罪を消す
「相変わらずお前の記事はクソだな」
見るからに横柄な男の手によって、机上に破棄される紙束。駄文と称され唾棄された記事には緻密な取材内容が事細かに記され、大量の注釈も赤で書き込まれている。枚数もそれなり以上であり、記者がかけた時間と苦労が一目で認識出来る。
「すみません……」
多大な努力と甚大な労力を一蹴されたのは、歳若い青年。黒いスーツ生地には擦傷も皺もなく、新品同然の革靴は艶やかに輝きを放っている。
青年は自身が書き上げた記事を拾い集める。遠巻きでは同期と思しき記者が嘲りの視線を向けていた。
「何度も言わせんな。テレビの前の視聴者はな、こんな平和ボケしたニュースなんか望んじゃいないんだよ。なんだ温泉って。じじいかオメエは」
「ですが、落ち着いたいい所でして……」
「上司に口答えするんじゃねぇ! おい、いいか草野」
新入社員らしい青年は、草野というらしい。
「こんな無駄な情報を集める暇があるんならな、スキャンダルの一つでも取って来い。いや、ここまでまとめられるほど暇なんだ、三つ四つ取って来れる。いい加減、需要ってもんをわかれ。権威の失墜を見るのは、誰だって楽しいんだよ。世間はそういうのを望んでんの!」
「……」
「返事!」
「……はい」
平和な方がいいと思うけどなあ。
思いを飲み込み、草野は縮こまった。
昼休み。
草野は独り、港を臨む公園で食事をしていた。ベンチに腰掛け、味気ないコンビニ弁当を膝に広げ、鼠のように小さく箸を進める。
「あっ」
箸の間から、メインディッシュの魚フライが転げ落ちた。
「あー……もったいない」
残念がりながら指先で摘まみ、近くにいた鳩の群れに放ってやった。
突然与えられた餌に群がる鳩。その様子を、草野は穏やかな目で見つめる。
と、
「せーんぱいっ!」
「うわっ!?」
草野は何者かに背を叩かれ、前のめりにつんのめる。すんでのところで、昼食の全滅は回避。
「かえでちゃん……危ないから」
「あは、ごめんなさーい」
振り向いた先にいたのは、ショートカットの似合う、快活そうな女の子。かえでちゃんと呼ばれた彼女は断りも入れず、草野の隣に腰を下ろした。
「またぼっち飯ですか?」
「ストレートに言うね……そうなんだけど。かえでちゃんは? 制服じゃないけど、今日は非番?」
「そーなんです。と言っても、さっきひったくり捕まえてきちゃいました」
かえではない胸を張る。
「休日だからといって、犯罪は見過ごせませんよ!」
「はは、かえでちゃんは偉いね。ようやく就職出来たのに、それでも毎日怒られてばかりの僕とは大違いだ」
「いえ、せんぱいは二年も就職浪人してるじゃないですか! その分頑張ってて、人生経験豊富です!」
「あんまり嬉しくないなあ」
純粋な称賛のつもりであろう彼女に苦笑。
かえでは数少ないおかずを奪い取り、満面の笑みで口に入れた。草野が抗議を入れようと口を開きかけた時、
「やあこれはこれは。刑事さんじゃあないですか」
草野の知らぬ、軽薄そうな男が姿を見せ、無遠慮に二人の空間に踏み込んできた。
かえでが剣呑な空気を纏い、男を睨む。刃物の如き質量さえ感じる警戒心だったが、男はそれを前にしてなお余裕を崩さない。
「そんなに睨まないでくださいよ。カレシとの時間を邪魔したのは謝りますけど」
「……せんぱいはそういうんじゃありません」
かえでは感情を素直に表現するタイプではあるが、ここまで露骨に嫌悪する様を、草野は初めて見た。
男はわざとらしく肩を竦める。
「ま、どっちでもいいんですけど。いやね、あれから大変でしたよ。裁判とか。こっちは無罪だって、明確な証拠だってないって言ってるのに、刑事さんが聞く耳持たずに逮捕したりするから。無事に無罪を勝ち取ったからいいものの、まったく長いこと時間を奪われて最悪の気分ですよ」
「……」
「なんです怖い顔して? そんなに俺が気に入らないんですか? 間違えたのは刑事さんなのに、非を認めることも出来ないんですかね? ほら、言うことあるんじゃないですか? ていうか、ここまで言われないとわからないんですか?」
「……」
かえでは下唇を千切れんばかりに噛みしめていたが、やがて、
「……申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げた。その声音は納得いかないというものではあったが。
男は愉快そうに口端を歪め、不快感を与える笑みを見せた。
「そうそう。最初からそれでいいんですよ。まあ別に俺はガキじゃないんで、全然怒ってませんけどねえ」
「……」
「さて、もう行きますわ。俺はアンタらと違って暇じゃないんでね」
