのは武器だぜ」

 何組かの接客を終えた八つ時、暖簾の奥の帳場横で一服している平太に、伊平が嬉しそうに声を掛けた。

「自分じゃそんなに背が高いとは思っていないんですが」

紫煙を吐きながら伏し目がちで、少しはにかむように応える平太は、伊平が自分を良い方向に誤解しているようなので、探索の間あくまでも良い奴で通そうと考えていた。

「そんな(こた)ぁねえよ。この店でお前ぇより背の高い奴がいるか?この店の中だけじゃねえ、この浅草界隈でもお前ぇ以上のは数人しかいねえぞ」

 伊平が煽てるようにそう言った時

「平太、指名だ」

接客係で筆頭格の男が暖簾を分けて顔を覗けた。

「へ?指名?」

 この茶屋では客がお気に入りの男を指名する事が可能だった。当然、金二朱という指名料金も発生して客がそれを支払い、その半分が接客係の歩合として支払われる仕組みになっていた。

「指名って言っても、俺は今日から外回りなんで、指名されるような馴染みの客はいないはずなんですが……」

「‘ろ’の卓、とびきり艶っぽい姐さんだ」

首を捻る平太に、暖簾の隙間から店内を覗きながら男が言った。

「何でもいいから、行ってこい」

 そう促され、訳が分からないまま平太が店内に向かおうと腰を上げた時、平太、と伊平に呼び止められた。へえ、と振り返った視線の先には

「お前ぇ、ちょっと暗い感じがするからな。明るーく朗らかーに、だ。いいな」

伊平が頭の上で大きなボールでも抱えるように、両腕を大きな輪の形にして言った。言いたい事は分かったが、そのポーズの示す意味がよく分からなかった平太は、へえ、と応えて指定された卓に向かった。

 ‘ろ’の卓に座る女は、呼びに来た男が言ったとおりかなりの美人だった。

 静かに近づいた平太は

「ようこそお越しくださいました」

とお辞儀をして席に腰を下ろし、目の前で軽く微笑む女に正対した。

 眼前でじっくり見た女の顔は瓜実の小顔、化粧もあるのだろうが肌は真珠のような色白で、着用している渋い薄紫色の上品な着物とも相まって、そこいらの娘にも劣らない張りと艶があった。目鼻立ちも控えめながら凛とした、錦絵に描かれても不思議ではない顔立ちだったが、やはり見覚えのある顔ではなかった。

「飲み物は何になさいますか?」

 心の中で自分への指名を疑問に思いながら、平太はオーダーを訊いた。

「ほほほ、分かりませんこと?平太さん」

左手の甲を軽く当てた女の口から流れる声は、多少上品な音階と言葉遣いに換えられていたが、まさしく文太の声だった。

「げげっ!」

 サプライズを通り越したあまりの驚愕に、平太は悲鳴ともつかない声と共に身を仰け反らせてしまった。その声で隣卓の客と接客係が何事かと振り向いた。自分でも(まず)いと感じた平太は引き攣った顔を素早く元に戻し、その顔を女に近づけて小声で言った。

「ぶ、文太さん……ですか?」

「ふぉっふぉっふぉ。やはり分からないようね」

文太も同じように顔を近づけて小声で返した。

「な、何でここに?」

「あら、頭から言われて様子を見に来てあげたのに、何で、ってのもお言葉だわねえ」

怪しく科を作りながら、文太の顔が更に近づいてきた。

 いつもなら首を引いて彼我の距離を確保するはずの平太だったが、どう見てもその美人が文太には見えなかった事から、そのままの超至近距離で会話を続けた。

「と、とりあえず何か注文してください」

「あらら。何日ぶりかで顔を合わせたのに、すぐにビジネスの話になるのかえ?」

 言いながら、文太は口に当てていた手を平太の顔に持って行き、その鼻をぺんと軽く人差し指で弾いた。そして

「じゃあ、上等なお茶と最中を二つ頂こうかしら」

慌てて顔を引く接客係に艶っぽい微笑で言った。

 その仕草と表情に一瞬、ぽっ、となった平太は

「い、いかん。怨霊退散っ、悪霊調伏っ」

と口ずさみながら印を結び、正気を取り戻そうと左右に激しく首を振った。

「まっ、怨霊だなんて、失礼ね。ぷんぷんっ」

体を捻ってその言葉を受け流した平太は、手を上げてオーダーを取り次いだ。

「で、どう?」

 注文を受けた男が奥に引っ込むなり、文太が小声で訊いてきた。

「どうって言っても、今のところは何も」

「あらま。てっきり何か尻尾を掴んだのかと思ってたら、まだ何も、なの?」

「はあ、すみません」

「まさか、この店での仕事をエンジョイしてるんじゃないでしょうね?」

 少し頭を垂れる平太に文太が意地悪く言った。

「そ、そんなあ。これでも一生懸命アンテナを立ててますって」

口を尖らせて反論する平太に

「あらそう?このところほたる屋じゃ、平太さんは女に免疫が無いからって、みんな心配してるわよ」

どこまでが本当でどこからが嘘かジョークなのか、文太は更にむんむんとした色気を発しながら言った。さながらその目は捕まえた鼠をいたぶる猫のようだった。

「だっ、誰が免疫が無いんですかっ」

「しーっ、声が大きいわよ」

平太が首を伸ばして周りを見回すと、何人かの客と接客係がこちらを見ていた。

 瞬時に首を竦めた平太の卓に、ちょうど新入りの配卓係が茶と菓子を運んできた。ありがと、と科を見せた文太は、茶を一口含んだ後

「このところ毎日、長屋の井戸端でおケイちゃんとデートしてるそうじゃない」

平太に衝撃的な毒針を打ち込んできた。

「で、で、デートなんかじゃありませんよ。あ、朝の挨拶をしているだけじゃないですか」

「ま、顔を真っ赤にしちゃって。だけどね、あの()は訳有りなんだから深入りしちゃダメダメよ」

 いつ頃からこの江戸に居るのかは知らないが、どうも文太もケイの正体を知っているようだった。

「そ、そんな事は知ってますよ。それに深入りなんて関係じゃありません」

「そーお、そうならいいんだけど。それより、お茶も最中も案外上物だわねえ」

最中を頬張りながら文太は意外そうに言った。

「そりゃあ日本橋の梅枝(うめがえ)屋の最中ですからねっ」

平太は背を伸ばして不機嫌そうに返した。

「あれま、機嫌を損ねたのかえ?」

「当たり前でしょ」

「と言う事は、図星なのね」

「何が図星なんですかっ」

「まあまあ、そんなに意気がらないの。それより最中をもう二つと菖蒲団子も二つ頂こうかしら」

 あっという間に二個の最中を平らげた文太は、上物の湯飲み茶碗を手に次のオーダーを出した。

「またですか、最中は主食じゃないんですよ。それに、大丈夫なんですか?文太さんも知ってのとおり、この店高いんですよ」

心配して訊く平太に

「あれま、最中って飲み物なのよ。お勘定だって、頭からたんまりと軍資金頂いて来てるから大オッケーなの」

文太はしれっと返した。

「それにしても……」

「いいのよ。使える金はどんどん社会に還元しなくっちゃ。ほら昔からよく言うじゃない、金は幕府の回しもの、って」

「それを言うなら、金は天下の回りもの、でしょう」

平太は呆れ顔で手を挙げて注文を告げた。

「それより、その変身ぶりはどうしたんですか?」

 すぐに顔を戻した平太が訊いた。

「ふぉーっふぉっふぉ。これがメイクアップアーティスト文太姐さんの秘技、大変身なのよお」

文太は再び口に手の甲を当て、勝ち誇ったように笑った。

「大変身……って、まんまのネーミングじゃん」

 呆れ顔で呟く平太の卓に再び菓子が届けられた。

「ここに来る前にほたる屋に寄ったんだけど、太一ちゃんなんか腰抜かしてたわよ。まだまだガキなのよねえ」

そう言って菖蒲団子を口にした文太は

「これもほんのり甘くて美味しいわねえ」

幸せそうに咀嚼(そしゃく)をした。

「それも梅枝屋の特注品です」

「そうなの?今度梅枝屋に行ってみようかしら」

「でもその甘さ、何か怪しい甘味料らしいですよ」

そう声を潜めて言う平太に

「怪しいったって、この時代にチクロやサッカリンは無いでしょうから大丈夫よ」

文太は気にする風でもなく、二つめの団子にかぶりついた。

 その時、文太の食いっぷりに呆れて背を伸ばしていた平太の目に、怪しいオーラを漂わせながら店に入ってくる一人の男が見えた。

 接客係の中でただ者ではないと平太が睨んでいる四人の内の一人がその男を確認した途端、暖簾を分けて奥に入って行き、程なく伊平と一緒に店に出てきた。

“あの伊平の態度……何者だろうか?雰囲気からしてひどく邪悪なものを感じるが……もしかして……”

 平太も驚くほど、その男に歩み寄る伊平の腰が極端に低く曲げられていた。媚びるような表情で作り笑いを浮かべる伊平は、その男と何やら二、三の言葉を交わした後、連れだって奥に入って行った。

 今度は最中を頬張っている文太に向き直った平太は

「あの男、もしかすると、この店の経営者かも知れません」

極端にその顔を近づけ、低いトーンの小声で文太に告げた。

「あいつ、ただ者じゃないわね」

文太も気が付いていたのか、最中を咀嚼しながらも引き締まった表情で返した。

「ええ。申し訳ないんですが、店を出て向かいの小間物屋の二階で見張っている衣笠様に知らせてもらえませんか?」

 そう伝えた平太は、文太が目で返事をするのを確認して席を立ち、奥に繋がる暖簾の前で

「‘ろ’のお客様がお帰りです」

と声を出した。

 奥からは、へーい、という声が聞こえ、程なく暖簾が分けられて精算金額の書かれた小さな紙を、漆塗りのこれまた小さな盆に載せた伊平が現れた。伊平はそのまま平太を従えるように文太の前で腰を落とし

「御勘定は、お召し上がりの品にご指名料を加えまして、金一分と百二十文でございますが、今後のご贔屓を願いまして、本日のお支払いは金一分丁度とさせて頂きます」

慇懃な態度で金額を告げた。

「あら、お安いのね。また近い内に寄らせて頂きますことよ」

声のトーンを上げて怪しい上品言葉を吐きながら、文太は巾着袋から上品な錦織の財布を取り出し、盆の上に一分金を丁寧に置いた。

「ありがとうございました」

 店表で深くお辞儀をする平太に見送られ、文太は腰を怪しく振りながら辻向かいに消えていき、ほう、と静かに溜息を吐いた平太は卓の片付けに取り掛かった。


 その姿を暖簾の隙間から窺う視線があった。

 奥から背を曲げて窺うその男の眼光は、極端な三白眼のせいもあって背筋に粟が浮かぶほどの鋭さを感じさせた。しかも、左眦のすぐ下から左耳にかけて深い傷跡があり、耳朶の下三分の一が欠けていた。

「あのでかい接客役は新入りか?」

 暖簾から奥に続く廊下で男が訊いた。

「へえ。入谷の巳五郎親分の紹介で、一昨日から」

文太の勘定を帳場の引き出しに収めた伊平が答えた。

「入谷の巳五郎?あんなやくざ者の紹介で大丈夫か?この前のような事は無いだろうな」

「背も高く、なかなかの男前ですし、真面目に良く働いています」

「前は何をやっていたんだ?」

「麹町のほたる屋で働いていたと聞ききました」

「麹町のほたる屋?あの口入れ稼業のほたる屋か?」

男は眉を顰めて怪訝そうに訊いた。

「ええ、そのほたる屋ですが、そこを馘になったようです」

「馘に?……胡散臭せえな」

 男はしばらく顎に手を当てて思案していたが

「まあいい。前の事もあるんで、変な動きをしないように目を光らせておけ」

用心深く言い付けた。

「へい」

「ところで、この五日間の上がりは?」

「相変わらず上々です」

「何かめぼしい情報は?」

「これといったものは、今のところ……」

「そうか。ものになりそうな情報は見逃すなよ。それはそうと、近々また‘裏’があるからな」

「今度はどこで?」

「麹町だ。その時はまた連絡する。それと、さっきの奴も含めて新入りが二人増えているようだが、呉々も裏の事は知られないように気を付けろ」

「分かりました」

 伊平との会話を終えると、男は裏口から店を後にした。


 茶屋の営業が終わり、接客係に転向したことから片付け作業を免除された平太は、いつもより早く店を出た。

 少し歩いていつもの細い路地に差し掛かった時、予想どおりその奥には衣笠と金吾が目立たないように待っていた。

「伝言は届きましたか?」

 すっと通りから消えるように身を滑り込ませた平太がすかさず訊いた。

「はい。急にぞっとするような美人が来たんで驚きましたよ。あの女は何者ですか?」

衣笠が嬉しそうに訊き返してきた。

「ああ、あの人には関わらない方がいいですよ」

「何故ですか?どこかのお内儀ですか?しかし、眉もあったし鉄漿もしていませんでしたが」

「陰間ですから」

センセーショナルな回答をさらっと返す平太に

「えーっ、かっ、陰間なんですか?」

衣笠は信じられないという驚愕の表情を見せた。隣で金吾も同じような顔をして口をあん

ぐりとさせていた。

「しかし、惜しい……あれだけの美人が陰間だなんて……」

「も、もしかして、あれが平太さんの訳有りの人ですかい?」

金吾が驚いた表情のまま平太に訊いた。

「違います。俺に陰間や男色の趣味はありません。それよりも、あの男の正体は分かりましたか?」

 ショックを受けている様子の衣笠に、平太が畳み掛けるように訊いた。

「あ、は、はい。それは金吾に後を付けさせまして判明しました」

そう言った衣笠が金吾に目配せをした。

「名前は寅次(とらじ)。本所の外れにある一軒家に住む旗本家の中間(ちゅうげん)崩れでさあ。中間の時から素行の悪いのが有名で、強請(ゆすり)、たかりは日常茶飯事。あまりの悪行に旗本家からも暇を出され、食うに困った挙げ句に大店の娘を拐かそうとしやがって、それで江戸から所払いになってたんですが、いつの間にか江戸に舞い戻ってやがったんです」

