第一部 第一章 都の花形の秘密
1
娘は毒杯を呷るとがっくりと身を横たえた。そして静かに息を引き取った。一瞬の静寂。すすり泣きが微かに聞こえる。一拍置いて割れんばかりの拍手が沸き起こった。
「好! 好!」という掛け声が方々からあがる。それに応えるかのように娘は立ち上がり、深々と頭を下げた。
客席と舞台が一体になった幸福な時間。だがそれは突如起こった苦悶の叫びによって破られた。最初観客は異変に気づかなかった。しかし一人の男がどす黒い血を吐き出したことで、歓声は悲鳴に変わった。
客席にぽっかりと空間が開く。その中で男は苦しみ悶え、やがてばったりと倒れ伏すとこと切れた。女の一人が金切り声をあげた。それからは小屋じゅう大混乱だった。人々は逃げ惑い、怪我を負う者も出る始末。小屋が壊れなかったのが不思議なくらいだ。
小屋主は頭を抱え、役者たちは舞台袖でどうなることやらと思案顔。その中で主役の娘だけはきっと死体を見つめ続けていた。
2
「一体どういう訳 」
花水蘭――先程主役を張っていた娘――は憤懣やるかたないというように足を踏み鳴らした。観客は逃げ出しがらんとなった小屋で水蘭は捕吏の一団と相対していた。
「ああなんて事がおきてしまったんだ。お役人様、これは当方の落ち度ではございません」
小屋主はこの世もあらぬといった態で捕吏の頭に哀願している。
「それを決めるのはこちらの仕事だ。ところで二、三確かめたいことがある。二人に訊くがこの男とは顔見知りか」
「ええ、うちを御贔屓にして頂いてよく小屋に見えられています。お名前は存じ上げませんが」
「あたしも舞台からよく顔をみているわ」
「なるほど。すると犯人はそのことを知って何らかの目的のために殺害した。しかし手段が分かりませんな。見たところ目立った外傷はない」
そこで捕吏の頭を含めた三人は遺体を見やった。苦悶の表情を浮かべた被害者の顔は土気色に変色している。
「取りあえずは詰所に移送して調べてみましょう」
「あの小屋の方は……」
「もちろん事件が解決するまでの間は閉鎖だ」
「ああ我が星宿座もこれでお終いだ!」
小屋主は天を仰いだ。一方水蘭は期するところあるかのように黙然していた。
3
その日のうちに被害者の人相書きが方々に張り出された。そのことが人づてに伝わり、夕刻被害者の妻だという者が詰所に姿を現した。そのことによって被害者が商人の田忠憲であることが明らかになった。妻は遺体の引き取りを要求したが、事件の手がかりを得るまではと断られた。
真夜中。人皆寝静まった家並を走り飛ぶ一つの影があった。水蘭である。墨染の夜行衣を身にまとい、家伝いに飛び移っていく様は完全に闇に溶け込んでいる。
やがて一軒の建物に取りつくと屋根を下り、軒下に降り立った。捕吏の元締めである捕庁である。そこで水蘭はきゅっと手で印を結んだ。すると驚いたことに彼女の身体がふっと透明になってしまった。隠れていた立木の影もはっきりと見える。
そしてそのまま水蘭は詰所の壁にすたすたと歩いていった。ぶつかる、と思った瞬間、彼女はすっと壁を通り抜けていった。誠に不思議な術である。このことは劇団の誰にも知られていない。
さて水蘭は大手を振って詰所の中を歩き回っていた。目指すは昼間の死体が安置されている場所である。それは捕庁の奥まった一角にあった。衣服を脱がされ、床に敷かれた薄手の布の上にごろんと転がされている。あまり丁重に扱われてはいないようだ。
水蘭は術を解くとしゃがみこんで死体を検分した。術をかけたままだとすり抜けて物体を触れないからである。手で触ったり鼻を近づけて臭い嗅いだりしているうちに水蘭は一つ頷いた。やはり毒だ。種類は分からないが、おそらく口から飲ませたか食わせたかしたものだろう。これで事が殺しであることがはっきりした。しかし分かったのはそれだけだ。衣服も調べたが犯人の手がかりになるようなものは何もなかった。
水蘭は立ち上がった。そしてまた術を使うと詰所を後にした。水蘭は夜の闇にまぎれた。
4
星宿座には朝から白けた空気が漂っていた。なにせやることがないのである。劇団の役者や裏方たちはぼうっとしていたり、博打に興じたりと暇を持て余していた。
その様子を知ってか知らずか水蘭は自分の個室で身支度をしていた。この劇団はもともと彼女の父母が率いていたものだ。両親の死後、彼女が引き継いだのだがかつての盛名にはまだまだ及ばないと水蘭は思っている。
