悔しさに涙が出そう
人気のない場所に連れてこられて、ようやく腕が離された。
夜の庭でも光がともされている。その上会場からの光で何も見えないわけではないが、光の少なさに心細くなる。
男の力で握られた左腕はじんじんと痺れており、手に持っている扇子が重く感じた。右手に扇子を持ちかえるが、その程度のことでは腕の痺れはどうしようもない。
「お話は何でしょうか?」
彼から、この場所から早く離れたくて、感情を殺した声で尋ねた。用事をさっさと済ませて、タイラーの所へ戻りたい。
「わかっているだろう? いい加減、返事が欲しい」
返事と聞いて、やはり納得していなかったのだと理解した。汚い言葉で罵ってやりたいところだが、意識して丁寧に話す。
「すでに父からお断りしているはずです」
「何が不満だ」
不機嫌そうに言葉を叩きつけられて、ムッとする。すべてが不満だ。リゼットを金づるとしか考えておらず、断っても断られるはずがないという超理論で聞く気がない。挙句の果てには、女性としては致命的ともいえる噂を流されている。
どこをどうとらえれば、好意を向けられるのか。
教えてもらいたいくらいだ。
「不満だなんて……すべてですわ。どこを探しても好意を持てそうな要素が全くありません。ですから今後一切、声をかけないでください」
リゼットは言ってはダメだと止める心の声を聞きながらも、我慢ができずに本音を吐き出した。
「この……!」
リゼットの挑発的な言葉に怒りを覚えたのか、彼は手を振り上げた。まずい、と理解した時には遅かった。避けることもできず、彼の手はリゼットに向かって振り下ろされた。
ばしっという音と共に体がふらついた。足に力を入れ、その場に倒れなかったのは意地だ。
目の前がぱっと真っ白になった後、急激に暗くなった。痛みも何も感じず、頭の中にわんわんとした不快な音だけが聞こえている。
「女は黙って男の言う事を聞いていればいい」
低い、怒りのこもった声を聞いて、意識がそちらに向く。痛みよりも悔しさと叩かれた怒りに感情が爆発しそうだった。
ぎりっと唇を噛み締めると、手にした扇子を力いっぱい握りしめた。彼は逃さないようにリゼットの腕を掴んだ。力加減を考えていない握り方に、腕がぎしぎしと痛む。
「いい加減にして」
抑制していた何かが壊れた。リゼットは全身で抵抗して彼の拘束から逃れると、手にした扇子を振り上げた。振りほどかれると思っていなかった男はやや茫然とした顔をしていたが、どうでもいい。力の限り男の顔に扇子を叩きつける。
「うっ」
男の痛みに呻く声と小気味よい音が響いたが、それだけでは気が済まない。男の脛をヒールの踵で蹴り、そのまま力いっぱい体当たりして突き飛ばす。
不意を突かれた男はそのまま尻もちをついた。リゼットは素早く男に跨り彼の鳩尾に右ひざを当て、全体重をかけた。男を見下ろしたまま、左手で胸ぐらをつかみ、再び扇子を振り上げる。
「リゼット!」
力いっぱい振り下ろそうとした腕を掴まれた。動きを封じられた怒りでリゼットは顔を上げると、腕を掴む彼を睨みつける。
「リゼット、そこまでだ」
タイラーが男からリゼットを引き離した。力強く抱き寄せて彼女の背中をなだめる様にさすった。タイラーはリゼットを抱きしめたまま、無様に地面に尻を付けている男を睨み据えた。
「ヘイデン殿」
「くそっ……覚えていろよ」
悪態をついて男は立ち上がると、よろよろしながら去っていった。男の存在が遠くなったことを感じると、リゼットの体から力が抜ける。
「ごめん、間に合わなくて」
タイラーが抱きしめた腕をほどき、リゼットの頬を大きな手のひらで優しく包みこんだ。
「触らないで。痛いわ」
「だいぶ腫れている」
打たれた頬が今になって熱くなって痛みだす。鈍い痛みだが、無視できない。唇も切れていたのか、口の中に錆びついた味がした。
「タイラー」
「怖かったな。もう帰ろう」
頬を包み込んだまま、そっと目元に指が触れた。どうやら涙が出ていたようだ。泣いている、と気がついてしまえばもう止めることができない。ぽろぽろと涙が零れ落ちる。声は出ないように唇を噛み締めた。
「うううう」
「本当にごめん。こんな人ごみの中で何かするとは思っていなかったんだ」
もう一度優しく抱き寄せられて、彼の胸に縋った。絶対に泣かないと唇をぎりぎりと強く噛み締めた。
「唇、傷がつく」
タイラーの指が優しくリゼットの唇をなぞった。思わず力を抜いてしまう。
悔しくて、悔しくて。
そして何よりも女の身で思っていた以上に何もできなかった無力感にどっと涙が溢れた。