 直接寅次を調べた金吾がすらすらと素性を口にした。

「どうりで……邪悪な雰囲気を漂わせているはずだ。やはり犯罪組織の親玉か何かでしょうか?」

「今のところそれは分かりません。しかし、そいつの動きにも目を光らせる必要があるでしょうから、金吾の下っ引きに書状を持たせて奉行所まで走らせました。村田様の差配で今夜からでも見張りが付くでしょう」

「おそらくあいつが絡んでいるとすると、犯行前にはこちらの茶屋と同調した動きがあるでしょう」

「そうです。ですから平太さんには、その動きに注意して頂きたいのです」

はい、と腕組みをして頷いた平太は、他に遣り取りする情報も無い事から

「では、これで」

と二人に告げた。

 衣笠はまたどこかの店に誘いたそうな顔を見せていたが、平太は頭を下げて路地を後にした。


◆女将と卓袱料理

 いつもより少し早く帰路を歩いていた平太の腹が、きゅうー、と鳴った。今日は来客も多かった事から、忙しさのあまり十分に昼食を摂る時間が無く、近所の蕎麦屋で盛りを一枚掻き込んだだけだった。

“帰っても何も無いしな。こんな時コンビニでもあれば便利なんだが、カップ麺も無いし……何だか久し振りにがっつりとラーメンライスを食いたいな”

 昨日の食欲不振が嘘のように、頭の中を平成の食べ物が過ぎった。

“ラーメンもハンバーガーも無理だよなあ。それにしても稲荷寿司売りでもいないかな”

そんな事を考えながら、暗くなった通りを麹町に向かって歩いていると

「あら、平太さん」

明るく力強い女の声に呼び止められた。

「ああ、シメさん」

 声のした方に顔を向けるとそこはシメの小料理屋で、丁度表の赤い提灯の蝋燭をシメが新しいものに替えているところだった。

「この前はご迷惑をお掛けしました」

素早く提灯を灯し終えると、シメは前掛けで手を拭きながら頭を下げた。

「いえいえ、迷惑だなんて。俺の方こそせっかく作ってもらった朝御飯も残してしまって、本当に申し訳ありませんでした」

平太も深く頭を下げて先日の食べ残しを詫びた。

「じゃあ、今からその続きを召し上がりませんか?」

シメが破顔して言った。

「続きって、まさかあの時の残りが取ってある……とか?」

「まさか。丁度今夜は珍しくうちの宿六もおりますし、大した物は出せませんが酒と料理でも如何ですか?ただし、まだお晩餉(ばんしょう)を召し上がっていなければ、ですが」

「あはは。晩餉なんて上等なものは食べませんが、晩飯ならまだ食っていないんで寄らせて頂きましょう」

 平太の笑顔に、あら嬉しい、と声を上げたシメは

「あんた、平太さんがお見えだよ」

縄暖簾を押し分けて奥に声を掛けた。中からは、おっ、という声と障子の開く音が聞こえた。

「お邪魔します」

 声を掛けて平太が入ると、店内の卓はほぼ満席になっていた。

「どうぞどうぞ、奥の畳の間へ」

満席にたじろぐ平太の背をシメが押し、奥の開けられた障子からは留吉の笑顔が覗いていた。

 こっちでやす、との呼び声に草履を脱いで三畳ほどの畳の間に上がった平太に

「ようこそおいで下さいやした」

徳利と小鉢の置かれた卓の横で、胡座(あぐら)から正座に座り直した留吉が両膝に手を置いて頭を下げた。

「またまた、大仰(おおぎょう)な挨拶はやめてくださいよ」

平太も畳に片手を突いて残った手で手刀を切った。

「いえいえいえ、あれから後に再び村田様から、よく手伝ってくれた上に内儀の知恵まで貸してくれて、とお褒めを頂きやして、これも全て平太さんのお陰でやす」

「あたしもこの馬鹿亭主から話を聞いて、あたしの一言がお奉行所や平太さんのお役に立てたなんて、嬉しくて嬉しくて」

隣に控えていたシメも深々とお辞儀をした。

「まあまあ、二人ともやめてください。お客さん達も奇妙に思うでしょうから」

平太の言葉に店を見た二人は、店中の客がこちらを見ている事に気が付いた。

「それに、この前の爆発実験は世間には内密の話なんで」

 顔を近づけて小声で言った途端、平太の腹が、きゅわー、と鳴り始めた。

「こりゃ、腹がお減りになっているとは気付きませんで、誠に申し訳ありやせん。おいシメ、早く平太さんに何かお出ししねえか。それと酒だ、猪口と酒持ってこい」

留吉が怪しい敬語を口にしながら、シメを叱るように声を上げた。シメは、そうでしたね、と慌てて障子を閉めて厨房に向かい、程なく追加の徳利と平太用の猪口を盆に載せて来た。

「で、その後どうでやすか?」

 平太の猪口に酒を注ぎながら、留吉が(はばか)るように小声で訊いた。

「はい。先日から、爆発を仕掛けた奴らがやっていると思われる店で働いています」

「へ?」

 同心の福堀から何も聞いていないのか、それとも福堀が捜査からオミットされているのか、何も知らない様子の御用聞きに平太は簡単に経緯を説明した。

「ですが、そりゃ平太さんの身が危ねえでしょう」

「いえ、同心の衣笠様とその手下もずっと店を見張ってくれていますので」

厳しい表情で身を案ずる留吉に、平太は酌を返しながら言った。

「衣笠様がですか?それなら安心だ。あの方は南北奉行所合わせても一番の猛者(もさ)でさあ。去年だったか、十手も使わず体術だけで六人の無頼をあっという間に畳んじまいましたし、剣の方も相当な腕前と聞いておりやす。お心も真っ直ぐで、人当たりも優しい御方です」

 そこへシメが大きめの皿に載せた料理を運んできた。

「どうぞ、たんと召し上がってください」

シメの威勢の良い声と共に卓に置かれた大皿の中身を見た平太は

「これは……江戸の料理じゃありませんね」

驚いたように言った。

 そこには、江戸では珍しい豚の角煮やムニエルとしか思えない白身魚の衣焼き、春巻きに似た揚げ物など和洋中の入り混じった料理が、大量ではないものの行儀良く並べられていた。

「へへ、ちょいと昔を思い出して、簡単ですが作ってみたんです」

照れたようにシメが言った。

「昔って……?」

「こいつは長崎の生まれで、料理人の娘だったんでさあ」

 平太の疑問に留吉が口を開いた。

「あっしゃ昔、一時(いっとき)御用聞きから身を引いて女相撲の興行師の下で働いてたんでやす。それで九州を巡業していた時に、こいつが、相撲取りにしてくれ、と押し掛けて来やしてね」

「女相撲ですか……どうりで」

驚いた平太は今更ながらにシメの体躯を見た。

「いえね、あたしゃ近在でも有名な力持ちで、相撲じゃ男にだって負けた事は無かったんです。それが女相撲の巡業を見た途端、居ても立ってもいられなくなりまして、その日の内に置き手紙をして家を飛び出ました」

「あっしゃ()めろって言ったんですがね。言い出したら聞かねえ女で、勝手に巡業一行に着いて来ちまった」

 意外な話に、ふーん、と腕組みをした平太は

「失礼ですが、それが何でここの女将に?」

あからさまに質問した。

「女相撲ったってね、そんなに甘いもんじゃなかったって事です。いくら在郷で力持ちったって所詮田舎者の独りよがり、ただの自惚(うぬぼ)れだったんですねえ。その内あたし程度じゃ通用しないって事が薄々分かってきまして。それを、あたしの心を見抜いたこの人は、親への詫び状を書いてやるからそれを持って国に帰れ、って言ってくれたんです」

「それでもこいつは、まだまだ頑張る、って毎日真面目に稽古を続けましてね。それを見てたら、あっしゃ純で一本気なこいつが愛おしくなりやして」

 鼻と耳朶(みみたぶ)を赤くして語る留吉の話を聞きながら、ちょっと話がおかしくなってきたな、と平太は感じ始めた。

「なんとか出世できるよう面倒を見続けたんでさあ」

「あたしもね」

座ったまま、照れたように微妙にじりじりと留吉に躙り寄るシメの姿は、妙に可愛く平太の目に映った。

「何くれとなく気を遣ってくれるこの人に惚れちまいまして、相撲を諦めると同時にこの人の長屋に転がり込んだんです」

「あっしも昔は人の道を踏み外した事もある人間でさあ。それを一回り近く年下のこいつが、優しい人だ、と言ってくれやして」

「はいっ、そこまでっ!」

 シメの尻が留吉のそれに密着した瞬間、平太は声を上げた。

「分かりました。お二人の恋話は独り身の俺には毒なんで、もう結構です。それよりも、この料理は凄いですねえ」

言いながら平太は料理に箸を伸ばした。

「父親は卓袱(しっぽく)料理の料理人だったんです。あたしも小さい頃から仕込みや調理を見てたんで一通りのものは作れます。ただこの江戸じゃ手に入らない材もありますんで(たま)にしか作りませんが、今日は近くの百獣屋から豚肉を分けてもらったんで、上物の鱸と併せてお出ししました」

 へえ、と言いながら豚の角煮を口に含んだ平太は

「旨いっ」

と声を上げ、続けて春巻きらしきものに箸をつけた。その後も(すずき)の衣焼きを口に入れた平太は箸を置き

「参りました。満足に食材が手に入らないこの江戸で、よくぞここまで美味しい卓袱料理を。参りました」

丁寧に頭を下げた。

「あれま、平太さんにお褒め頂くとは。本当は自信が無かったんです。あたしの作る料理が本物かどうか、周りにも卓袱の分かる人なんかいなくて」

「いいえ、俺は和洋中の料理を食べた事があるんで分かりますが、これは紛れもなく長崎の卓袱料理です。それも最高の味付けです」

 本当は卓袱料理など食べた事の無い平太だったが、巡であった頃に食べた洋食や中華料理の味を思い出しながら、お世辞抜きで言った。

「本当ですか?」

「良かった、良かったな。お前ぇがいつも迷ってた事に、平太さんが応えてくだすったぞ」

感激するシメの肩を抱きながら、留吉の声も涙っぽいビブラートが掛かっていた。シメも前掛けで目頭を押さえながら、ありがとうございます、と言った。

「歳はお若いが諸国を旅されて、日本だけじゃなく南蛮の知識まで修められた平太さんが仰るんだ。間違いねえ、お前ぇの料理は日本一だぁ」

「あんた……」

「はいっ、再びそこまでっ!」

 涙を流して抱き合う夫婦に、再び平太のレフェリーストップが掛かった。

「もういいです。目の毒なんで勘弁してください。それより、俺が諸国を旅して南蛮の知識まで会得した、って、何でそんな話になってるんですか?」

「へ?村田様から直に聞きやしたんですが」

奉行所の領域に踏み込む平太の身元を誤魔化すためか、村田はとんでもないキャラクターを作り上げているようだった。

「え、ま、まあそうなんですが、色々と事情があって世間には隠している事なんです」

 仕方がないので、平太は話を合わせに掛かった。

「申し訳ありやせん。村田様には他言無用と言われたんですが、つい感激で口にしちまいまして。以後二度と絶対に口にはしやせん」

「あたしもです」

抱き合っていた体を離して二人は頭を下げた。

「ええ、お願いします。この事が京にでも知れたら……」

 平太の言葉はでっち上げの領域に入り込んだ。

「ひえー、まさかそのような御方とは。本当に申し訳ありません。必ずや二度と口外いたしません」

夫婦は瞬時に正座をし、畳に両手と額を擦り付けた。

“げっ、やべえ。ちょっと言い過ぎたかな”

そう思った平太は

「お二人ともやめてください。これからはそのような態度も取らないで、極自然に……」

そこまで言い掛けて

“極自然に……そうだよ、接する以上は極自然になんだよ”

ケイとの事が頭を過ぎり、不自然に言葉を切ってしまった。

 諫めるように右掌を指し出したまま考え込む平太を見た夫婦は

「申し訳ございません。二度と、二度と金輪際、この事は口にいたしません」

余計に機嫌を損ねたと感じたのか、更に低く平伏した。

 その言葉で我に戻った平太は

「すみません女将さん、ご飯を貰えませんか」

とシメに声を掛けた。へ?と拍子抜けした顔のシメに平太は笑顔で続けた。

「この料理は酒の肴にも最高ですが、やっぱりご飯でしょう」

その笑顔と言葉で赦免されたとでも思ったのか、シメは、はいっ、と返事をして破顔した。留吉も同じく思ったのか、ほっとした表情をしていた。

 程なく盆に茶碗を載せたシメが戻ってきた。

(あい)すみませんが、今日は全 ()きの白米じゃなくて五分搗き米の麦飯なんです」

シメは恐る恐る平太の前に茶碗を置きながら、様子を覗うように言った。

「ああ、いいですよ。麦飯も旨いじゃないですか」

いただきます、と手を合わせた平太は早速茶碗に手を伸ばしながら言った。

「店では評判悪いんですが、これもお客さんの体のためと思って、三日に一度は出しているんです」

「体のため?そう言えばトモさんもそんな事言って、たまに麦飯を炊きますねえ」

 十日に一度くらいの割合で、トモも朝のご飯を麦飯や玄米にしていた。太一は嫌がるのだが、これだけはトモが譲らず無理矢理食べさせていたのだった。

「江戸患いです」

 留吉が猪口を口にしながら言った。

「膝から下の脚が腫れ始めて、仕舞いにゃ……ってやつで、田舎の人間でも江戸に来てしばらくすると(かか)る病です」

 そうか脚気か、と平太は心の中で合点した。

“確かビタミンB1の摂取不足だったっけな。そうだ、米の胚芽を除去した白米ばかり食べてると罹る栄養障害だ。それで予防として五分搗きの米と麦なのか”

「あたしには分かってるんです。将軍様の真似をして真っ白いご飯ばかり口に入れていると、魔の気が取り憑きやすくなるんです。元々、下々の者は玄米か搗きの軽い米、それに麦や蕎麦を食べていたはずです。それが、身の程知らずに白米ばかり食べるようになったから、魔に憑かれやすくなったんです」

