揺れ動く気持ち
そっと唇を押さえた。
まだ柔らかく触れた感触があるような気がする。
一人寝台の上で悶えた。今日の遠出はいつもと違っていた。
付き合い始めて2ヶ月の間、何度か二人で出かけた。いつだってレオナルドはリゼットに対して年の離れたような兄のような態度だった。キスだって頬に少し触れる程度のキスしかしていない。レオナルドはいつでもリゼットを楽しませてくれたが、男女の関係など今まで何もなかった。
仮初だからだろうと思っていたのだけど、不意打ちのように態度を変えられては心臓がドキドキしてしまう。
レオナルドはいつもと変わりなく優しかったが、リゼットを見つめる視線が熱かった。あまりにもじっと見つめてくるものだから、恥ずかしくて、どうしていいのかわからなくなるほどだ。最後も何か囁かれたような気がしたけど、まったくと言っていいほど頭の中に残っていない。覚えているのは、やや強引な感じのキスだ。あんなキスをしたのは初めてだ。
再び思い出して、寝台の上でモダモダする。一人真っ赤になり、冷静になろうと息を整え頬を押えた。
リゼットは悶えつつも寝台の脇にあるチェストからイレーヌから借りた本を取り出した。何冊かあるなかで、一番のお気に入りを選ぶ。
パラパラとページをめくり、ヒロインとヒーローが夜に逢引するシーンを探す。お目当てのページはすぐに見つかった。数ある二人のシーンで一番好きな場面だ。
人目を忍んで、二人が待ち合わせをする。愛しい相手に愛を囁きながら、キスするのだ。ヒロインの気持ちの高鳴り、ヒーローの気持ちの籠もった愛に胸がキュンキュンする。
最初は優しい触れるだけのキス。次はちょっと喰むようなキス。ヒーローはヒロインの柔かくみずみずしい唇を堪能した後、大人のキスをするのだ。
リゼットは何度も何度もそのシーンを読んだから、レオナルドのキスが子供を作るキスだと理解していた。乳母が教えてくれためしべとおしべはお互いの舌で、子種は唾液なのだ。大人のキスで唾液の交換をすると子供がお腹に宿る。
ヒロインは何度もヒーローから大人のキスを受けて、子供を身籠っていた。回数が書いていないのはきっと個人差だ。だが、小説での逢引きの回数からすると、7、8回。だから少なくとも10回大人のキスをしたら、子供ができるのだと思う。
初めてレオナルドに大人のキスをしてもらったから、あとは9回、大人のキスを重ねればきっとここに子供が宿るのだ。
両掌を下腹に当てた。
「本当にどうしよう……」
うっとりと子供ができるところを想像し、生まれた後を妄想しては恥ずかしさに寝台の上を転がる。
やはり好きな人の子供が欲しい。
これほど想像だけでも幸せになれるのだ。レオナルドの子供を産むことができたら、これほど幸せなことはないだろう。
リゼットは両親を思い出し、笑みが浮かんだ。妊娠中の母を父ヒューゴがあれこれと口うるさく注意していたのを覚えている。母は行動的な人で、妊娠しているからと部屋に籠っているような人ではなかった。そんな母を注意していたのがヒューゴだ。
体を冷やすな、荷物を持つなと色々なことを言っていたような気がする。そのたびに母はくすくすと笑い、小言をいうヒューゴに甘えるのだ。その甘え方が上手で、怒っていたはずのヒューゴが母を甘やかすのを見ておかしくなったものだ。
幸せは長く続くものだと思っていたが、そうではなかった。あと3か月で生まれてくると言うときに、王都で流行った風邪に母がかかってしまったのだ。
高熱がでて、意識が朦朧としていた。リゼットは母の寝室の扉の前で大人たちを見ていた。風邪が伝染るといけないからと部屋に入ることを禁じられたのだ。だけど、本当は熱に苦しむ母を見せたくなかったのだと思う。
母が意識を失って、数日後、帰らぬ人となった。妊娠していて、体力も落ちていたのも悪かったのだと医師は慰めてくれた。
リゼットが8歳の時だった。
妹か弟が生まれるのを家族が楽しみにしていたのに、ヒューゴとリゼットだけが取り残されてしまった。
屋敷は死んだように沈み込んでいた。母の明るさが屋敷の暖かな空気を作っていたのだ。リゼットは途方に暮れた。悲しみに沈むヒューゴの側に寄り添っていた。
幸い、ヒューゴは悲しみにリゼットを忘れることはなかった。もうこれ以上、愛する者を失わないようにとヒューゴはひどく過保護になった。
リゼットも強そうなのに、今にも折れてしまいそうな父を支えようと、ずっと側にいたいと思っていた。父の側にいるためにリゼットは伯爵家を継ぐ決意をした。
伯爵家を継ぎ、結婚をし、沢山の子供を産んでヒューゴを一人にはしないと決めたのだ。母が妊娠するまではリゼット一人だったため、それなりの教育がなされていたが意思表示をしたのはこの時が初めてだった。
リゼットは天井を眺めながら、ゆっくりと下腹を撫で続ける。
例えば、結婚せずに子供を産んでもヒューゴは最後には許してくれる。だけど、レオナルドはどう思うだろうか。
レオナルドも体が大きく厳つい感じではあるが、優しい人だ。きっと子供が産まれたらとても優しい笑顔を浮かべて愛し守るのだろう。
そんなレオナルドを容易に想像できるのだ。子供の存在を教えないのはいけないことではないのだろうか。
レオナルドを心から好きになってしまったリゼットにはその行為がレオナルドを傷つける行為のように思えた。愛する人の子供を黙って産んで自分と子供だけは幸せになれると思っていた過去の自分を殴ってやりたい。
難しい問題に、リゼットはため息をついた。まだ子供ができているわけではない。それに仮初の恋人の間に妊娠するとも限らない。
今の二人の関係を壊したくないという気持ちの方が強かった。それにレオナルドはリゼットよりもずっと年上だ。リゼットの持つ気持ちと同じ気持ちを向けてもらえる自信はなかった。
「だって、レオナルド様も好きとは言っていない」
レオナルドとリゼットの関係はニコラスによって結ばれたものだ。レオナルドが望んでいないことは明らかだ。ただ、レオナルドは優しいから。リゼットを妹のように大切にしてくれている。それに仮初の恋人として接してくれている。
初めての熱い眼差しも優しく撫でる大きな手も、すべて仮初のものだ。
リゼットは冷静にそこまで考えると、ずんと落ち込んだ。レオナルドには女性としてもっと見てもらいたいという欲を持ち始めていた。レオナルドが突然リゼットに対して甘く接するようになったのと同じように、リゼットもレオナルドにもっと女性らしく迫った方がいいのかもしれない。その方がきっとレオナルドがリゼットを女性として好きになってくれるような気がした。
天井をじっと睨みながら、リゼットはちょっとだけ胸元をほどき覗き込んだ。横になっているせいなのか、コルセットをしていないなのか、胸がぺったんこだ。
「お母さまはもっとお胸が大きかったのに」
子供っぽい自分がとても嫌になってくる。リゼットは現実から目を逸らすように胸元をしっかりと整えた。リゼットから誘惑するのは諦めた方がよさそうだった。
深刻な問題も先送りにすることに決めた。
今はただ、好きな人とのキスをした余韻に浸りたかった。




