夜会会場で
貴族というのはちょっと面倒くさい。
他に付け入る隙を見せないようにしなくてはいけないし、お金がないなんて思われないように見栄を張らなくてはいけない。他にも色々制約がある。貴族であるが故に豊かな暮らしをしていられるのだから、「貴族らしくあること」が豊かさの代償なのかもしれない。
どちらにしろ、今の状況はまさに貴族として仕方がない。
ちゃんと理解している。だから、リゼットも暴れたいのを我慢して、頑張っていた。
リゼットは3つ年上のタイラーの差し出した手に自分の手を乗せて、馬車から降りた。今日の夜会はこの大国でも人気のある伯爵家が主催しているため、開始時刻よりもかなり早い時間にもかかわらず車寄せには列ができていた。
できるだけ注目を浴びずに会場へ入りたいといつもより早い時間に出発したのに、これは予想外の出来事だ。気合を入れて笑みを浮かべていたが、気分が伴っていないので馬車の中で待っている間に笑みもすっかり消えていた。
「リゼット、笑顔」
「笑顔なんか無理よ」
むすっとした顔のまま答えれば、タイラーが宥める様に柔らかく笑う。タイラーはアディソン侯爵家の次男で、リゼットとは又従兄妹の関係だ。彼の祖母がリゼットの祖父の妹にあたる。
タイラーは普段は愛想のない硬質な美貌なのだが、笑みを浮かべると雰囲気がぐっと甘くなり親しみやすくなる。リゼット自身、平均よりも少し背が低いがなかなかの美しさだと自負している。だが、どうしてもこの男の隣に並ぶと色褪せているのではないかと拗ねる気持ちが頭をもたげてくる。
「タイラー、あまり笑顔を見せないで。独身令嬢からの視線が辛いわ」
「それは無理だな。笑顔を見せないなんて夜会では無理だろう?」
タイラーが少しだけ彼女の手を強く握った。痛くはないが、文句が言いたくなってしまう。タイラーは手を握っていないもう一方の手で彼女の腰を抱き、体を寄せた。
ゆっくりとした歩調であったが、リゼットに合わない一歩で会場に向かって歩き始める。リゼットとタイラーとの身長差はゆうに頭一つ分以上あるため一歩の大きさが異なり、どうしても小走りになってしまう。タイラーはリゼットの恨めしい視線に気がついたのか、ようやくこちらを見下ろした。
彼と視線が合ったので、きつく睨んだ。
「いいね。ため息よりも気の強い態度の方がリゼットらしいよ」
「わざとなの? もうちょっとゆっくり歩いて」
彼の一歩はリゼットの一歩半。
優雅に見せながらついていくのが大変なのだ。しかも夜会用の靴はとてもヒールが高く、華奢。この調子で歩かれると、会場に着くころには足が疲れてしまう。
「きちんと笑顔を見せてくれたらゆっくり歩くよ」
「わかったわよ」
渋々、柔らかい笑みを浮かべて見せた。もちろん、唇の形を変えただけだ。タイラーはリゼットの冷ややかな目を見ながら、肩をすくめた。
「愛想笑いが丸わかりだ」
「それでも笑顔でしょう。十分じゃない」
「屁理屈だね。じゃあ、誤魔化すためにキスぐらいはしておこうか」
何が、じゃあ、なのか全くわからないが、彼は歩きながらもリゼットのこめかみに小さなキスをした。その仕草がとても自然だ。さりげなく二人の様子を伺っていた人々はひそひそと話している。きっとタイラーをリゼットの婚約者候補と思ったに違いない。
「笑顔」
「わかっているわ」
引きつりながらも、にこりとほほ笑んだ。やりすぎだ! と大声で抗議したいが、今夜のエスコートはセルウィン伯爵家がアディソン侯爵家にお願いしたことなのだからタイラーの行動を拒否することができない。
「本当に面倒くさいわね。婚約の申し込みを断っただけなのに」
そうぼやけば、タイラーは苦笑する。
「仕方ないね、彼は侯爵家の嫡男だから」
こんな茶番を演じる必要が出てきたのは、リゼットに結婚を申し込んできたヘイデン侯爵家に断りを入れたせいだった。リゼットが跡取りであるから嫁がせることはできないとやんわりと断ったにもかかわらず、向こうは面子を潰されたと吹聴した。
断られると思っていなかったことも驚いた。ヘイデン侯爵家は爵位こそ高いが、今すぐにでも爵位を国に返上するのではないかと噂されているほど負債が多いのだ。没落するまで1年持たないかもしれないとまで囁かれているぐらい傾いている。
だからこそ、ヘイデン侯爵家はリゼットとの結婚をすることで援助を得たかった。
セルウィン伯爵家は爵位は伯爵であるが、かなり成功していた。セルウィン伯爵家は元々それなりに資産家であったが、リゼットの父の代になって拡大した。現セルウィン伯爵は金になる事業を見つけるのが上手いのだ。
セルウィン伯爵家にとって益のない縁であるため、ヘイデン侯爵家からの縁談の申し込みを迷うことなく断った。それを逆恨みしてヘイデン侯爵家はここぞとばかりにひどい噂を流したのだから質が悪い。
「誰が男好きよ。恋人だっていたことがないのに!」
ぷりぷりと怒れば、タイラーがははははと乾いた笑いを漏らした。