シメの語る、魔が取り憑く、という解釈は非科学的ではあったが、経験的に栄養障害が原因だと認識できているようだった。

「女将さんの仰るとおりです。江戸患いは玄米や搗きの軽い米、そして蕎麦などを好んで食べる人には現れない病気です。(わずら)った挙げ句に江戸を離れて療養した人は治ります。それは、江戸市外の田舎で麦飯や雑穀を食べる事で治るんです。だから女将さん、不評でも麦飯は続けてください」

 春巻きと麦飯を頬張りながら平太は言った。

「おうシメ、これも平太さんのお墨付きを頂いたぞ」

ありがとうございます、と嬉しそうに応えるシメの横で留吉も誇らしげに胸を張った。そして二人は、ありがたや、ありがたや、と両掌を擦り合わせながら平太を拝んだ。

「ちょっ、ちょっと待ってください。俺は神や仏じゃないんですから、さっきも言ったように普通に相手をしてくださいよ」

平太は苦笑いをしながら、夫婦の真似をして両掌を合わせた。

「あれま。さっきそのように約束したのに。どうかお許しを」

やっと平太の願いを聞いてくれたのか、今度は頭を下げず、二人揃って肩を竦めただけだった。

 大きめの茶碗に盛られた麦飯を平らげて腹一杯になった平太は、下品とは思いながらも、げふー、とゲップをした後

「いやあ、とても美味しい料理でした。そろそろ俺はこれで失礼します」

と留吉に伝えた。

「おや、もうお帰りで?」

「ええ、明日も浅草に行かなくちゃいけないんで、朝が早いんです」

「そうでやすね。しっかり寝ておかねえと体が持ちませんやね。おーい、シメ、平太さんのお帰りだ」

ぱんぱん、と掌を鳴らした留め吉は、厨房に戻っていたシメにそう声を上げた。障子を開けて顔を覗けたシメも

「もうお帰りなんですか?もう少し飲んで行かれれば」

と言ったが

「馬鹿野郎、平太さんは朝が早ええんだ」

留吉がそれに返した。

“馬鹿だオカメだ宿六だなどと、見掛けは不穏な言葉の飛び交う二人だが、本当はラブラブ夫婦なのかなあ”

 そんな事を思いながら草履を履いた平太は

「お勘定はいくらですか?」

とシメに訊いた。

「あらら、お勘定だなんて。あたしの料理をお褒め頂いただけで十分でございます」

シメは胸の前で両掌を振りながら言った。

「そんな、困りますよ」

「いやいや、平太さんから勘定を頂こうなんて滅相もない」

留吉も勘定の受け取り拒否に参加した。

「そんな事をされたら、二度とこの店に顔を出せなくなりますんで。俺だって女将さんの美味しい料理が食べられなくなるのは困ります。どうか勘定を払わせてください」

手を合わせて拝む平太の姿に、夫婦は顔を見合わせて困った顔をしていた。

 その夫婦の態度と表情で逆に困ってしまった平太は、この遣り取りを収める提案を思いついた。

「じゃあこうしましょう。勘定を受け取って頂く替わりと言っちゃ何ですが、俺の願いを聞いてもらえませんか?」

へ?という顔をする二人に、平太は畳み掛けるように続けた。

「願い事というのは二つあります。一つは、今度俺の言う料理を作ってください。おそらく女将さんが見た事も聞いた事も無いような料理を口にするでしょうから、使う材料と作り方は俺が教えます。それを女将さんなりに作ってください」

先程シメの卓袱料理を食べていた時にふと思い付いたのだが、畜肉を扱う事に抵抗の無さそうなシメだったら、平成の時代のメニューをある程度再現できるのではないか、と考えたのだった。

 それを聞いた途端、困ったような色を浮かべていたシメの目が急に輝いた。

「それは願ってもない事です。色んな世界をお知りになっている平太さんに教えて頂けるんでしたら、あたしゃどんな料理でも作ります」

何の事はない、勘定を受け取らないシメに任務を与える事で、その代償っぽく金を支払うという、詭弁による論理のすり替えだった。

「ではもう一つ、これは誰にも内緒にして欲しいんですが……か、簪を買ってきて頂きたいんです」

 詭弁がばれない内に、平太は二つ目の願いを口にした。店に入ってシメの髪に飾られた紅の簪を見た時から考えていた事だったが、事の成り行きに勇気を覆い被せて口にする平太の耳朶が赤く染まった。

 それを聞いて一瞬言葉を失ったシメだったが、すぐに事情を合点したのか、これ以上無い笑顔で応えた。

「お安いご用です。形や色のご希望さえ頂ければ、明日にでもこの宿六が用意します」

「お、お、俺かよ?」

急に振られた留吉が自分を指差して狼狽した。

「女に贈る簪を買うのは男って決まってんだよ。平太さんには何か事情がおありで、それであたしらに頼み事をされてるんだ。そうなるとあんたが行かなくて誰が行くんだい?」

妻は強く諭すように夫に言った。

「お、おう、そりゃそうだ。よし、明日このあっしが命に替えても買ってきまさぁ」

 留吉はしゃきっと背筋を伸ばし、拳でその胸を叩いた。

「い、いえ、命に替えてもらわなくてもいいんです」

平太は留め吉の大仰な意気込みを少し諫めた。

「へい、ちょっと大袈裟に言いやしたが、あっしが責任を持って飛びっ切り上等な簪を手に入れやしょう。そうだ、神田の茂七(もしち)に作らせやしょう。ちょっと偏屈な飾り職人ですが腕は確かな奴でさあ。で、平太さんのお相手ってのは誰なんですかい?」

「あんたっ、何を訊いてんだい!そんな失礼な事を訊くと口と耳が腐っちまうよ」

 質問がエスカレートする留吉を、今度は叱るようにシメが諫めた。

「おっと、こりゃとんでもねえ事を口にしちまった。お許しくだせえ。ただ、相手様の特徴なりを聞かねえ事にゃ、どんな物がいいのか茂七も困りますんで」

「いえ、相手様っていうような……ただの町娘なんですが、できればあまり派手でなく、でも可愛いものがいいかなって」

口籠もるように言う平太の耳朶がまた赤くなった。

「可愛らしくて笑顔の優しい娘さんなんでしょうねえ」

 留吉に替わって言うシメの言葉は的確に特徴を表していた。心中を読まれたんじゃないかと思いながらも、俯くように平太が、はい、と答えた。

「お歳は?平太さんよりお若いんですか?」

 続いて投げられたシメの言葉に一瞬平太の体が強張り、言葉の出せない不自然な時間が数秒続いた。

「わ、若いです。じゅ、十八、九かなあ」

平太は無理矢理笑顔を作って顔を上げた。

「かなあ、って。相手の歳も知らねえんですかい?」

「余計な事は言わないのっ!」

再びシメに怒られた留吉は、申し訳無さそうに肩を竦めた。

「あんた、今言った事を明日茂七さんにきちんと伝えて、すぐに可愛らしくてしっかりしたものを作ってもらいな」

 留吉に指令を下すシメに

「あの、予算なんですが、これで」

平太は懐から一朱金を三枚取り出した。

 その内の一枚は伊平から渡されたもので、衣笠が冗談っぽく、女に簪でも、と言った事から、多少の後ろめたさはあったが思い切って使う事にしたのだった。

「これだけありゃあ上等な簪が作れまさあ。後はあっしに任せておくんなせえ」

三枚の金貨は留吉が両掌で受け取り、シメが懐から出して渡した和紙に包まれた。

「明日明後日は無理でしょうが、三日、いや四日後にゃ簪は仕上がるでしょう。その頃また店に寄ってくだせえ。あっしがいなくても、できた簪はこのオカメに預けておきやすんで」

「はい、お願いします」

 平太は丁寧に頭を下げ、その後、尚も渋るシメに無理矢理料理と酒の勘定を握らせると、あと少しになった長屋への帰路についた。


◆密談と買い出し

 四日後の昼八つ過ぎ、今にも雨が降り出しそうな重苦しい曇天の中、男茶屋に寅次が顔を出した。例によって伊平が慇懃な態度で出迎え、左手に薄い風呂敷包みを提げた寅次は奥に続く暖簾の向こうに消えた。

 店の構造は二階建てで、奥の廊下から細い階段が上に続いてその先にはいくつかの部屋があるようで、前回とは異なり、寅次はその内の一部屋に上がったように思われた。

“この前と違うな。もしや実行の打合せでも……”

 丁度客が帰った卓の片付けをしていた平太はそれとなく寅次を観察しながら、その態度が前回と違う事を感じていた。

“閉店になっても帰らなければ、ほぼ間違いないだろう”

奥に湯飲み茶碗と皿を運びながら、平太は慎重に観察を続けた。

「おう平太。客の入り具合はどうだ?」

 その平太に伊平が声を掛けた。

「直に雨が降るのか、丁度客足がぱったり途絶えたところです。店にいる三卓の客も帰り支度を始めました」

暖簾を割って通りと店内の状況を報告する平太に

「そうか。今日の雨はすぐにゃ()まねえだろうから、早めに店を閉めるぞ」

帳場に座ったままの伊平が言った。

「へい」

「平太、お前ぇにゃちと悪いがな、使いを頼まれちゃくれねえか?」

「使いですか?」

「おう。今日は旦那の寅次さんが来られてるんで、角の酒屋で灘の上酒を三升と、向こうの通りに出ている屋台で適当に鮨と肴を買ってきてくれ。雨の降る寸前だったら安く買い叩けるだろう。ほれ、これで」

伊平は帳場の引き出しから二分金を取り出し、体と手を伸ばすようにして渡した。

 それを受け取った平太は

「鮨と肴は何人前くらい?」

探りを入れた。

「六人前だ」

「承知しました。では雨が降る前にひとっ走り」

そう言って、大振りな通い徳利三つと浅い大桶を手に店を飛び出ていった。


 平太は、まず五軒先の角の酒屋で上酒を三升注文して通い徳利を預け、すぐに大桶を持って一つ向こうの広い通りに向かった。

 その通りでは、伊平の言ったとおり、直の降雨を感じた各種屋台の商品が投げ売り状態となっていた。素早く天麩羅と下足焼き、いなり寿司、数種類のにぎり寿司、各種の煮物を大桶に詰めてもらった平太は、それとは別に何故か鮨の詰め折を四人前、自腹で買った。

 それらを手にした平太は酒屋に向かったのだが、これまた何故か茶屋の方向に通り過ぎ、辺りを窺いながらすっと細い路地に入り込んだ。そして或る店の勝手口を開け、何やら声を掛けた。

 中からは衣笠と金吾が意外そうに出てきた。

「平太さん、どうしたんですか?店の方は?」

茶屋を見張っている二人の元へ何故平太が来たのか、疑問を口にする衣笠に

「寅次が来たのは知っていますか?」

平太は息を切らせながら訊いた。

「ええ。あいつをつけてきた御用聞きとその手下が、ここの二階で我々と一緒に見張っていますが」

「早めに茶屋を閉めた後、犯行の打合せを行うんじゃないかと思われます。伊平が俺に、酒を三升と肴を六人前買ってこい、と命じましたから」

「そうなんですか。それは重要な情報です」

「おそらく寅次と伊平、それと茶屋の四人。それで六人前なんでやしょう」

金吾も状況が飲み込めたようであった。

「実行かとも思ったんですが、今夜は雨なんでたぶん打合せだけでしょう。ただ、もしかすると機材を隠してある蔵か倉庫に行く可能性もあります」

「分かりました。もう一人の御用聞きに徹夜で見張らせましょう。わざわざのご報告、ありがとうございます」

 そう頭を下げる衣笠の目の前に、平太が鮨折りを四つ差し出した。その意味が分からない二人に向かって

「お二方ともお腹が空いたでしょう。それに他の二人が徹夜で見張るんでしょうから、差し入れです。じゃあ、俺は茶屋に戻ります。早く帰らないと不審に思われますから」

と告げて金吾の手に鮨折りを持たせると、身を翻して通りに向かった。後ろではあ然とした表情の二人がその背中を見送っていた。


 大桶を左に抱えた平太はその足で酒屋に向かい、酒の詰められた徳利三つを起用に右手だけで提げて茶屋に戻った。

「ご苦労だったな。重かったろう」

 奥に徳利と桶を運び込んだ平太を伊平が労った。

「いえ、大した事はありません。ただ、煮売り屋を値切るのに苦労して少し遅くなりました。これはお釣りです」

平太は息を切らせながら伊平に余った銭を渡した。掌の上のそれを見た伊平は

「こりゃあ駄賃として取っとけ」

と差し返した。

「釣りとは言えかなりの金額です。お返しします」

 先程衣笠達のために買った鮨四人前の代金を引いても、まだ相当余る程の金額だった。

「何を馬鹿みてえに律儀になってるんだ?そんなんじゃ世間を渡っちゃ行けねえぞ」

「いいえ。俺は伊平さんに雇ってもらっている恩義があります。大して役にも立っていないのに、情けばかり掛けてもらったんじゃ(ばち)が当たります」

平太は白々しく良い子になって伊平の心を擽った。

 それに(はま)ったのか

「お前え……」

伊平の顔が感動した表情になった。

「その代わりお願いがあります」

「お、おう、何だ?」

 唐突に切り出されて慌てたのか、それとも平太の願いの内容を図りかねるのか、伊平は顎を引くように平太との距離を取った。

「今日は寄りたい所があるんで、早めに帰らせて欲しいんです」

「何だそんな事か。使いっ走りにも行ってもらった事だし、もう上がっていいぞ」

伊平は拍子抜けしたような苦笑いをし、手の甲で払うように行け行けをした。

「ありがとうございます」

「岡場所でも行くのか?」

 お辞儀をする平太に伊平は嫌らしい笑顔で言った。その態度に不潔感を感じた平太は、何も言わず帳場を後にした。

「甘やかしていいんですかい?」

 平太が去った後、平太が怪しいと睨んでいる接客筆頭格の男が斜め横から伊平に声を掛けた。

「甘やかしてなんかいねえよ。何か文句あるのか?」

意見されたと思ったのか、伊平が不快そうに口を尖らせた。

「ま、気味が悪いくらい真面目に働いてるし、付け上がる事もないとは思いますが。この前の事もあるんで、あまり気を許して隙を見せないように」

男は暖簾を少し捲って平太の後ろ姿を見ながら言った。

「お前に言われる事ぁねえ。気も許してなんかいねえし、奴にゃ表で稼いでもらわなくちゃな」

「確かにこのところ奴の売り上げは鰻登りでさあ。直にこの店で一番の稼ぎ頭になりますぜ。それはそうと、この前麹町に行った折に奴の言っていたほたる屋を覗いてみました」

 平太の出自を信用していなかったのか、男はほたる屋の事を口にした。

「どうだった?」

伊平も気になるようだった。

因業(いんごう)そうな店主と腕っ節だけは強そうな手代がいました。それと小狡(こずる)そうな小僧も一人。おまけに、陰間としか思えねえ奴も出入りしてましたぜ」

「ほう。平太の言ったとおりじゃねえか」

不気味な薄ら笑いを浮かべる男に伊平が返した。

「そんな非道(ひで)ぇ店だから、見ろ、ここでの奴は生き生きしてるじゃねえか」

 伊平はあくまでも平太を信用しているようだった。

「ま、ある意味この店も裏じゃ非道ぇ」

「おいっ!」

男の失言を遮った伊平は素早く首を回して周囲を見回し

「お前ぇこそ滅多な事を口にするんじゃねえぞ」

ドスの効いた声で窘めた。男は、おっといけねえ、と呟きながら片付けのため店に出ていった。


◆簪と芋

 茶屋を出た平太は、予想どおり降り始めた小雨の中を手拭いで頬被りをしながら、テンポの早い足取りでシメの店に向かった。

 留吉の言うとおりであれば、今夜には頼んでいた簪が届いているはずだった。足元が泥濘し始めたにも拘わらずその足取りが軽く、周囲を流れる人波や風景も普段よりスピードアップしている事に平太自身は気付いていなかった。

