第二話 空疎な鐘の音
ドロテアは婚礼の鐘の音を聞きながら、視線をずらして夫となる人間の顔を見た。
通った鼻筋に切れ長の目元、すっきりとした顎に神経質そうに固く閉じられた唇。囚人生活でやつれたとはいえ、『氷の貴公子』と呼ばれた美貌は健在だった。
年頃の娘なら彼との結婚を大いに喜ぶはずだが、花嫁のドロテアの心は冷めきっていた。
『早く終わらないかしら。あまりにも馬鹿らしい結婚式だわ。それにしても、まさかエーリッヒとの結婚がこんな悲しいものになるなんて考えもみなかったわね』
幼馴染の友人という立ち位置からドロテアはエーリッヒを昔から知っていた。ぶっきらぼうだが根が優しいところ、厳しいが心が温かいところ……ドロテアは彼の素敵な所をたくさん知っている。
これが本当の結婚だったらドロテアは喜んで永遠の愛を誓っただろうが、愛のない政略結婚では虚しさしかない。
『想像していた結婚相手の中で一番ひどいですわ……。本当に……』
鐘の音が厳かに響く。
エーリッヒとドロテアを祝福する鐘の音だが、響くたびに胸が抉られるようだった。
『愛のない政略結婚ならまだいいのよ。それから愛を育めばいいのだから……でも、まさかすでにパートナーと子供がいるなんて馬鹿にするにもほどがあるわ!』
いわゆる内縁の妻でエーリッヒは正式に結婚をしていなかった。しかし、今回はそれが幸いとなり、ドロテアの婚約者として皇帝は司法に介入できたのだ。
顔合わせの時にエーリッヒの口から先に妻子の存在を知らされた。その時のエーリッヒはひどく辛そうでドロテアは泣きたくなった。
『書類上は問題なくたって、わたくしはお邪魔虫じゃないの。不幸になると分かっている結婚なんて悲しいったらありゃしないわ!……でも、わたくしが結婚しないとエーリッヒは冤罪で処刑されてしまうのよね』
気分がますます重くなり、ドロテアは項垂れる。
ティアラが少しずれてしまい、慌てて顔を上げた。
するとアイスブルーの瞳と目が合った。
白い肌と銀色の髪と青い瞳は儚げな色合いでとても美しい。思わずドロテアが見ほれていると、エーリッヒは言いづらそうに口を開いた。
「ドロテア。君のおかげで俺は生きられる。ありがとう。……君の人生を台無しにしてすまない。冤罪の証拠を掴み次第、すぐに君を自由にするから」
エーリッヒの目はどこまでも澄んでいた。
余計にドロテアはみじめでたまらなくなり、歯を食いしばる。
赤の他人なら割り切って妻の役をこなせただろう。だが、情があるからこそ胸が苦しい。
ドロテアは拳を握り締め、怒鳴りたくなる言葉を飲み込んでにっこりと微笑む。
「……期待して待っていますわ。できるだけ早くお願いしますね」
優雅に笑ったつもりだったが、掠れた声しか出ない。
エーリッヒはそれに気づいたようで体調を気遣ってきたが、ドロテアは笑顔でそれを躱した。
『ああ、もうほんとうに苦しい。結婚と同時に潰れる恋心なんてひどい話だわ』
式後、ドロテアはそのままエーリッヒに連れられてタウンハウスへ向かった。本音は行きたくなかったが、結婚してヴァイスローゼン侯爵夫人となった今、そこがドロテアの家となる。
エーリッヒの屋敷は大貴族の邸宅らしい豪華で大きな家で、西館と東館が翼のように広がる。
出迎えてきた使用人たちはドロテアを歓迎してくれたが、目は笑っておらず、刺すような眼差しだった。それはエーリッヒも気付いたらしく、顔を顰めた。
「パークス。彼女がこの家の女主人だ。先ほどの歓迎の仕方は無礼にもほどがあるぞ」
「……大変申し訳ありません。以後注意します。改めまして、ようこそおいでくださいました。わたくしが執事長のパークスでございます。屋敷の切り盛りはわたくしとメイド長ヘレンが行っております。何かありましたらわたくしどもにお申し付けください。また、専属の侍女としてレシアがドロテア様のお世話をいたします」
執事長はよどみなく話したが、ドロテアが一声かける隙すら与えなかった。
心細さを感じたドロテアが手を伸ばして彼の腕を掴もうとしたが、「旦那様はご多忙の身でございます。どうぞドロテア様はお休みになってください。レシア、早く部屋にご案内しなさい」と執事長に止められてしまった。エーリッヒはドロテアに「すまない。まだ仕事が残っているんだ」と
「ドロテア様、こちらですわ」
レシアと呼ばれたメイドは明るい髪を長く垂らした魅力的な少女だった。学校を卒業したてのドロテアよりも少し下くらいなので、十六か十七くらいだろうか。
執事長やメイド長より親しみやすそうでドロテアは少し安心した。
「ねえ、この屋敷に人はわたくしに何か思うところがあるのかしら? もしかして……その、恋人やお子様のこととか」
喉が詰まってかすれた声しか出なかったが、レシアは最後まで聞き取れたらしく、眉をしかめた。
「あ、はい……。恋人のローラ様とお子様のユリウス様は屋敷の皆と仲が良いんです。執事長やメイド長はローラ様が女主人になると思い込んでいたから。急にドロテア様が来ちゃって動揺しているんだと思います、ふだんは気のいい人たちですから、いずれドロテア様に心を開きますよ!」
レシアは最後の言葉だけ明るい声で言った。
「……ありがとう。少し疲れたわ。休むから用意をお願いできる?」
「はい、わかりました」
レシアは手際よくターンダウンを行い、ガウンを用意して飲み物をベッドサイドに置いた。満足のいく仕上がりにドロテアはここにきて初めて笑顔が浮かべた。