第二部 第一章 新たな難題
1
「あーやんなっちゃう」
舞台袖に引っ込むなり、水蘭は文句をたれながら鬘をむしり取った。汗が雫となって飛び散る。それから水蘭は水に飛び込む前かのように舞台衣装を脱ぎ捨てた。付き人はそれらを受け取るのにてんやわんやだ。
「やっと終わったーっ」
水蘭は手近にあった扇で顔をあおぐと盛大にため息をついた。
「お疲れ様」
小屋主がねぎらいの言葉をかける。ほくほく顔なのは大入り満員で楽日を迎えたからだ。
「いやーこれで皆に盛大に祝儀を弾んで休みに入ることができる」
冷たい茶の入った杯を水蘭に手渡す。
「これで秋からの興行も人手が足りそうね」
水蘭は役者から経営者の顔になって安堵の笑みを浮かべる。この星宿座は水蘭にとって我が家のようなものである。俳優や裏方は家族だ。そのみんなを自分の手で守っていく。そう覚悟を決めて水蘭は舞台に立ち続けるのだ。
2
小屋の中は閑散としていた。皆それぞれの故郷へと帰っていったのだ。夏のひと月半、舞台は休演となる。この炎天下、汗みずくで観劇するようなもの好きなど滅多にいない。自然客足は遠のくことになる。だからと舞台も休みに入るのだ。それを利用して劇場関係者も離れた家族や親類縁者と旧交を温めるために帰郷する。
水蘭は一人小屋を見回しながら感慨にふけっていた。付き人も帰ってしまい今は全くの一人だ。普段の喧騒が静まってしまうと、小屋というものは何とも物寂しいところである。彼女には帰る家がない。ともに役者だった両親のもと、舞台の上で育っていったのだ。だから強いて言えば舞台が家と言えた。その両親が亡くなった今、彼女の身寄りは無かった。それを寂しいと思う気持ちは人には見せない胸底にしまい込まれている。
と、その時小屋の戸を音が聞こえてきた。誰だろう。無人の舞台に用のある人間などいないはずだが。戸を叩く音はせわしなく続く。
「はぁーい、今行きます」
水蘭は身づくろいをしながら玄関へと向かった。戸を開けると意外な人物が目の前に立っていた。
「あら黄捕頭」
水蘭の声は思わず裏返ってしまった。また会うとは予想だにしない相手だったからだ。それでも来てくれたのだから取りあえずは歓待する。
「さ、あがってください。殺風景なところですけど」
「いや、構わないでくれ。それよりお主に頼みたいことがある」
黄捕頭は真剣な目つきで水蘭を見据えた。その眼力の鋭さに水蘭思わずはっとなった。
「とにかく座ってください。話はそれからでも」
水蘭は楽屋に黄捕頭を案内すると席を勧めた。
「茶を一杯もらおうか」
黄捕頭は額の汗を拭いながら水蘭に頼んだ。
水蘭は冷えた茶を取りに厨房へ向かった。
3
黄捕頭は杯の茶を一息に飲み干した。杯を卓に置くと次いで両腕を卓の上に乗せ、顔の前で両手を組み合わせた。
「これから話すことはくれぐれも内密に願いたい」
「ええ」
水蘭は黄捕頭の気迫に飲まれて、知らずこくんとうなずいていた。
「お主の関わった事件、あれはまだ終わっていなかったのだ。どうなったのかと言うと長官が誘拐されたのだ」
「え!?」
水蘭の頭の中は疑問で一杯だった。どうしてそういう話の流れになるのだろう。
「お主の手に入れてきた証拠をもとに長官は高官の捕縛に着手した。だがその動きが相手側に漏れ、逆に先手を打たれたのだ」
そんな大ごとになっていたとは。それにしても政治の世界は非情だ。
「我々は八方手を尽くして探した。そして長官の身柄が法州へと連れ去られたところまでは分かった。だがそれ以上は手の出しようがないのだ。我らはあくまで都の治安を守る身。それより外は管轄外なのだ」
黄捕頭の話を聞きながら水蘭は別のことを考えていた。法州。懐かしい響きだ。なにせ母の故郷だからだ。訪れたことはないが母の思い出話を聞きながら、想いを馳せていたものである。
しかし今は長官の件だ。法州といえば塞外の僻地である。そんなところへ連れ去るとは相手も容赦がない。だがそれと自分にどんな関係があるというのだろう。
「もちろん何もせず手をこまねいている我らではない。だが法に則った線では思うように動けないのだ。捕吏としてではなく、一市井の人間として活動しなければならない。当然割ける人員も限られてくる。そこでお主に頼みがある。我らの手助けをしてくれまいか。もちろん報酬も考えてある。救出の暁には長官からの謝礼も期待していいだろう。だが命の保証はできない。やってくれるか」
「どうしてあたしが……」
水蘭は困惑した。こんな大変な事態に自分が関わりあうことになるとは。水蘭は黄捕頭の顔を見やった。当惑し、本当に水蘭の助けを求めているのだ。彼女の心中にむくむくと義侠心が持ち上がってきた。多少は縁のある相手を見捨てるわけにはいくまい。水蘭は覚悟を決めた。幸い今は舞台もない。
「わかった。行くわ。あたしのか弱い腕でも構わないなら」
「おお、ありがたい。ならさっそく明日の朝出発することにしよう。それで構わないか」
「ええ」
水蘭は承知した。こうして長い水蘭の旅が始まったのである。