 この数日、特に衣笠と飲んだ夜以来、全て完全にとは言えないが、ケイに対する(わだかま)りとそれを持つ自分を卑下する気持ちがかなり薄らいでいた。衣笠から投げられた回答にもなっていない助言が、忠助の言っていた、極自然に接すりゃいい、という言葉を思い起こさせ、感情の迷路に入り込みがちな平太の気持ちをかなり素直にさせていた。

“いつ渡そうかな。だけど何と言って渡せばいいんだろう”

 すでに平太の思いは、まだ手に入れてもいないプレゼントをどうやって手渡すかという事に至っていた。頭の中で感情を複雑に(もつ)れさせる悪い癖があるにも拘わらず、意外に平太の思考回路は単純構造なのかも知れなかった。


 しばらく歩いて小料理屋に到着した平太は、まだ明かりの灯っていない赤い提灯を横目で見ながら縄暖簾を潜った。

「お邪魔しまーす」

「あら平太さん、いらっしゃいませ」

 暖簾の間から覗けた顔に愛嬌と元気の良いシメの声が掛けられた。そしてすかさず

「届いていますよ」

平太の心を見透かしたような言葉が続いた。

「そうですか。もう数日掛かるかなと思ったんですが」

 今日の出来上がりを期待していたにも拘わらず、平太は心にも無い事を言った。そして奥の厨房に近い空卓を見つけると、よっこいしょーいち、と小さく声を出しながら腰を掛けた。

「何か召し上がりますか?」

 満員となった狭い店内を縫うように近寄ったシメが、空の盆を小脇に抱えて訊いた。

「ええ、冷や酒と……今日は何がありますか?」

「あいにく今日はそれほど珍しい料理は作っていないんですよ」

シメは申し訳なさそうに答えた。

「じゃあ適当に摘めるものをお願いします」

 はいはい、と応えたシメは早足で厨房に向かい、すぐに袱紗(ふくさ)に包まれた簪と思しき細長いものを持ってきた。

「はい、ご注文の品です」

骨太の大きな手から渡された薄桃色の柔らかい包みを、平太は待ちかねたように、それでいて丁寧にゆっくりと開いた。

 中には和紙に包まれた、外側の袱紗に近い桃色の玉が着いた玉簪(たまかんざし)があった。金額の限界があったのかその玉はさほど大きくなく、平たい垂れ飾りも一本の短いものだった。しかし、それを全くチープに見せないバランスの良さが見て取れた。平太はその可愛らしさを一目で気に入り、にやけた顔で角度を変えながらしげしげと眺めた。

「あらまあ、可愛い品ですね」

 盆に徳利と小鉢を載せて現れたシメが顔を(ほころ)ばせて言った。

「そうなんでしょうか?俺はこういう物を初めて買うんで、よく分からないんですが」

照れたように言う平太に

「ちょっと見せてもらっていいですか?」

盆ごと料理を卓の上に置いたシメが訊いた。そして、はい、と平太から袱紗ごと渡された簪を手に取り

「こりゃ小さいけれど珊瑚ですねえ。薄桃色の良い色だし、丁寧に作ってありますよ」

シメは簡単だが賛美の言葉を添えて平太に返した。そして、ありがとうございます、と満面の笑みでそれを受け取る平太に

「ま、酒と肴を召し上がりながら、精々にやけてくださいな」

と盆から徳利と小鉢を卓に移した。

「に、にやけてなんかいませんよ」

 女将に軽くからかわれた平太は、慌てて袱紗包みを懐に仕舞って口を尖らせた。

「はいはい。それよりもお口に合うかどうかなんですが」

言いながら、シメの表情がそれまでの笑顔から少し心配するようなものに変わった。

 平太が覗いた小鉢の中には、去年までは陳腐に見掛けた料理である粉吹き芋が盛られていた。

「あ、粉吹き芋。久しぶりだなあ」

小鉢を手に取って素直に歓声を上げる平太は、それを鼻に近づけて目を閉じ、その香しい胡椒の香りを嗅いだ。

「やはりご存知でしたか」

 平太の笑顔を見たシメが安心したように言った。

「しかし、ジャガ芋も胡椒もよく手に入りましたね」

「はあ、胡椒は乾物屋に行けば売ってるんですが、じゃがたら芋だけはなかなか江戸じゃ見なかったんです。あたしの国じゃ結構食べるんですが、江戸には、毒のある芋、とか言う迷信もあるようで……」

「毒?確かに芽の部分にはあるんですが、それも死ぬような強いものじゃありませんし、未熟な芋を避ける事と、芽の部分を抉って取り除けば問題は無いはずです」

「さすが平太さん、本当に良くご存知で。そうなんです、丁寧に芽の部分を取れば何て事はないものなんです。ただ、最近はその知識も広がってきていて、しかも飢饉に強い作物として近在の郷でも栽培する農家が増えているようです」

「そりゃあいいですね。ジャガ芋も薩摩芋も飢饉に強くて、米にも負けない栄養がありますから」

言いながら平太は箸で摘んだ芋を口に入れ、数秒間もぐもぐと咀嚼していたが

「旨い!塩と胡椒の加減が絶妙です」

と口にし、猪口に注がれた冷や酒を軽く煽った。

「ありがとうございます」

 その時、突然

「兄さん、本当にその芋に毒は無えのかい?」

褒められた事で嬉しそうにお辞儀をするシメの後ろから声が聞こえた。見ると、二人の会話が聞こえていたのか年配の職人らしい男がこちらを覗き込むようにしていた。

「本当ですよ、毒なんかありません。この女将さんの知識と味付けに間違いはありませんよ」

平太はその男に首を伸ばして笑顔で言った。

「じゃあシメさん、俺にもその芋くんな」

「あれま長吉さん、現金だねえ。さっきまでは勧めても気味悪がって食べなかったくせに」

 シメが腰に手を当てて意地悪く言った。

「そ、そりゃ、今までその芋にゃ毒があるって聞いてたからよぉ」

シメの巨躯に圧倒されているのか、長吉と呼ばれた男は身を引いて体の前で両手を振った。

「あはは。確かに毒はあります。ただ、さっき話していたように、未熟な芋を避けて芽の部分さえ取り除けば大丈夫です」

「そう言われてみりゃ、良い匂いもするし旨そうだな」

 平太の言葉に今度は別の卓の客が小鉢を覗き込んだ。狭い店なので、女将との芋料理談義は丸聞こえになっていたらしい。その他の客もこちらを見ていた。

「はいはい。食べてみたい方は手を挙げてくださいな。ただし、量に限りがあるんで早い者勝ちだよ」

背筋を伸ばして笑顔で店内を見回しながら、シメが声高に言った。

 ほぼ全員が手を挙げた事から、シメは嬉しそうに厨房に戻って大きな四角い盆に人数分の小鉢を載せて戻ってきた。

「ほう、あの兄さんの言うとおり旨えぞ」

「なんだろうな、初めて嗅ぐ匂いだが、こりゃ肴に最高だ」

「このぴりっと来る黒い粒が堪らねえな」

 店内の好評を聞きながら酒を飲む平太も嬉しくなった。

“やはり、この女将の味覚は凄い。それに、食材に迷信や先入観を持っていないから自由な料理を作れるんだろうな”

いずれ現代料理っぽい物を作ってもらおうと考える平太だった。

 その後、茄子の煮込みと沢庵で飯を食った平太は、ケイに簪をプレゼントする事を想像してわくわくしながら勘定を支払った。

「もうお帰りですか」

 勘定を受け取りながらシメが言った。

「ええ。ジャガ芋の迷信が解けて良かったですね」

「はい。本当にありがとうございました。この調子だと店の名物料理になりそうです」

「じゃあこの前話したように、今度俺の言う料理を作ってください」

「勿論ですとも。ええと、何か用意しておく物がありますでしょうか?」

「女将さんは鶏や豚の肉を料理する事に抵抗がないようですね?」

「そりゃあ……大きな声では言えないんですが、国にいた時にゃ鶏も豚もこの手で潰していましたから」

シメは胸の前で手拭いでも絞るような動作をした。

「あはは、そりゃあ頼もしい。では、今度豚肉が、ええと脂身の少ない塊がいいんですが、それが手に入ったら知らせてください。無理だったら鶏の腿肉でもいいですよ」

「知り合いの百獣屋に頼めば鶏肉はすぐにでも手に入ると思いますが、豚肉は伝を頼って薩摩のお屋敷にお願いするので、二日三日掛かるかも知れません。それに、知らせると言っても……どうやって?」

「そうですね。俺は毎晩この店の前を通りますんで、何か合図でも店の前に出しておいてくれたら」

 それを聞いたシメは、うーん、と考え込んでいたが

「それじゃあこうしましょう。手に入ったら外の提灯の下に風鈴を下げておきましょうか」

「ああ、それいいですね。じゃあ豚肉を八百 (もんめ)程度と鶏足を八本くらい、天麩羅に使う油、菜種油がいいですね。それとメリケン粉じゃなかった小麦粉、卵、塩、胡椒、菓子のあられか素焼きの煎餅、それからジャガ芋も用意してもらえませんか?」

「あい分かりました」

女将は平太が口にする食材を紙に書き付けながら愛想良く答えた。

「それでは、三日後くらいを目安に準備しましょう。では」

 そう言い置いた平太は店を後にして日の暮れた通りに出た。後ろでシメが見送るように店の前でお辞儀をしていた。


 ルンルン気分で長屋に帰った平太は、懐から取り出した袱紗包みを備え付けの神棚に置き、汗を流すために湯屋に向かった。

 糠袋で体を擦る間も、平太は簪を渡すタイミングについて考えていた。

“渡すとしたら、明日の朝かなあ。いや、すぐに渡すってのも……いやいや、渡すと決めたらすぐに……いやいやいや、予告も前説もしていないのに急に渡すのも……いやいやいやいや”

「男茶屋の兄さん、何をいやいや言ってるんだい?」

 ぶつぶつ呟きながら掛け湯をした途端、後ろから急に声を掛けられ、はっと振り返るとそこには忠助がいた。

「あ、こ、こりゃ忠助さん」

「こりゃじゃねえよ。何をいやいや言ってるんだ?」

「え?そ、そんな事言っていましたか?」

「ぶつぶつ言ってたぜ。お前、茶屋で何かあったのか?」

「いや、何もありませんよ」

「そうかあ。顔も何だかにやけてるし、いい事でもあったのか?まさか、茶屋でエンジョイしてるんじゃねえだろうな」

「ま、まさか文太さんじゃあるまいし、そんな事ありませんよ」

「何だ?やっぱり文太は公私混同か?」

「まあそこまで酷くはありませんが……」

「ちっ、明日きっちりと釘刺しておかなくちゃいけねえな」

 まさか、ケイに簪をプレゼントするのが楽しみでウキウキしてます、なんて言えない事から、それを誤魔化すために

「それより忠助さん、トンカツかチキンカツ食べたくないですか?」

隣に座った忠助に顔を近づけ、他の人間に聞かれないため囁くように言った。

 忠助は急に真面目な表情になり

「どこで食えるんだ?」

その顔を平太に近づけ、同じく小声で返してきた。

「三日後くらいに留吉親分の女将さんの店で」

「ほ、本当か?本当にトンカツが食えるのか?」

「もしかするとチキンカツになるかも知れませんが」

「いや、それでもいいから食わせろ。でも、カツったってパン粉なんて無えだろう?」

「そこはちょっと考えます」

「キャベツはあるのか?トンカツにゃ山盛りの刻みキャベツが定番だ」

「そりゃ無理です。キャベツなんてまだ日本に伝わって来ていないと思います」

 湯屋の薄暗い洗い場で顔を寄せ合ってひそひそ話をする二人の姿は異常だった。それを感じた周りの人々が不快な眼差しを向け、じりじりと二人との距離を開け始めた。

「カツ丼って話はねえか?」

「あ、それいいですね」

「いけるのか?」

「女将のシメさんがどれくらい豚肉を手に入れられるかにもよりますが、考えさせてください」

「トンカツかあ、何年ぶりだろう」

 異様な男二人のひそひそ話は続き、周囲二メートルの範囲からは人が消えた。

「チキンカツだったら、カツ丼は諦めてくださいね」

「おう、分かった。ウスターソースは無えかな?」

「ウスターソースは、今はまだイギリスでも発明されていないと思います」

「仕方ねえ、ソースは諦めるか」

「名古屋の味噌カツって手もありますが」

「おおっ、味噌カツか。お前頭いいな。で、お前が作るのか?」

「いいえ、俺が指南して女将のシメさんに作ってもらいます」

「よし、任せた。三日後だな」

「へい」

 その時、高座(=今で言う番台)から不機嫌そうな声が投げられた。

「おい、忠助に平太、お前ぇら何やってんだ?そんなにこそこそ引っ付いて話してたら他の客が気味悪がるだろう。さっさと湯に浸かって帰れ」

馴染みの主人の声だった。はっと見回す二人の周囲に客はおらず、多くが少し離れた場所から気味悪そうに二人を見ていた。

「い、いや、違うんでえ。俺らはそんな関係じゃねえんだ」

忠助が慌てて言い訳をしたが、周囲の空気は変わらず、薄ら笑いをする女達もいた。

 こりゃいかん、と立ち上がった二人は小走りに石榴口に向かった。

「馬鹿野郎、お前は付いて来るな。このまま二人で湯船に入ったら益々疑われるだろう」

「そんな忠助さん、俺だってもう湯に浸かって帰るんですから」

「うるせえ」

ドタバタの萬歳さながら、二人は腰を屈めて石榴口に飛び込んだ。

 湯屋から逃げるように長屋に戻った平太は灯りを落として布団に入ったが、神棚に置いた簪の事を思い出して高揚感がぶり返してきた。ケイに手渡す瞬間を想像して、心を躍らせ目を爛々と輝かせたまま、結局数時間布団の中で寝返りを打ち続けた。