ここでつまづけば劇団は潰れてしまうかもしれない。だからなんとしても再開させねば。そのためには一時も休んではいられない。水蘭は侍女に言伝を残すと小屋を後にした。
化粧を落とした水蘭を星宿座の看板女優だと気づく者は誰もいない。その足で水蘭は捕庁へと向かった。長官に面会を請うと執務室に通された。椅子に座っていた長官はちらりと水蘭を一瞥すると「死体なら遺族へ返したぞ」とぶっきらぼうに言った。すでに水蘭の身分を知っているようだ。
「何かわかったことはありましたか」
「わたしが部外者に言うと思うかね」
「あたしたちは部外者ではありません」
「確かに。劇場が閉鎖されるのは死活問題だな。だがこちらとしてもおいそれと再開を許す訳にはいかない」
就任したばかりのこの長官は切れ者だというので評判だった。清廉で情実には流されないという。ならば論理で攻めるのが得策だ。
「長官、何かお困りのことはありませんか。あたしならばその解決の糸口を見つけだすことが出来ます」
「ほう、何を言い出すかと思えば……」
長官は値踏みするように水蘭を見すえた。目線に力がある。水蘭はその気迫に負けぬよう見つめ返した。
「なるほど何か秘密の手札を持っているようだな。ならば一つ試してみよう。ある高官を探ってもらいたい。国庫の金を不正に着服している疑いがあるのだが、証拠が見つからない。見つければ裁くことが出来る。やってくれるか」
「もし成功すれば情報を渡してくれますか」
「無論だ。お互い隠し事は無しだ」
「分かりました。ならば高官の名前を教えてください」
「いいだろう。ところで解明するのにどれくらい時間がかかるだろうか。なるべく早い方がいいのだが」
「明日には証拠をお出しできると思います」
「明日!? それは大きくでたな。焦って無理をしているのではあるまいな」
「確信があって言っているのです」
「そうか、そこまで言うのならば」
そこで長官は高官の名を口にした。それは依然から黒い噂の絶えない人物だった。
「わかりました。ところで長官、田忠憲の邸の場所をご存知ですか。お悔みを述べたいと思うので」
「ああ、それなら簡単だ」
長官は邸の場所を教えてくれた。水蘭は軽い昼食を認めたあとそこへ向かった。
邸は弔問客でごった返していた。その中で喪服を着た年配の女性がいろいろと差配している。彼女が石夫人だろう。水蘭はまた術を使うと人混みにまぎれた。
「しかしとんだ災難だったな。人生何が起きるか分からんものだ」
「それはそうと死因はなんだ。血を吐いたというが」
「殺されたという噂が出ているようだな。はっきりとした証拠はないが」
男たちは埒もない話に興じている。水蘭は得るところがないとみてその場を離れた。次いで女たちの部屋へ向かった。そこでも女たちが葬儀の用意をしながら盛んに口を動かしている。ここではもっぱら田忠憲の人となりが話題に上っていた。彼女たちによると夫婦仲は円満で、亭主にこれといった問題はなかったという。しばらく聞いていたが、話の内容は寡婦となった石夫人への同情に移ってしまい、田忠憲に関するそれ以上情報は無かった。
もうそろそろ帰ろうか。そう思って裏手から邸を出ようとしかけたとき、ふと押し殺しながらも息の荒い話し声が聞こえてきた。声のする方へ向かうと若い男女が人目を忍ぶように言葉を交わしていた。
水蘭は男の顔を見て、はてどこかで会ったようなといぶかしんだ。必死に記憶を探る水蘭を尻目に二人は会話を続ける。
「これ、君のために買ってあげたんだよ。すごいだろ。これを君に贈るから、だからさ……」
男が手にしているのは高価そうなかんざしだった。男の粗末な身なりにはそぐわない代物だ。
「こんな高そうなものどこで手に入れたの。なんだか貰うのが怖いわ」
女は尻込みしている。恰好からしてこの家の侍女だろうか。しかし男の方は……まだ思い出せない。
「大丈夫だよ。でかい仕事を引き受けてまとまった金が入ったんだ。やましいところはないよ」
男は女の肩を抱き寄せ、その手にかんざしを握らせようとする。するとその時邸の方から大きな声が聞こえてきた。
「奥様がお呼びだわ。わたし行かなきゃ」
女は男から身を離すと駆けだしていった。
「ちぇっ」
男は舌打ちするとその場を後にした。さて、そろそろ術を使うのが精神的にきつくなってきた。あまり長時間は使えないのだ。ここらが潮時だろう。水蘭は邸を離れることにした。