海の底で捕まえて
2019.6.26
気晴らしに訪れた魚市場の片隅に、初めて見る変わった物体が置いてある事に気が付いた。足を止め訝しげにそれに顔を近付けるが水槽に映る自分の顔に少し嫌気が差した。
「?」
そして水槽に入れられた黒いチクチクは何故ココに居るのか彼には皆目見当も付かなかった。
「兄ちゃん見慣れない顔だね、どっから着たんだい?」
「わたし、インドから……日本住んで 三年目」
流暢な日本語は、ココで暮らすには何分不自由しなさそうに聞こえたが、彼の言葉には何か重く苦しい物を感じた。話し掛けてきた店の主と思しき老人は、タバコを拭かしながら彼を見つめた。
「ウニが気になるかい?」
「初めて見まシタ……これが……ウニ」
「ま、店に出る時は大抵殻がねえからな」
水槽の中で動いているような動いてないようなウニ達を、彼は指先でツンツンと水槽越しに小突いた。
「この先に殻付きで出してくれる店があるから、気になるなら行ってみな。これは高いやつだけど、その店ならランチ程度の値段で食えるさ」
老人に別れを告げ、言われた店へと向かう。ウニの中身は回転寿司屋で見たことがあるが、その時は何だか気持ち悪くて食べる気にもならなかった。
『お食事処 花道』
古民家の軒先にかけられた暖簾をくぐり抜け、一軒家を改造した手狭な店内へと足を踏み入れる。
「いらっしゃいま…………せ」
割烹着を着た若い女性が彼を出迎えるや否や、女性は固まり言葉を失った。それは彼も同じで、青天の霹靂とも言える衝撃に言葉を喪失していた。
「―――ナラシンハ!!」
「―――ユミコ!!」
若い男女の再開にお互いが目を輝かせた。
「ナラシンハお店は!?」
「近くに安いカレー専門店が出来て潰れちゃッタヨ!」
弓子は上京してナラシンハが経営するカレー屋でアルバイトをしていた。しかし二年が過ぎたある日、年老いた両親の店を継ぐために実家へと戻ってしまったのだ。交わした言葉こそ多くは無いが、彼は弓子に惹かれていた。きっと彼女もそうだろう。どんなに重い話題でも、二人の間には華が咲いていた。
「どうしてココに?」
「市場でたまたまウニを見掛けて……教えて貰ったのガこの店なんだ! スゴイ偶然!」
「ウニ!? 良いわよ。座って待ってて♪」
調理場へと入ってくユミコの背中を見送りながら、彼は椅子へと座った。久方振りの再会に心を弾ませ、彼の気持ちはとても浮ついていた。
「はい。出来たわよ♪」
弓子が運んできた膳には海の幸がふんだんに盛り込まれた海鮮定食が輝きを放っていた。皿の片隅には先程水槽で見た黒いトゲトゲが佇んでおり、弓子が予め切られたウニの上部を手で取ると、中には濃厚な黄色のウニが顔を覗かせた。
彼は言葉を忘れ海鮮定食を頬張った。ウニの見た目に臆すること無く最後の一滴まで味わった!
「……美味しい…………」
食後のお茶をすすりながら初めて食べたウニに想いを馳せ、後片付けをするユミコの背中を見つめた。
「ナラシンハさ……」
「―――ハイ?」
「こっちでお店出さない? 折角ナラシンハのカレー美味しいのに勿体ないわよ」
その言葉に強い勇気を得た彼は、それまでクヨクヨと悩んでいたのが何だか馬鹿らしくなった。少しでも弓子の近くに居たかった彼は、『お食事処 花道』の隣にカレー屋をオープンさせた。
彼のカレー屋は忽ち人気店となり、普段和食ばかり食べる近隣住民が挙って集まった。ナラシンハは喜び弓子も笑顔で彼を応援した。
その結果、『お食事処 花道』は人が来なくなり潰れた。