◆井戸端とケイ

 翌朝いつもどおりの日の出前、浅蜊売りの声で平太は目覚めた。しかし、朝まで寝付けなかったせいか白目が赤くなっていた。

 これまたいつものように四つん這いで犬のように背伸びをした平太は、房楊子に歯磨き粉を着けて湯飲み茶碗を手に雨上がりの井戸端に向かった。

 湯飲み茶碗に水を注ぎ、井戸端に腰掛けてガシガシと右手を動かす平太の視界に、長屋の木戸向こうから小さな(ざる)を抱えて来るケイの姿が入った。

「おはよう」

 右手を休めて平太は挨拶をした。もう途惑う事も言い淀む事も無かった。

「おはようございます。浅蜊売りを逃してしまって、やっと追いついて買ってきたんですよ」

井戸端にたどり着いたケイが息を切らせながら言った。

「毎日朝早くから大変ですね。それよりも、まだ働き先は見つからないんですか?」

「ええ。ほたる屋さんも方々探してくださってるんですが……」

平太の問いに答えるケイは、少しはにかんだ表情で腰を下ろし、ジャリジャリと浅蜊を洗い始めた。

「まあ、なかなか良いのが見つからないんでしょう。うちの頭は変な先は持って来ませんから」

「はい。そこは信頼してお任せしています」

 職が見つからない状況にも拘わらず、明るく応えるケイを見下ろしていた平太の視線がその後頭部に行った時

「あっ!」

と大きく声を上げた。そして井戸端に湯飲み茶碗を置き、房楊子を咥えたまま自分の部屋に駆け込んで行った。ケイは浅蜊を洗う手を止め、何事かと顔を上げた。

 その先には、草履を履くのももどかしく、敷居に引っ掛かって転びそうになりながら部屋を飛び出てくる平太がいた。

「わ、忘れてた。こ、これ」

 房楊子を咥えたままの平太が、あ然とした表情のケイに昨夜の袱紗包みを突き出した。日の出近くまで爛々ワクワクと手渡す事を想像していた割には、ケイの髪を見るまで平太は簪の存在をすっかり忘れていたのだった。

 包みの上からでは中身の判らないケイは、前掛けで両手を拭いて薄桃色の包みを受け取り、細い指先で丁寧にそれを開いた。

「これは?」

「つ、使ってください」

意外そうに訊かれ、平太は照れ隠しなのか水で口を濯ぎながら、ケイとは違う方向の井戸に向かって言った。

「でも……」

 水を吐き、振り返って見たケイの顔には困ったような表情が浮かんでいた。

「ケ、ケイさん、髪に何も挿していないでしょう。む、む、娘さんなんだから何か挿さないとおかしいですよ」

言いながら、娘、という箇所で言葉を詰まらせた自分に平太は心の中で舌打ちをした。自分の頬を思い切り拳骨で殴ってやりたかった。

「でも、こんな高価なものを」

「い、いや。そんなに高価じゃ……こう言っちゃなんですが、珊瑚の玉も大きくないし垂れ飾りも短いし。それに俺、今浅草の店で働いていて、これが意味も無く実入りが良いんです」

もしかして受け取ってもらえないかと感じた平太は、顔を赤くして必死で食い下がった。

「意味も無く、って……もしかして何か悪い仕事でも」

 ケイの困った表情が心配するようなものに変わった。

「ち、違います。村田じゃなかった、か、頭の指示で行っている店なんで(やま)しい仕事なんかじゃありません。ただ、祝儀を貰ったり歩合制だったりするんで、予想外の収入があるんです。と、とにかくケイさんも飾りくらい着けなきゃダメなんです」

突っ返されるのが怖かった平太は、訳の分からない言葉を吐きながら逃げるように部屋に戻った。もしかしてケイが返しに来るんじゃないか、と平太は爆発しそうな心臓を押さえながら、閉めた障子を背にしてしばらく立ち尽くしていた。

 息を殺しながら五分ほど立っていた事で、ケイが来る気配の無い事をやっと確認した平太は、膝から崩れるように框に座り込んで大きく息を吐いた。

“ふうー……受け取ってもらえたんだろうか”

不安が心のなかで大きく膨らんでいた。

“まさか、夜に帰ったら部屋に置いてあるんじゃ……”

 背を猫のように丸めた平太の思考がネガティブな方法に振れ始めた。

“マシで格好良い言い方もできなかったし……だけど、一方的に、好きです、って渡すのも江戸流じゃないし、ストーカーと思われても嫌だしなあ……こんなだからいつも、いい人ね、で終わるんだよな。あー、やっぱり俺はダメダメな人間なんだ”

 悶々とした薄黒い塊が際限なく心の中を占拠し始め、無力感を感じた平太はそのまま体を横に倒した。そして、また自分を卑下する気持ちが芽生え始めたのを感じ、はあー、と一リットルほどの溜息を吐いた。

 その時、急にガラッと障子が開かれ、平太は心臓を握りつぶされたように両目を見開いた。

「平太さん、朝御飯……」

 框に横たわった平太を見た太一がそこに突っ立っていた。以前見た異常な平太だと感じたのか、太一の顔が泣きそうになっていた。

「ちゃうちゃう、寝不足だよ。まだ眠たいんだ」

太一と目が合った瞬間、そう言って平太は跳ねるように起き上がった。ちらっと見えた太一の向こうに、ケイの姿は無かった。

「ご、ご飯はどうするの?」

「食べるっ」

 恐る恐る訊く太一に、平太は元気よく答え

「着替えてすぐに行くから。今朝のおかずは何だった?」

部屋に上がって浴衣を脱ぎに掛かりながら訊いた。

「卵焼きと浅蜊の汁だよ」

前回とは態度の違う平太を見て、太一は安心したように言った。

「アイアイサーのりょーかーい」

 てきぱきと着替え、手鏡を覗いて髪型も直す平太は、太一の向こうにケイの姿が無かった事から、一応受け取ってくれた、と感じていた。

「しゃーねえ。夜になって返されてても、それはそれ。しゃーねえじゃん」

自分に言い聞かせるように呟く平太に、太一は首を捻りながら障子を閉め、ほたる屋に向かっていった。


◆陰間と伝言

 その日、男茶屋で特段の動きは無かった。

 昨夜、寅次以下の犯行グループで打合せを行ったと思われるのだが、衣笠と接触していないのでその情報も分からない事から、平太は些細な兆候でも逃すまいと、接客をしながらもアンテナの感度を最大限まで上げていた。しかし、店内の平太が怪しいと睨んでいる人物達に変化は感じられなかった。

“昨夜何かがあったのなら、今夜あの路地を通り掛かる時に呼び止められるかも知れない”

 そう考えながら接客を行い、帰った客の卓を片付け終わった時

「平太、ご指名だ。また今日のはとんでもねえ、(こえ)ぇくらいの美人だ」

帳場に座った伊平から告げられた。

 このところ平太を指名する客がその数を増していた。この時代では珍しいほどの長身であった事に加え、その風貌が日本人離れした男前だと評判になっているのだった。

 現代、いや平成の時代では多少高めの身長で、顔の作りも不細工ではないがやはり平均的なレベルであったにも拘わらず、日本人離れした、と思われるのは、今後の二百年近くで日本人の身長と顔相が相当に変化しているのだろうと平太は考えていた。

 体型もそうだった。長身とは言ってもその胴体の長さは江戸の人間と大差なく、逆に短いくらいで、結局は脚が長いのだった。生活様式の差なのか、O脚でなくすらりと伸びた脚で、多くの男達の蟹股(がにまた)歩きとは異なるスムーズなその歩き方も人気の一つであった。

 女性もそうだった。錦絵に描かれるほどの美人と言われても、平太の感覚で見ると、内面は別にしてビジュアル的には顔の作りが平面的と言うか、原日本人的過ぎて何ら魅力を感じるものではなかった。

 しかし、ケイは違った。

“ケイちゃんって、俺が見ても日本人とはちょっと違う顔つきだよなあ。エキゾチックと言うのか何なのか、でも外人かと言えばそうは見えない、やっぱり日本人の顔だしな……”

 そんな事を考えながら指名された卓に向かうと、そこには先程まで考えていた概念とは全く掛け離れた次元の美人が座っていた。

 太めの眉にUFOに乗ったグレイのように大きな目、肉食猛獣のようにすっと張り出した鼻梁に、べったりと赤い紅を引いた大きな口。アヴァンギャルドと言うべきなのかシュールと見るべきか、とにかくこの時代の江戸では考えられないタイプの女性がそこにいた。

「いらっしゃいませ」

 笑顔で挨拶をした平太が続けて

「お見受けしたところ、初めてお会いするように思いますが、俺をご指名という事で間違いありませんでしょうか?」

退廃的とも見える相手の顔を見つめて確認した。ええ、と小声で答えるその相手に、やはり見覚えは無かった。

「では、何をご注文されますか?」

指名に間違いない事を確認した平太は注文を訊いた。

「お茶といつもの最中を五つ」

「おげげっ!」

 潤んだような目で注文を告げるその声は、まさしく文太のものだった。平太は悲鳴に近い声と共に後ろに()け反った。

「ぶ、文太さん。ど、どこまで化けりゃ気が済むんですか?」

「ふぉっふぉっふぉ。どーお、参った?」

文太はこれ以上ない程嬉しそうに顔を綻ばせ、口を扇子で隠しながら怪しい笑い声を上げた。先日店に現れた文太とは異なる化け方で、全くの別人としか見えなかった。

「だーって、この前と同じ人物だと思われちゃまずいでしょ」

「しかしそのイメージ、二百年近くブッ飛んでませんか?この時代の江戸じゃ浮きまくりでしょう」

 顔を近づけて言う平太に

「そうねえ。太一ちゃんなんかまたまた腰抜かしてたし、ここに来る途中も熱視線浴びっ放し。一億万人くらいの視線かしら。ひょーっひょっひょ」

文太は嬉しそうに科を作って笑った。

「一億万って単位は何なんですか?そんなの小学生でも使いませんよ。それより、最中を五つって異常じゃないですか?」

「ひょっひょ、いいのよ。いつもの如く軍資金ならしこたまあるんだから」

「どうせ頭から貰ってきた金でしょう。駄目ですよほたる屋の金を無駄遣いしちゃ」

そう言いながら平太は手を挙げ、自分用のお茶も含めた注文を伝えた。

「まっ、あんたまでそんな事言うの?太一っちゃんも同じような事言ってたけど、あのガキ、この文太姐さんに説教するなんざ一氷河期早いわよ。ぷんぷん」

文太は扇子を閉じたり開いたりしながら眉間に皺を寄せた。そして

「あんたまでそんな事言うんなら、衣笠様からの伝言、教えてあげなーい」

頬を膨らませた。

 それを聞いた平太は慌てて文太に顔を近づけ

「伝言って何なんですか?」

「最中が来たら教えて、あ・げ・る」

文太も顔を近づけ、意地悪そうな口調で言った。

「そんな意地悪言ってると磔獄門晒し首の死刑になっちゃいますよ」

「あんた馬鹿ねえ。あたし達に死刑の晒し首ったってねえ」

 そこへ丁度お茶と最中が運ばれ、文太のセリフが途切れた。

「死刑の晒し首たって、って何なんですか?」

蟒蛇(うわばみ)のような赤い大きな口で最中をパクつく文太に、自分のお茶を啜りながらセリフの続きを促した平太だったが

「そんな事より、衣笠様の伝言」

口一杯に最中を頬張る文太に軌道修正をされてしまった。

「おっ、そうだ。伝言って何ですか?」

「いつ食べてもこの梅枝屋の最中は美味しいわねえ。今日は昼ご飯食べてないから余計に美味しいわ」

「そんな事より、で・ん・ご・んっ!」

焦れた平太は、文太の形の良い耳の前で怒ったように言った。

「明日の夜は新月、詳細は今夜帰りに」

 文太は顔を上げないで小声で言った。犯行の実施は明日の夜、という意味だと平太は受け取った。

“だから今夜帰りに寄れ、か。と言う事は具体的に何か掴めたんだろうな”