******
最悪なことに夜会での醜聞はその日のうちに駆け巡った。人目を避けて夜会会場から帰宅したはずだったが、ただ事ではない雰囲気で歩いていたことで、何があったか気がつかれたのだろう。
髪は叩かれた勢いで崩れ、頬は腫れあがり、ドレスもあの男を突き飛ばして馬乗りしたので乱れていた。ひどい姿を晒していた自覚があるので、ある程度の噂は仕方がないと思っていた。
見た人が色々とあることないこと広めるだろうとある程度は予測していたが、あの男はいかにも自分が被害者だと言うように吹聴したのだ。
そのことを知って、悔しくて頭がどうにかなりそうだった。
「リゼット、ほとぼりが冷めるまでエリザベート姉上の所へ行け」
執務室に呼ばれたリゼットにため息交じりに父のヒューゴが告げた。リゼットは信じられない思いで顔を上げた。ヒューゴは娘の顔を見て、痛ましそうに顔を歪めていた。
「あの男はお前に責任があるように恥ずかしげもなく話している。婚姻の申し込みも取り消しが続いているし、ゲスな勘繰りをしてくる輩も多い。このままこの国の社交界にいてもお前が傷つくだけだ」
「嫌です。ここで顔を出さなくなったら相手の思う壺です」
「実際に信じているものなどほとんどいないだろう。夜会会場から帰るお前は明らかに叩かれた痕があったのだから」
そっとまだ腫れている頬に触れてみた。頬を覆うほどのガーゼが当てられている。思っていた以上に腫れあがっていて口を動かすだけでも痛む。
「こんなことなら、潰しておくんだったわ」
「リゼット?」
「タイラーが止めるから。あと少しだけタイラーが遅かったら、力の限り殴って、急所を潰せたのに」
ヒューゴが固まった。その様子が面白くて少しだけ笑った。笑うだけでも顔全体が痛むため、引きつった笑いになってしまった。
「どうやらあの男はわたしに叩かれて、突き飛ばされて尻もちをついたことはきれいさっぱり忘れたようです」
「馬乗りは……ただの言いがかりではないのか?」
頭が痛むのか、ヒューゴがこめかみをぐりぐりと揉んでいる。
「嘘ではありません。気の済むまで殴ってやろうと、突き飛ばして転ばせて跨りました」
「……」
ヒューゴが沈黙した。リゼットはふんと鼻息を荒くして、胸を張る。
「つくづく運のいい野郎です。今度会ったら確実に潰してやります」
好戦的に笑いながら右手を目の前に掲げ、力強く握りつぶして見せた。ヒューゴが頭を抱えてしまった。
「どうしてこんな性格になってしまったんだ。やはり年頃の時期に母親がいなかったのがいけなかったのか……」
そんな的外れな呟きが聞こえてくる。聞き咎めたリゼットは不満げに唇を尖らせた。
「男に好きにされないように、この方法を教えてくださったのは亡くなったお母さまです。力の弱い女子でも男の急所を踏みつぶせば勝てると教えてもらいました」
「彼女はいったい何を教えたんだ」
ヒューゴはがっくりと肩を落とした。
「ふふ。お父さまも気を付けてくださいませ」
「お前、父親に何をする気だ?!」
「お母さまが気に入らない女を後妻に選びそうなら、お父さまのを潰しておけと」
リゼットはにっこりと笑った。8歳の時に流行り病で亡くなった母親はリゼットによく似ていて華奢な儚げな美人だった。リゼットは大好きな母親の言葉を忠実に守るつもりだ。
賢明にもヒューゴはこの話題を打ち切り、ため息をついた。
「明日、出立できるよう、馬車を手配する」
「流石に無理です。準備ができません」
「最小限の荷物でいい。必要な物は向こうで新しくそろえるがいい」
「嫌です!」
父親の横暴ぶりに反発の声を上げれば、胡乱な目を向けられた。
「お前をこの国に残しておくと、ヘイデン侯爵家嫡男に被害が出そうだから駄目だ」
「わたしの評判は地に落ちましたけど?」
「お前の評判よりも、ヘイデン侯爵家の嫡男がお前に再起不能にされたことが事実になる方が問題だ」
まるでリゼットが悪いかのような言い方に、むっとする。
「わたしは悪くありません」
「淑女らしく悲しい笑顔でも浮かべれば、それで噂など収まったのだ。元々ヘイデン侯爵家嫡男の評判など悪いのだから、時間が経てば上塗りされたはずだ」
そう言われてしまえば、その通りだった。貴族の噂など、すぐに広まるが、上塗りされるのも早い。お金目当てにリゼットとの婚姻を結ぼうとしていたので、あの男が悪い噂を流しても僻みや嫌がらせだと受け取る人の方が多いはずだ。
そう思い至れば、自分の行動が一番駄目だった。
本当にそう思うけれど。
「反省は致しますけど、後悔はありませんわ!」
翌朝、隣国に嫁いだ父の姉であるエリザベートの所へと旅立つことになった。