「リゼットが男好きねぇ。どちらかというと控えめな子供体形なのに。無理があるよね?」
「体形は関係ないわ! バカ!」
タイラーが意味ありげにリゼットを見下ろしたので、かっとなる。リゼットはタイラーが揶揄うように女らしさに欠けるわけではない。平均よりも低い身長に華奢な体つきは男性の庇護欲をそそる。だが、この国は胸が豊かな方が好まれるのだ。不幸にして、リゼットの胸元は美しいとされている胸を基準にしてしまうと間違いなく貧相だった。
他愛もないことで言いあいながら、時には取り繕って挨拶をして回った。一通り、挨拶が終わるとタイラーが困ったような顔をする。
「ほんの少しの間、一人でも大丈夫かい?」
「もちろんよ」
「すぐに終わりにしてくるから、人のいないところにはいかないように」
「わかっているわ」
後ろ髪を引かれるタイラーを友人たちの元に送り出して、リゼットは軽食が用意してある場所へと移動した。すれ違う給仕が酒の入ったグラスを勧めてくるが、それを断りながらゆっくりと移動する。
「リゼット」
名前を呼ばれて立ち止まれば、友人のマデリンがいる。嬉しくてマデリンに笑顔を向けた。いそいそと彼女の方へ近寄れば、くすくすと笑われた。
「マデリン、お久しぶり」
「リゼットも元気そうね。安心したわ。アディソン様がいるからかしら?」
リゼットとタイラーの関係を知っているマデリンは小さな声でおしゃべりを始める。さりげなく壁際へと誘導された。リゼットはマデリンに導かれるまま歩いた。何か伝えたいことがあるのだろうと思ったのだ。好奇心のある視線を彼女が体で遮ってくれるのもありがたい。
「お気を付けになって。あの方、この夜会に出席しているわ」
「え?」
「できる限り人気のないところにはいかないようにした方がいいと思うの。アディソン様が挨拶回りをしている間はわたしといましょう?」
あの方、が誰を指しているのかわかって笑顔が固まった。そろりと会場に視線を巡らせたが、すぐには見つからない。
「あまり探さない方が良いですわ。目が合ってこちらによって来られても迷惑なだけですから」
マデリンの忠告にリゼットはため息を付いた。
「どうしたら諦めてくれるのかしら?」
「リゼットが結婚するまで難しいですわね」
リゼットのぼやきにマデリンはすぐさま答える。その小気味いい会話が楽しくて、つい笑みがこぼれた。
「そうそう。リゼットは明るく笑っていた方が素敵よ。あんな盆暗、相手にする必要ありませんわ」
頼もしい友人の言葉に頷くと、最近の流行や噂話に花を咲かせた。グラスを片手におしゃべりに興じていると、給仕が静かに近づいてきた。給仕はマデリンに一枚の紙を差し出した。
「ご伝言でございます」
「ありがとう」
マデリンはそれを受け取り、紙を広げる。さっと内容に目を通して眉を寄せた。
「誰から?」
「婚約者からよ」
あまりにも歓迎していない表情に、リゼットはふふっと笑う。どうやらリゼットを一人にするのが嫌なようだ。本当にいい友人を持ったと心が温かくなる。
「わたしは大丈夫よ。人目のある所にいるし、もうそろそろタイラーも戻ってくると思うから」
「でも」
「ほら、まだダンスも踊っていないのでしょう? 彼だって折角あなたと一緒に出席したんだもの。ファーストダンスをあなたと踊りたいはずよ」
「わかったわ。でも、本当に気を付けてね」
マデリンは最後までリゼットを気にしながら、婚約者の方へと向かった。彼女の後姿を見送り、タイラーでも探そうかと移動しようと彼女とは別の方へと歩き出そうとした。
「リゼット嬢」
突然、ぐいっと腕が引っ張られた。驚いて振り返れば、そこにいたのはフランク・ヘイデン侯爵子息だった。これほどの位置になるまで、まったく気がつかなかった。彼はひょろっとしたやや線の細い体格であるが、リゼットよりもはるかに背が高い。
「ごきげんよう、ヘイデン様。手を離してくださる?」
「……少し話がしたい」
人目があるせいか、それなりに丁寧な言葉使いだ。だが、リゼットは彼と二人で話すつもりはなかった。
「ご遠慮いたします」
「ではここで大声で話そうか?」
嫌な奴だ。何を話すつもりでいるのか、わかっているので舌打ちしたくなった。いかにも婚約した風に振舞って、リゼットが我儘を言っているように思わせようとしている。
確かに爵位は彼の家の方が上であるが、セルウィン伯爵家も侯爵家に近い位置にいる伯爵家だ。あからさまに見下したやり方に腹が立って仕方がなかった。
彼の尊大な態度に辟易しながら、どうやって切り抜けようと考えていると力強く腕を握りしめられた。痛みにリゼットは顔を歪ませた。
「痛いので、手を離してください」
小さな声で抗議すれば、彼は見下すようにリゼットを見た。その表情を見て嫌な予感がした。彼は小さく舌打ちをして少しだけ握りしめる手を緩めた。
抵抗しつつも引きずられて連れていかれたのは、人目がほとんどない庭に出ることのできるバルコニーだった。