 湯飲み茶碗を両手で包むようにして考え込む平太に

「それよりも」

最中を全て平らげて一息ついた文太が言った。

「何ですか?」

「あんたおケイちゃんに簪をプレゼントしたそうね?」

 文太が表情を変えずに投げつけた言葉に、平太はもう少しで口にしたお茶を吹き出すところだった。

「うっ、ぐっ、ゲホッ……な、何なんですか、何で知ってるんですかっ?」

無理矢理飲み込んだお茶に咽せながら大声を出す平太を、周りの多くの客が何事かと見ていた。

「しーっ、声が大きいわよ」

文太は口に人差し指を当てながら

「馬鹿ねえ。毎朝太一っちゃんが歯磨きのタイミングを計るため、あんた達が仲良くしてる井戸端見張ってんのよ。知らないの?」

平然と言った。

「な、な、仲良くなんて」

「いいのよ、いいのよ。だから、太一っちゃんも年頃だから注意した方がいいわよ、って事」

「ちゅ、注意って、お、俺は」

「チッチッチ、お店でそんな怖い顔しちゃいけないわ。とにかく、仲良くなっても自分の部屋に連れ込んだりしちゃダメダメよん」

 激高して言葉もままならない平太の眼前で、人差し指を左右に振りながら笑顔を見せる文太は

「さて、伝言も伝えたし、そろそろ帰ろうかしらん。では、お勘定お願い」

平太の反応などお構いなしで告げた。脂汗を流しながら反論しようとしていた平太は肩すかしを食った形になって声も出せず、酸欠の金魚のように口をぱくぱくさせた。それでも平太は何とか勘定計算を奥に告げ、気前良く銭を支払った文太を見送るために店頭に立った。

 その帰り際、見送る平太を振り返った文太は

「あの簪、可愛いわね」

と言った。そして、へ?、と鳩が豆鉄砲を食らったような顔の平太に優しく微笑みながら

「早速おケイちゃん挿してたわよ。良く似合ってた。あんたセンスいいわね」

と告げて、じゃあね、と右手を振り、例によって腰を怪しく振りながら通りを歩いて行った。

“受け取ってくれたんだ……”

 血が上って大混乱していた脳が状況を理解した途端、平太の顔が一気に弛んだ。そして、店表から通りに向かって、っしゃーっ、と声を上げて右腰に構えたガッツポーズをすると、鼻歌交じりのこれ以上ない明るい笑顔で卓の片付けに取り掛かった。

 その鼻歌は何故かハンガリー舞曲だったが、その曲があと三十年以上経たないと世に登場しない事など平太には関係なかった。

 湯飲み茶碗と菓子皿を奥に運んだ平太を伊平が呼び止めた。

「おい平太、客の前で何を大きな声出してたんだ?」

「あ、あれは俺の昔を知ってる女で、あまりに酷い事を言われたんで、つい大声を出してしまいました。申し訳ありませんでした」

咎めるような口調の伊平に、平太は咄嗟に嘘で誤魔化した。

「ほう、あんなぞっとする美人が知り合いとは意外だな。で、酷いってのはどんな事を言われたんだ?」

伊平は窺うような目で訊いた。

「はあ、以前の店で俺が主の手籠めになってた事や、店の金をくすねた事をこの店の旦那に全部バラす、って脅されました」

「何だそりゃ?それで金でも強請られたのか?」

「いえ、金じゃないんです。苛めなんです」

「いじめ?」

「あの女、ほたる屋とどういう繋がりがあるのか知りませんが、主とは気味悪いくらい懇意で、どうも俺がほたる屋を辞めた事が気に入らないらしいんです。だけど俺、辞めたんじゃなくて馘になったんです」

気が付くと、平太は自分でも不思議なほどすらすらと嘘が口から出てきていた。

「そんな奴が来たんなら何ですぐ俺に言わねえ?ここの旦那に言うったって、ここを仕切ってる俺はお前から正直に事情を聞いて知ってるんだ。あんな女に何を言われようが屁でもねえ。何で俺を呼ばなかったんだ?」

 平太の語る文太が小悪党にでも思えてきたのか、次第に伊平の顔が上気するとともに口調も荒くなってきた。

「いいえ。いつも良くしてもらってる伊平さんに迷惑を掛ける訳にはいきません。これは俺の(ごう)が招いた事なんで、俺が片付けなくちゃいけないんです」

 平太はいつもの良い子を演じて、顔を少し俯けながら静かに、それでいてきっぱりと言い放った。しかし、心の中では舌が二枚にも三枚にもなった醜悪な自分の姿が現れ、ほんのちょっとだけ喉に苦いものが浮かんだ。

「ば、馬鹿野郎。お前ぇは悪かねえのに、何で全部ひっ被ろうとするんだ?」

伊平は最初に平太の話した事情とその人間性を完全に信じ切っているようだった。

「この店は確かに旦那の寅次さんのもんだが、仕切ってるのは俺だ。勝手に何でもかんでも自分で抱え込もうとするんじゃねえ。こんな事ぁ、特にそんなふてぇ輩にゃ店全体であたらなきゃいけねえんだ。無理難題や理不尽な事を言ってくる奴に自分一人で立ち向かってどうするんだ。お前えに不手際なんて無えんだから組織で対処するんだよ」

“あれ?どこかの企業セミナーで聞いたような言葉だな”

 そう思いながら、平太はがばっと土間に土下座をした。

「すみません。伊平さんに迷惑を掛けたくないばかりに、俺は勝手な事をしました。本当に申し訳ありません」

「ば、ば、馬鹿野郎!悪くねえお前ぇが何で手を突いて謝るんだ。お前ぇは悪くなんかねえんだ。俺がちょっと厳しく言い過ぎたかも知れねえが、やめろ、手を上げろ。立て、立つんだ平太」

突然の土下座に驚いたのか、伊平はボクシング漫画のようなセリフを口にしながら、腰を下ろして平太の両肘に手を掛けた。肘を掴まれて顔を上げた平太にはその伊平の目が少し潤んでいるように思えた。

“悪党なんだろうが、もしかすると本当は優しくて、頭と同じような性格なのかも知れない……”

伊平に引き起こされた平太は、両手と着物の泥を払い落としながらそう思った。

「お前え……本当に真面目な奴だなあ」

 伊平は平太に背を向け、びーっ、と鼻をかんだ。

「しかし、あの女は何者だ?」

「陰間茶屋の女将だそうです」

「陰間茶屋の女将?自分で店やってるのか?」

振り返った伊平が驚いたように訊いた。

「俺も聞いた話なんで良くは知らないんですが、届け出もしないで店を出してるそうです」

「そりゃ違法じゃねえか。あのアマ、今度来たらただじゃ置かねえ。痛え目に遭わせてやる」

伊平は態とらしく腕捲りをしたが

「あ、それやめた方がいいです。これも聞いた話なんですが、あの女の後ろには旗本か何か知りませんが、武家が付いているそうです。だから違法でも捕まらないんだそうです」

「くっそー、悪ったれ旗本の副業かよ。ちくしょう」

悔しそうに腕捲りを戻した。

「でも、強請たかりじゃないんでもう来ないと思います。通りがかりに意地悪をしただけなんじゃないかと……でも、もう一度来たら、その時は……この店に迷惑が掛かるんで、俺を馘にしてください」

平太はぺこりと頭を下げた。

 もしまた文太が来たとしても、全く別の女性キャラに化けて来るのは分かっていた。その確信ゆえ、二度と同じキャラは来ないだろうというのは正直に言ったつもりだった。当然、探索が終わるまで辞めるつもりなど毛頭無かった。

「お前ぇどこまで馬鹿なんだ!そんな馬鹿正直じゃ世の中渡って行けねえぞ」

伊平の語気がまた上がった。

「とにかく、また来たら俺に知らせろ。寅次さんに言えば、あの人もそれなりの伝を持ってる人だ。後ろに旗本が付いていようが怖かねえ。分かったな」

 荒い語気のままそう言い置いた伊平は帳場に座った。平太も、これ以上話して襤褸が出るのを警戒して、へい、と答えて頭を下げ、店に戻った。


 その日はそのまま何事も無く終わって平太は店を後にした。そして例の路地に差し掛かると、すっと消えるように中へ入って行った。

 路地の奥には予想どおり衣笠と金吾が(ひそ)むように待っていた。

「平太さん、お疲れ様です」

薄暗がりから衣笠の小声が掛かり、少ない明かりの中で金吾がお辞儀をしているのが辛うじて見えた。

「しかし、どうやってあの人に伝言を頼んだんですか?」

 いきなり平太が衣笠に疑問を投げた。

「いやぁ、どう伝言を伝えようかと困っていたところにあの女がここを訪ねて来て‘今から男茶屋に平太さんの様子を見に行くのですが、何か伝える事はありますか?’って言われまして」

何の事はない、衣笠の顔見たさで文太が勝手に二人の居る小間物屋の二階を訪問しただけなのであった。

 不思議そうに答える衣笠の横から

「しかし、何と言えばいいのか、ある意味凄げぇ美人なんでやしょうが、ありゃ何処の女人でやすか?」

金吾が不思議そうに訊いた。

「あれ、この前の陰間ですよ」

 素っ気なく口にする平太の答えに

「え゛、え゛――っ!そ、そんな、まさか」

二人が同時に悲鳴を上げて顔を引き攣らせた。

「あ、あのようなげ変化(へんげ)を平気で行う輩を手下に使うとは……へ、平太さん、貴殿は一体」

「別に手下にした覚えもないし、そんな事はどうでもいいんですが……それで、あの伝言からすると昨日あれから何か分かったんですか?」

「はい、いろいろ判明した事もありますが、ここじゃ何ですからどこかの店にでも」

押さえた声で訊く平太に、多少正気に戻った衣笠がいつもの誘いを掛けてきた。

「またこの前の店ですか?」

「いけやせんか?」

身を引き気味に問う平太に金吾が言った。

「いや、美味しい店ではあるんですが、ちょっと麹町とは逆方向になるんで帰りが辛いかなと思いまして」

「そうでやすね……」

 顎に手を当てて考えていた金吾が

「ではこうしやしょう。今日は平太さんの住む麹町方向の店でどうでやすか?麹町で御用聞きをしている留吉親分の店に行きやしょう」

閃いたように言った。

「留吉親分の店じゃなくて、女将さんの店でしょう」

「おや、ご存知で?」

「今回の、と言うか日本橋の件や溜池での実験では、留吉親分と女将さんには世話になりましたから。それに、あの女将さんの料理は長崎の卓袱風で、ちょっと変わった美味さなんですよ」

「私は行った事が無いんですが、その長崎の料理ってのは旨いんですか?」

かなり興味をそそられたようで、衣笠が訊いてきた。

「少し特殊な材料を使う事が多いんで、それが手に入らない事にはどうしようもないんですが、入手さえできれば相当に旨い料理です。衣笠様も料理に対する考え方が変わりますよ」

「ほほう、そりゃ楽しみですね」

酒飲みでもあるが、料理に対する好奇心も相当持ち合わせているようだった。

「実は、あっしも話にゃ聞くんですが、行った事が無えもんで。他の御用聞きの縄張りに足を踏み入れるってのも憚られて……」

金吾も頭を掻きながらはにかむような笑顔で言った。

「じゃあ決まりですね。行きましょう」

と平太が踵を返した時、三人の腹が、ぐきゅるー、と鳴った。


◆同心と角煮

 提灯に灯りの入った店の縄暖簾を潜ると

「あら、平太さん、いらっしゃいませ」

シメの元気な声が聞こえた。そして

「今日はお連れ様も……あ、これは南町の、えーと」

連れを確認したシメは笑顔で立っている同心の名前が思い出せないのか、困ったような表情で顔を(しか)めた。

「衣笠様です。そして配下の御用聞きで金吾親分」

 平太が二人を紹介すると、それが聞こえたのか奥の障子が開き

「お、こりゃ衣笠様に浅草の金吾じゃねえか」

留吉が赤くなった鼻を突き出した。

「親分、いらっしゃったんですか」

「いらっしゃったなんてもんじゃありませんや。どうぞこっちへ。おいシメ、酒だ酒だ」

既に一杯入っているのか、ご機嫌な口調で三人に慌ただしく手招きした。

 ささ、どうぞ、と同心と御用聞きの背中を押して、自分も草履を脱ごうとした平太はシメに呼び止められた。

「お約束どおり、明後日には豚も鶏も手に入る予定です」

嬉しそうに言うシメに

「そうですか。では予定どおりやりましょう」

笑顔で応えた平太は、早く早く、と留吉に急かされ、慌てて草履を脱いだ。

 三畳ほどの部屋に四人が座ると、衣笠は腰から抜いた両刀を壁に立て掛け、店の雰囲気を窺いながら小声で平太に訊いた。

「ところで、見たところ普通の小料理屋のようですが、ここに平太さんの言われた長崎の料理はあるんでしょうか?」

それを受けた平太は、丁度酒を運んできたシメに訊いた。

「女将さん、今日は卓袱料理ありますか?」

「はいな。でも今日は手に入った量が少なかったんで、角煮は店の方にあまり出していないんですよ。懇意なお馴染みさんだけにこっそりと出してるんですが、ここの皆さんの分はありますよ。それに他にもそれっぽい料理がいくつか。それと、この前平太さんに褒めてもらった大好評のじゃがたら芋もあります」

シメは店を気にしながら小声で言った。

「よし、お願いします。特にこのお二方は初めてなんで、お任せします」

はいな、と応えた女将は嬉しそうな顔で障子を閉めた。

「今日はわざわざ遠くの、こんな小汚ねえ店までお越し頂き、ありがとうございやす」

 言いながら留吉が三人に頭を下げ、

「直にオカメが料理を持って来やすんで、まずは」

大振りな徳利を手に取って衣笠から勧めた。(かたじけ)ない、と酌を受けた衣笠に続いて平太に注いだ後、留吉は金吾にも、久しぶりだなあ、と言いながら嬉しそうに注いだ。金吾も殊勝に膝を揃え、ご無沙汰しておりやした、と留吉に注ぎ返した。

 そして、では、との平太の音頭で猪口を持ち、同心とその手下は意外にも平太と同じようにそれを目の上に掲げた。まさか二人がそのようなポーズを取るとは思わなかった平太は、猪口を口に付けながら、あれ?、という顔で二人を見た。

