第二章 一応の落着。しかし終わりではない
1
朝から働きづめだったので、小屋に帰るなり寝床に潜り込んだ。一瞬のうちに眠りに入る。そのまま昼寝にしては遅すぎる睡眠を取った。
目が覚めると暗い部屋の中に薄明かりが灯っていた。付き人が気を利かせたものだろう。起きあがって寝室を出ると付き人の娘が厨房で洗い物をしていた。
「何か食べる物は無いかしら」
水蘭が声を掛けると「お粥があります。今温めなおします」と洗い物の手を止めて答えた。
「お願いするわ」
水蘭は粥で腹を満たすと寝室に戻った。それから今夜の外出の支度をする。やがて付き人が眠りについたのを確かめたあと、水蘭はいつもの恰好で小屋を後にした。
屋根から屋根へと飛移りながら水蘭は感慨にふけっていた。思えば役人のお先棒を担ぐのはこれが初めてだった。癪にさわる部分もあるが、これも身過ぎ世過ぎの手立てだと思って納得するしかない。
やがて目的の邸が見えてきた。今日は月が出ているので見間違いようがない。水蘭は邸の中庭に降り立つと術を使って邸内に侵入した。
さて、どこから探ろうか。長官に言われたのは不正な金の流れを洗い出して欲しいとのことだった。そうすると秘密の帳簿のようなものが手に入れば好都合ということだ。そのようなものを隠してある場所というと……。
水蘭はあちらこちらを物色して引き出しを調べたがそれらしきものは無かった。あとどこをと探っているうち、鍵の掛かった引き出しに当たった。臭い。水蘭は携えた針金を使って鍵をこじ開けた。こういう技も持っているのである。
開けて見ると書類の束があった。中を改めると数字の列が並んでいる。所々に朱で『秘』と記されてある。さらに見ていくと突然『田忠憲』という文字が目に飛び込んできた。なぜここに、と考えこもうとしたとき、いきなり頭の中に閃くものがあった。
あの昼間、田憲忠の邸で見かけた男、あいつはよく劇場で饅頭や飲み物を売っていた売り子だ。水蘭は大きな手掛かりを得たという感触を持った。あいつは事件の鍵を握っているかもしれない。
水蘭は矢も楯もたまらず邸を後にした。
2
翌朝、開庁と同時に水蘭は捕庁に駆け込んだ。急な謁見に慌てたのか、長官は官服の襟元を直しながら出迎えた。
「まさか本当に今日やってくるとは」
長官は半信半疑の態だ。
「これを見てください」
水蘭は昨晩手に入れた書類の束を長官に渡した。受け取った長官の顔が書類を繰るうち見る見る朱に染まってきた。
「これは、これはすごい。どうやってこれを手に入れた」
「それは聞かない約束です」
「むぅ……。惜しい。これほどの才能を埋もれさせておくとは。どうだ私の配下に加わらぬか。役者などよりずっと稼げるぞ」
「いえ、遠慮させて頂きます。それより閣下一つ分かったことがありまして」
そこで水蘭は自分の考えを披露した。長官の目の色が変わった。
「それは興味深い。早速手配しよう。その男の居場所は分かるな」
「はい」
長官は呼び鈴を鳴らした。すると召使が畏まって執務室に入ってきた。
「黄捕頭を呼んできてくれ」
「畏まりました」
召使は退出した。ややあって現れたのはあの時小屋で差配した捕手の頭だった。お互い『おや』という顔をする。
「捕縛してもらいたい人物がいる。ついては捕吏を二、三人連れて彼女の案内に従うように」
「分かりました」
黄捕頭は即答すると水蘭に目で乞うた。
「行きましょう」
水蘭は先に立って歩きだした。
3
一行は沙鹿界隈へと向かった。ここは日銭を稼いで暮らす者たちが集まる場所で、女一人でうろつくには物騒なところだった。捕吏を従えた女性の姿は人目につき、何事かと顔を出す者が大勢いた。その中で水蘭は馴染みの顔を見つけた。
「親方!」
「おう、水蘭じゃないか」
応じたのは禿頭に濃い髭を蓄えた恰幅のいい親爺だった。彼はこの街の顔役で、引き受けた仕事を手下に割り振る元締めのような地位にいた。水蘭の劇団も小屋での物売りの手配を頼んでいた。
「とんだ災難だったな。で、何の用だい」
「ちょっと人を探しているんだけど」
水蘭は覚えている男の人相を親方に告げた。
「ああ、あいつの事か。あいつなら……」
親方が人垣を見渡したときである。「待て!」と突然黄捕頭が叫び、捕吏とともに駆けだした。一瞬びっくりした水蘭だが異変を察知し、捕吏たちの後を追った。
沙鹿の町並みはうねうねと曲がりくねっており、しかも路上に物が散乱して通りにくいことこの上ない。足を取られるうちに捕吏たちを見失ってしまった。さて、どちらへ行こうかと迷いながら歩いていたときである。角を曲がったところでばったりあの男と顔合わせしてしまった。
「くそっ」
男は血走った目をしており、危険な精神状態にあることが見て取れた。証拠に意味のなさない叫びをあげると懐から小刀を引き抜き、水蘭に斬りかかってきた。
水蘭は素早くかわすと男の手首をつかみねじり上げた。男は呻いて小刀を取り落とす。そのまま腕を背中に捻りあげる。もう一方の腕を男の喉に回し締めあげた。男は逃れようとするが身動きがとれない。
水蘭の習い覚えた技の一つである。さてどう料理しようかと思っていたところに捕吏たちがやってきた。
「おお、大丈夫か」
黄捕頭が声をかける。その間に捕吏たちが男を縛り上げる。
「お主は修羅場に馴染んでいるようだな」
感心したのか驚いているのか分からぬような表情で黄捕頭は言った。
翌日捕庁内の庭で裁判が開廷された。男は素直に饅頭をくだんの商人に売ったことを認めたが、自分は饅頭に毒が入っていたことは知らなかったと抗弁した。長官は厳しく問いただして証言を引き出そうとしたが、自分は知らない。謎の男に頼まれただけだという被告の言以上のものを得ることはできなかった。
結局男は流罪に処せられた。裁判を見てきたという小屋主は清々したという表情を浮かべた。
「これで芝居を再開できる」
一件落着して万々歳という態度である。一方水蘭は浮かぬ顔で事態を俯瞰していた。これで事件が終わったわけではない。だが事は自分の手を離れた。もうかかずらうこともあるまい。そう自分に言い聞かせ、納得しようとした。