「いや、この前平太さんがやっているのを見て、粋で格好良いなと思いまして」

 平太の視線に気付いた衣笠が、ちょっと恥ずかしそうに言った。アクティブに好奇心の強そうな衣笠のみならず、一見無愛想に見える金吾まで平太の一挙一足に興味を示しているようだった。

 障子が開けられ、大きな皿がすっと卓の上に滑ってきた。大皿の上にはシメの言ったとおり、茶褐色の豚の角煮、揚げ春巻き、粉吹き芋、そして半円状のパイ包み焼きのようなものも並べられていた。

 おそらく初めてそれらの料理を見る衣笠と金吾は、揃って目を丸くしていた。留吉がシメから小皿を受け取り、皆の前に配った。いただきまーす、と最初に箸を取った平太は柔らかく煮込まれた角煮を箸で切り分け、小皿に寄せるようにした口に一切れ放り込んだ。

「うーん、旨い。幸せー」

目を細めるように相好を崩した平太は、猪口に手を伸ばして(ぬる)めの酒を一気に流し込んだ。

 その顔を覗き込んでいた衣笠が

「こ、これは肉ですか?何の肉なんでしょう?」

恐る恐る訊いた。

「豚肉ですよ」

横からシメがいとも簡単に言った。

「ぶ、豚ですか?猪ではないのですね?」

「気味が悪いのなら食べない方がいいですよ」

 豚肉と聞いて驚く衣笠に、平太が猪口を傾けながら意地悪く言った。金吾も箸を触れようか悩んでいるのか、じっと大皿を覗き込んでいた。当然食べ慣れている留吉が

「衣笠様、豚も猪も変わりゃしませんや。山鯨と思って食べてみてくだせえ」

言いながら角煮を頬張った。

 平太が揚げ春巻きを摘んだ時、意を決したのか金吾が引き攣った表情で角煮を口に入れた。慣れずに吐き出すかと見ていると、すぐにその表情が笑顔に変わった。

「旨い。こりゃ酒が進むし、女将さん、これだったら飯にも合いやすぜ」

「あれま、あたしの作る料理が不味いとでも思ってたんですかい?」

シメは呆れたように、それでいてすぐに笑顔になって言った。

「そ、そんなに旨いか?」

衣笠は金吾に顔を寄せて訊いた。

「旨いなんてもんじゃねえです。山鯨なんかよりよっぽど柔らかくて癖が無えです。だけど」

「だけど?何だ?」

夢見心地にも見える金吾に更に顔を寄せて衣笠は訊いた。

「毒がありやす。これにゃ豚の毒がありやす」

 意外な暴言に平太は、はあ?と声を上げた。

「豚に毒なんて無いでしょう」

不満そうに言う平太の横で衣笠が顔を仰け反らしていたが、金吾は

「いや、ありやす。こりゃ衣笠様に食べて頂く訳にゃ行きやせん。だから三人で片付けてしまいやしょう」

大振りな肉塊をもう一口頬張った。

 そう言う事か、と理解した平太は

「うーん、そうかも知れない。何頭かに一頭は毒豚がいるそうですから。よし、俺も毒を片付けるのを手伝いましょう」

あっしも、と同調する留吉とともに箸を伸ばした。

「おい、ちょっと待て金吾」

 ようやく話の流れが解った衣笠が、大皿の上空に自分の掌を(かざ)した。

「貴様、上司である私を(たばか)っているだろう。私に食わせないつもりか」

再び金吾の顔を舐めるように自分の顔を近づけ、薄笑いを浮かべながらもドスの効いた声で言った。そして徐に角煮を摘むと、意を決したように口の中に入れた。

「ほほっ、旨い、美味ですよ」

 先程までの表情が一変して顔を綻ばせ、猪口の酒を旨そうに啜った。

「いやあ、豚というものを初めて食しましたが、山鯨なんかよりよっぽど柔らかくて旨い。こりゃ素晴らしい」

「いえ、味が素晴らしいのは(ひとえ)に女将さんの調理方法ですよ。これが南蛮や中華を和食に融合させた卓袱料理です」

平太は女将を持ち上げた。

「平太さんにもお墨付きを頂きましたし、衣笠様まで美味しいと言ってくださり、本当に嬉しいかぎりです」

シメも満足そうに言った。

 その後も珍しい料理を次々と口に入れた同心と手下だったが、粉吹き芋、ジャガ芋には本当に毒があると思い込んでいるのか、なかなか箸を伸ばそうとはしなかった。

 しかし、平太や留吉が美味しそうに食べるのを見て、試しに、と一口咀嚼した金吾が、やっぱり毒がありやす、と言いだし、それを聞いた衣笠が慌てて箸を伸ばして頬張るという、言動不一致の状況となった。そしてやはり、旨い、の一言を発してこの上ない笑顔を見せた。

「いや、言われるとおりこれも旨い。本当に毒なんか無いんですね。いままで私は迷信や妄言に捕らわれていたんでしょうか?」

 何本目かの徳利を空にした衣笠が恥ずかしそうに言った。

「毒が無いという訳じゃないんです」

「え?やっぱり毒はあるんですか?」

「正確に言うと芽が出る部分にあるんです。そこさえ取り除けば何の害もありません。ここの女将さんはその事を良くご存知なので大丈夫です」

「そうなんですか」

「これに、この芋は美味しいだけじゃなくて、主食の米の替わりになります。薩摩芋もそうなんですが、痩せた土地でも天候不良の時でもある程度収穫が可能です。普段から料理法を考えて食べる事に慣れておけば、飢饉が来てもかなりの助けになるはずです」

少し酔いが回ってきて壁に(もた)れて猪口を手にする平太に、衣笠は感心したような眼差しを向けた。

「平太さんは何でもご存知だ。何故そのような知識を得る事ができたのですか?」

衣笠は平太の猪口に酒を注ぎながら感心したように訊いた。

「まあ、幸いにもいろんな事を勉強できる環境にあったというだけですよ」

「そのような環境におられたって……失礼ですが、先日からの陰間と言い、一体平太さんは何者なんですか?」

(はぐ)らかすような返事をする平太に、衣笠が不思議そうな表情で訊いた。

 ちらっと衣笠の目を見た平太は相手に顔を近づけ

「それを訊きますか?知ってしまうと……消されるかも知れませんよ」

真面目な顔をして低い声で言った。一瞬衣笠の目が見開かれ、素早く立て掛けてある刀の方に身を引いた。

「なーんちゃって」

 すぐに平太の顔が(ふざ)けた表情に変わり

「食べ物談義や俺が何者かよりも、今夜は大事な話があるんじゃないですか?」

卓上に置かれた衣笠の猪口に徳利を突き出した。

「そ、そう言えばそうでした」

 急に居住まいを正した衣笠は、ちらとシメを見遣った。すぐに空気を読んだシメは、では、と障子を閉め、その亭主も、あっしも外しやしょう、と腰を上げ掛けた。

「いや、留吉は居てくれ。今から話す事はお前にも無関係じゃない。明日福堀殿から伝えて頂こうと考えていたが、丁度良い、私から話そう」

衣笠は手を挙げて退室を制した。

 そして障子が閉まっている事を確認すると、低い小声で話し始めた。

「昨夜、平太さんからの情報で男茶屋での動きを見張った御用聞きの話によりますと、やはり犯行に向けた謀議が行われたそうです」

「やはりそうですか。しかし、盗聴器、じゃなかった聞き耳を立てられる状況にもないのに、どうやって謀議の内容を掴む事ができたんですか?」

疑問に思った平太が言った。

「まさに聞き耳を立てました」

衣笠の返答で、へ?と声を出す平太に

「昨日寅次を追って我々に合流した御用聞きが(とび)あがりでして、江戸の御用聞きの中じゃ一番身の軽い奴なんです。そいつが茶屋の二階に忍び込んで一部始終を聞き取りました」

衣笠が自慢そうに鼻の穴を広げて言った。

「でも、それって違法行為じゃ?」

「どこが違法でやすか?悪党を見張るのに、違法も何も無えでしょう」

驚く平太に金吾が平然と言った。

“平成の時代と違って、捜査概念や規範意識がかなり違うのか……”

 そう思いながら

「しかし凄いですね。そんな忍の者みたいな御用聞きがいるんですか」

と感心して言う平太の言葉に

「そりゃ、本所のサブかい?」

留吉が言葉を重ねるように訊き、へい、との金吾の返事に

「サブだったら簡単な話でさあ。あいつの身軽さは猿以上だ」

納得したように言った。

 話が逸れたのを修正するためか、衣笠がすぐに続けて口を開いた。

「実行は明日の新月の夜、夜四つに蔵に集合との事で、狙いは麹町の両替商 泉州屋(せんしゅうや)

「泉州屋!すぐそこの泉州屋ですかい?」

自分の縄張りの中にある店を名指しされた留吉が声を上げた。

「しっ、声が大きい」

衣笠に窘められた留吉は、すいやせん、と身を縮めて畏まった。

「衣笠様、蔵とはどこなんでしょう?」

 平太が眉を顰めて訊いた。

「それは判りませんでした。謀議の中でも蔵としか言っていなかったようです」

「そうですか。で、奉行所としてはどのように対処されるんでしょうか?」

「蔵の場所が掴めない以上、暮六つの店仕舞いとともに泉州屋の(あるじ)以下全員を密かに避難させた上で、月番の北町奉行所が店の周りを固めておき、悪党どもが壁に穴を開け始めたところで一網打尽にします」

「南町奉行所は?加わらないんですか?」

「いえ、行き掛かり上、私と村田様も加わります。金吾とサブには明日の夕刻、茶屋が引けてから伊平以下の連中を尾行させ、蔵の在処(ありか)を確認します。ですから、明日朝から私は村田様と共に北町奉行所の打合せに参加しますので、茶屋の見張りは金吾とサブになります。おそらく店内では何も無いと思いますが、平太さん、身辺には十分用心してください。ここまでくれば後は明夜を待つだけですので、特段の動きは控えた方がよろしいでしょう」

 そこまで言って喉が渇いたのか、衣笠は手酌で酒を注いで煽った。

「分かりました。しかし、蔵に集合した時点で一味をお縄にできないんですか?」

平太はその空いた猪口に酌をしながら訊いた。

「疑う訳ではありませんが、もし奴らの仕掛けが平太さんの解明したとおりの物だったとしても、それを証拠に捕縛というのは難しい、とのお奉行の判断です。鞴や片栗粉、それにエレキテルを持っているだけで罪に問う事は不可能です」

「そうですか。では、一つお願いがあるのですが」

 急に願いと言われた衣笠は怪訝そうな表情で、何でしょう?、と訊き返した。

「泉州屋の現場に立ち会わせてもらえませんでしょうか?」

「そ、それは何故でしょう?」

「俺の推理した仕掛けが正しいのかどうかを知りたいんです」

「平太さん、捕物をなめてもらっちゃ困りやすぜ」

金吾が険しい顔で割って入った。平太はその御用聞きに向かって

「もちろん捕物そのものに立ち会う気はありません。捕物の直後でいいんです」

 金吾は渋い顔で腕組みをし

「平太さんとは言え、一町人を現場に立ち会わせるのは、ちと……一応村田様には伺ってみますが」

衣笠は困ったような表情で言った。

「ご面倒をお掛けしますが、是非ともお願いします」

平太は畳に手を突いて頭を下げた。

 平太が突拍子もない願いを口にした事で場の雰囲気が少し重くなり、しばし四人の間に無言の時間が流れた。

 大皿の料理も無くなり、何本もの徳利が横に転がったその時、障子が開けられてシメの顔が覗いた。

「そろそろご飯は如何でしょう?」

と訊きながらも、その腕には大きな盆が抱えられていた。

「おう、気が効くな」

 留吉が受け取って盆ごと卓上の大皿と入れ替えたその上には、湯気の上がる丼が人数分載っていた。

「わお、角煮丼じゃないですか」

それを見た平太が子供のような歓声を上げた。

「これはかくにどんと言うものなのですか。良い匂いがする」

衣笠も相好を崩して香りを嗅いでいた。

「はい。角煮丼と言うものなのか名前は知らないんですが、本日最後の豚を薄く削いで、煮込んだ汁と一緒にご飯に載せてみました」

「女将さん、胡椒があったら少しだけ頂けませんか?」

 平太は、その笑顔の前で拝むように両掌を合わせた。

「胡椒ですか?」

「薬味にします。胡椒だけじゃなくて、角煮丼には七味唐辛子、芥子、山葵、山椒、どんな薬味も合います。もちろんこのままでも十分に美味しいんですが、今言った薬味をほんの少し掛けるだけでかなり趣向が変わりますよ」

「そうなんですか。分かりました、と言っても山椒と山葵はありませんが、胡椒はすぐに薬研で挽いて、芥子も練って持って来ましょう」

 シメは嬉しそうに厨房に戻って行った。平太を完全に信用しているのか、知識やアドバイスを貪欲に吸収しようとしているようだった。

 とは言いながら、まずはこのままで、との平太の呟きで四人とも丼に手を付け始めた。

「旨いですねえ」

「あっしの思ったとおり銀飯に合いやすぜ」

おそらく生まれて初めて角煮丼を食べたであろう衣笠と金吾は、揃って感嘆の声を上げた。

 程なくシメが小鉢を二つ、胡椒と芥子の入った物を持ってきた。平太は胡椒を一摘み、丼の中の角煮に降りかけ、よしっ、と嬉しそうに頬張った。それを興味津々で見つめていた三人も各々どちらかの小鉢に手や箸を伸ばした。

「うん。元々この嬶の飯ゃ非の打ち所が無えんですが、薬味を付けると平太さんの仰るとおり趣が変わって、これはこれで旨い。おい、これも頂きだな」

留吉がシメを向いて言い、はいな、と応えたシメも嬉しそうだった。

「ますますもって平太さん、貴殿の正体が判らなくなりました」

衣笠は口をもぐもぐさせながら不思議そうな表情で言った。

「それはそれで置いておいて、明日の事情も分かった事ですし、今夜は衣笠様や金吾さんの帰りが遠いんで、そろそろにしましょう」

 あっという間に平らげた平太が丼を置いて言った。

「そうですね。明日は勝負の一日になるでしょうから」

衣笠の賛同に金吾も、へい、と頷いたが

「捕縛後の立ち会いの件、ぜひとも村田様にお諮りください」

平太は釘を刺す事を忘れなかった。

「確約はできませんが、明朝、村田様には(はか)ります」

衣笠は多少渋い顔で立て掛けた刀に手を伸ばした。

 勘定の段において、払う、と譲らない衣笠を無理矢理説得して支払った平太は、表で二人を見送った。そして、店仕舞いのために縄暖簾を外そうとしていたシメに声を掛けた。

「女将さんにもお願いがあるんですが」

「はい、何でしょうか?」

おずおずと切り出す平太にシメは縄暖簾を抱えたまま、首を傾げながら訊いた。

「明後日なんですが、この店を貸し切りとする訳にはいきませんでしょうか?」

「あれま、何故でしょう?」

「明後日の豚肉料理は、俺が女将さんに教えながら作ってもらおうと考えています。そうすれば憶えも確実でしょうし。ただ、手の込んだ料理なので、おそらくそれに手が掛かって店で出す他の料理を作る時間は無いと思います」

長い話になりそうだと感じたのか、シメは提灯の灯りを落とし、お話は中で、と平太を誘った。

「じゃあ、暖簾を出さないで、中で料理を教えて頂ける、と言う事ですか?」

 縄暖簾を留吉に手渡しながらシメが訊いてきた。

「はい。我が儘な申し出ですが、一般の客は入店禁止と言う事でお願いしたいんですが。無理でしょうか?」

「それはできますが……教えて頂いて作った料理はどうしましょう?結構な量の豚肉と鶏肉を頼んでいますが」

「そこで、店をほたる屋の貸し切りにさせて頂きたいんです。できた料理を食べるのは、ここにいる三人とほたる屋の人間としたいんです。当然、材料の代金 諸々(もろもろ)は俺が払います。幸い今日が給金日だったんで、歩合や指名料も含めて相当な金が懐にあります」

「代金などはどうでも良いんですが……」

 おそらく特別の事情でもない限り、盆暮れ正月以外に店を閉めた事などないであろうため、女将の顔には困惑の表情が浮かんだ。

「こう言っては何ですが、俺が教える料理はこの江戸じゃ未だ誰も作った事の無い料理だと思います。それゆえ、江戸ではどうしても手に入らない材料もあるんで、一部に代用品を使わざるを得ません。もしかすると失敗するかも知れませんし、そんな物を一般の客に出す事もできません。その時はその時で、ほたる屋の面々で責任を持って食します。その代わりと言う訳じゃありませんが、上手く行ったら、今後女将さんの改良も加えてこの店の料理にしてください」

「分かりました。そこまで言ってくださるんなら」

「あ、あっしもよろしいんですかい?」

 二人が深刻な表情で話していたため、双方の顔を見ながら内心おろおろしていた留吉が言った。

「俺が教えるとは言え、女将の作る料理を旦那である親分が食べないっ、てのはないでしょう。それに、もし上手く作る事ができたら、その料理で打ち上げ、慰労の席を開きたいと考えています」

「慰労でやすか?」

「はい。親分は全てご存知と思いますが、今回の一件は明夜には片が付くと思います。それは偏に親分のお力や女将の知識や助言があっての解決です。それに、今俺は男茶屋で働いていますが、これも奉行所の意を受けて探索としてやっている事で、暇でもないほたる屋を抜けさせて、それに送り出してくれた頭以下ほたる屋のみんなにも申し訳ないと思っています。ですから、協力してくれた方々、面倒を掛けてしまった人々に対しての慰労をしたいんです」

「そこまで仰ってくださる……」

 留吉は潤んだ目で言葉を詰まらせたが

「そんな話なら、慰労されるべきは平太さんじゃないんですか?」

シメが少し不機嫌な表情で口を尖らせた。

「だって、茶屋で探索ってのもあるんでしょうが、元々平太さんが天狗事件の仕組みに思い至ったからこそ進展があったんでしょう?だったら」

尚も不満そうに言葉を放つシメに

「これは誰にも内緒なんですが、実は、俺は興味半分でやってる部分があるんです。だから自分では苦にも感じていないし、そのために迷惑を掛けている事もあります。ですから、ぜひとも慰労の席を設けさせてください」

平太は深々と二人に頭を下げた。

「さっきも言ったように、全て解りました。このシメにお任せください。ただ、あたしもその代わりと言っちゃ失礼なんですが、明後日は平太さんの教えてくれる料理以外は一切何も作りません。上手くいくか不味い料理になるか、ほたる屋の皆さんには覚悟していらっしゃるようにお伝えください」

 笑顔に変わったシメの拳が、どんっ、とその胸を叩いた。

「ありがとうございます。助かります」

何度も頭を下げる平太に合わせて、夫婦も何度も深く腰を折り、何度目かのお辞儀を済ませた後、平太は店を後にした。


◆井戸端とケイ

 明早朝、いつものように犬の背伸びをした後、いつもより早く歯磨きに向かった平太の足が急に止まった。井戸端ではケイが米を磨いでいたのだが、その髪に平太の贈った簪が挿されていたためだった。

 猫背気味だった背を伸ばし、胸を張って、ふんっ、とご機嫌な馬のように鼻息を吐いた平太は

「おはよっ」

明るく声を掛けた。

「あ、おはようございます」

 米を磨ぐ手を止めたケイが振り返った。そして

「あの、これ、ありがとうございました」

井戸端に腰掛ける平太に、少し赤らめた顔を横にして簪を見せた。

「良かった、似合いますよ」

房楊子を口に突っ込みながら、なるべく平静を装って笑顔を返す平太だったが、その心臓は脈拍が二百を超えるのではないかと思うくらい超高速で心拍を繰り返していた。

「兄にもそう言われました」

 ケイの表情がはにかんだ嬉しそうなものに変わった。

「櫛以外は挿した事がなかったし……」

「なかったし?」

口籠もるケイを促すように平太は言い、歯磨きを溝に吐き出して口を濯いだ。

「初めてなんです、こんな物を男の人に貰ったのは」

 加速度的に赤みの増した顔を恥ずかしそうに隠しながら、ケイは小さな声で言った。平太は、ブラボー!ビバ簪!と叫び出したい気持ちを気合いで押さえ付けながら

「そう言ってもらえると俺も甲斐があります。じゃあ、飯食って浅草に行きますんで」

極力感情を抑えた笑顔で右手を上げた。

 その振り返って部屋に向かう背中を、あの、とケイが呼び止めた。ん?と振り返った平太に

「大事にします。ずっと」

胸の前で両手を組んだケイの顔が曼珠沙華の花のように真っ赤になり、その小さな顔から溢れそうな笑みを浮かべて言った。

「う、嬉しいですっ!」

 とうとう自分の感情を抑えきれなくなった平太は図らずも大きな声を出してしまい、それを恥じるように慌てて小走りで部屋に飛び込んだ。そして、布団を頭から被り、うっしゃーっ、うっしゃーっ、と歓喜の叫びを上げ続けた。


 ほたる屋で朝飯を食べた後、清造のいる帳場に向かった平太は

「頭、話があります」

と切り出した。そして、何だぁ、と帳簿から顔を上げる清造の前に立って告げた。

「今回の一件、おそらく今夜には片が付くと思います」

「おっ、奴らの尻尾を掴んだのか?」

「はい。今夜、この麹町で悪党どもは捕縛されるはずです」

顔を輝かせる清造に平太は言った。

「麹町?奴ら麹町に住んでやがったのか?」

「いえ。この先の泉州屋を襲う計画のようです。それを張り込んだ北町奉行所が一網打尽にします」

「泉州屋?そう言や、あそこは麹町一の両替商だな」

 話を聞いた忠助が寄ってきて言った。

「おそらく、これが上手くいけば、明日からは茶屋に行く事もなくなると思います」

「そうかあ、これで大団円かあ」

清造も腕組みをして嬉しそうに言い、すぐに

「北町奉行所が月番とは言え、村田様は出張(でば)るのか?」

と継いだ。

「村田様と衣笠様も参加されるそうです」

「そりゃ良かった。無事解決すりゃあ今回は村田様の大手柄だ」

そう感慨深そうに上を見る清造に

「それで、捕らぬ狸の皮算用じゃないんですが、明日の夜、シメさんの店で俺に慰労会を開かせてください」

平太は慰労会の開催を口にした。

 その言葉を聞いて、はあ?と怪訝そうな表情をした忠助が

「慰労ったって、何でお前が慰労会を開くんだ?逆だろ、お前が慰労されるんじゃねえのか?」

低い声で言った。

「今回の一件じゃ、この店にも迷惑掛けましたし」

平太がそう言った途端

「馬鹿野郎!どこが迷惑なんだ。迷惑というか苦労したのはお前ぇだろう。忠助が言うように、何でお前ぇが慰労会を開かなきゃならねえんだ?」

清造の怒声が響いた。予想はしていたが、逆に嬉しい大声でもあった。

「頭の言うとおりだ。あの茶屋で探索するって事は、まかり間違えばお前の命の危険が危なかったんだぞ」

「まあまあ、命の危険が危ない、ってのも日本語がおかしいんですが、お二人とも聞いてください。今回の一件で確かに俺の役割は全うできたと思います。だけど、事件が解明できたのはこのほたる屋が俺を茶屋に送り出してくれた事と、留吉親分夫婦の協力があったからです。文太さんも公私混同ながら茶屋の様子を探りに来てくれたり、衣笠様の伝言も伝えてくれました。だからその皆さん達に感謝の気持ちを贈りたいんです」

「お前なあ……」

 二人は呆れた顔をしていたが

「それに、シメさんの店を選んだのは、トンカツなんです」

平太の言葉に

「おう、この前言ってたトンカツってのはその事か」

忠助が目を輝かせた。

「トンカツってのは……カツレツかあ。そうだ豚のカツレツだあ。もしかしてそいつを食わせてくれるのか?」

清造も帳場から腰を浮かせた。

「はい。元々あの店の女将は長崎の料理人の娘で、畜肉にも拘り無く旨い卓袱料理を作る事で定評があるんですが、今回俺が指南してトンカツ、カツ丼、チキンカツもしくは唐揚げ、そしてポテトサラダも作ってもらおうと思います」

 平太が笑顔で口にするメニューに

「ぽ、ぽ、ポテトサラダかっ?」

忠助が身を乗り出した。清造はそれを知らないのか、二人の顔を交互に見ながら首を捻っていた。

 しかし、すぐに忠助が疑問を口にした。

「だけど、指南と言ってもお前、料理分かるのか?」

「俺ね、叔父さんが洋食屋をやってて、高校の時からずっとそこでバイトしてたんです。厨房も手伝ってて、これでも叔父さんからは、筋が良いから大学卒業したらうちで働かないか、って言われてたんです。半分その気もあって調理師資格も取ったんです」

「お前凄えな。ただの頭でっかちじゃねえんだな」

半ば自慢そうに言う平太に忠助が感心したように腕組みをした。

「誰が頭でっかちなんですか?」

 むっとする平太に

「だけど平太、金が掛かるだろう。豚肉っても、ありゃあ薩摩のお屋敷で飼ってる高級品だろうから、結構な値がするんじゃねえか?」

薩摩藩邸での養豚を知っているのか、清造が心配そうに言った。

「いえね、昨日が茶屋の給金日だったんですが、これが意外どころか、ふざけんなってくらい多かったんです」

「多かったって、お前半月も働いてねえだろう」

「はあ。そうなんですが、その半月足らずで、歩合や指名料やら込みで三両ちょっとあったんです」

「三両っ!」

「ふざけてんじゃねえぞ。女の相手して茶飲んで半月足らずで三両ってか。それじゃ一月働いたら七、八両か?」

「そうなんです、ふざけんななんですよ。それだけ金持った女達が多いって事ですかねえ」

怒ったように訊いてくる忠助に平太は困り顔で返した。

 すると急に、腕組みをした忠助が変に胸を張って鼻の穴を広げ

「ははあ、だからお前ケイちゃんに簪をプレゼントしたのか」

嫌らしい笑顔で見下ろすように言った。清造も、そうか、と両掌を打った。簪のプレゼントはみんなが知っているようだった。

「ぷ、ぷ、プレゼントだなんて、あ、あれは違うんですよ」

「何が違うんだ?」

 いつぞやの文太のような目つきで忠助が嬉しそうに訊いた。

「あ、あれは、伊平って言う悪党の手代から訳の分からない祝儀を貰ったんで、そ、それで」

「お?手前ぇ、悪党から貰った金でケイちゃんに簪買ったのか?」

清造もにやにやしながら攻撃に参加してきた。

「い、いや、それは衣笠様にも相談したんですが……そんな事より、とにかく明日の夜はシメさんの店を貸し切りにして慰労会を開きますんで、ほたる屋の皆さんは文太さんも誘って全員来てください」

 平太は一気に早口で捲し立て、ぺこりと頭を下げたが

「そりゃあ分かったが、さっき頭が言った不浄な金で買った簪の話はどうなったんだ?」

執拗な忠助の攻撃に居たたまれず

「じゃ、茶屋に行ってきまーすっ」

逃げるように店を飛び出した。

 しかし、通りに飛び出した途端、平太は丁度高速で差し掛かった大八車に衝突され、三メートルほど吹き飛ばされてしまった。清造と忠助が、大丈夫かっ、と声を上げながら店前に飛び出す中、平太は何も無かったかのようにむっくりと起き上がり、あばばばばー、と奇声を発しながら浅草に向けて駆けて行った。

「何だありゃ。大丈夫か?」

「頑丈と言うか馬鹿と言うか……愛は勝つんですねえ」

表に出て心配そうに口にする清造の言葉に、忠助が感慨深そうに言った。清造も、そうなんだろうな、と呟きながら、二人は呆れ顔で店に戻って行った。



※本作の内容は虚構であり、歴史上の江戸とは異なる世界の出来事です。

 よって、史実とは異なる事項や設定その他が記述されている場面のある事をご容赦願います。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