背を向け、さっさと立ち去ろうとする男。
頭に血が上った様子のかえでが彼を追おうとする。しかし草野はその肩を掴み、黙って首を横に振った。静かに、時間をかけて、かえでは再び草野の隣に座る。草野の弁当はもう放置されていた。
「……ごめんなさい。せんぱい」
「いや僕は別に。それより、今のは?」
「彼の名は飯室。わたしが殺人容疑で逮捕した男です」
「でもなんか……そう、誤認逮捕されたような言い草だったけど」
悔しげにしていたかえでは、今度は俯く。
「……はい。裁判でそう判決が言い渡されたらしくて……確かに元々、証拠不十分なところはあったんですけど……」
かえでは頭を振る。草野の目を真っ直ぐ射抜く。
「でもおかしいんです! あの事件は絶対に彼以外犯人であることはありえなくて! 遺族の方も、捜査に関わった人達も、みんな同じ見解なのに! なのに、証拠が足りないから無罪だって……裁判で、そう……決まってしまって……」
「……そっか」
激情も尻すぼみ。無念と悲嘆とが混在し、己の力不足を責めている。そんな風。
「わたし、わかるんです。絶対に彼が犯人だって。直感っていうか、罪の匂いがするっていうか。でもそんなの、証拠にはなりませんし……」
ついには大粒の涙を溢れさせ、草野に縋った。
「わたし悔しいです! なんの罪もない被害者ばかり不幸にさせられて、日陰に追いやられて! なのに罪を犯した人が無罪放免で堂々と外を歩いていいなんて! そんなの間違ってます! でも、でも!」
「……うん」
そうしてしばらくの間、かえでは泣き続けた。
人知れず、草野の携帯に一通のメールが届いていた。
深夜。眠らぬ国からほとんどの灯りが消える頃。
一人の男がコンビニ袋片手に歩いていた。鼻歌混じり。眠気の起きない深夜にふらりとコンビニに出かけ、健康を害するカップ麺を買い、静寂の中を帰る。それは、最も日常的で最も大きな平和。目まぐるしい日々をふと立ち止まってさえ気づけぬほど当たり前の、愛すべき日常。
それを、飯室という男は心置きなく謳歌していた。
と、彼の自宅であるアパート前に、人影があった。暗がりで誰かを待つように、塀にもたれている。それが、待っていたと言わんばかりに声を発した。
「飯室だな」
「あ……?」
低い声に、飯室がにわかに殺気立つ。
不審者と相対した際、防衛反応として二つのパターンがある。一つは自衛としての逃避。もう一つは攻撃。一般的に言ってまず前者が選択されることが多いが、飯室という男は、迷うことなく後者を選ぶ男だった。
「何か用かよ」
「昼間とは違って、ずいぶん口汚いんだな」
「昼間……? ハ、まぁそりゃそうだろうよ」
コンビニ袋を置き、両手を自由にする。
「単刀直入に聞こう。お前が裁判にかけられた事件、あれの犯人はお前だな」
通常イエスと答えるはずのない問いに対し、しかし飯室は平然と首を縦に振る。
「ああ、そうだ。でもだからどうだって? もう俺は無罪になった。今さらわかったところで意味ねえんだよ」
「そうだな。一度無罪が確定した場合、同じ罪で再び裁かれることはない」
飯室はにやりと笑う。
日本において、同じ罪で二度裁きを受けることはない。つまり、既に無罪の判決を受けた飯室は、今後どれだけ証拠が出てきて訴えを起こされようと、裁判にすらならない。
太陽の下を、大手を振って堂々と歩くことが出来る。
「これもあのバカな刑事のおかげだぜ。証拠も集まってねえのに、焦って逮捕なんかするからよぉ!」
「その通りだ。彼女は直情的すぎる」
「だろ? で、アンタはなんだ? 罪に問われなかった俺に復讐でもするのか? ハハ、いい歳こいて正義の味方ヅラとは恥ずかしいな!」
それが、
「ああ、まったくだ」
飯室の最期の言葉だった。
サイレンサーを備えたオートマチックが、飯室の額を撃ち抜く。物言わぬ肉塊と化した男は、大の字に横たわった。醜い死体を、鮮血は鮮やかに彩る。街灯が、スポットライトのように死人を照らしていた。
飯室を殺した男がスポットライトの内へ。開いた死体の口元に頬を寄せを、息がないことを確認する。そして、季節外れの厚着の下から携帯を取り出す。
「標的の沈黙を確認。条件クリア」
電話の向こうから短く何かが告げられ、それだけを確認した彼は電話を切った。
男――草野は苦しまずに逝った飯室の顔を見て、独り、呟いた。
「恥ずかしい話だが、罪を殺すのが仕事なんだ」
三日ほど経過した日の昼休み。
草野は制服姿のかえでと公園で遭遇し、彼女の話を聞いていた。言うまでもなく、今日もコンビニ弁当だ。
「やっぱりあの事件、飯室が犯人でした。凶器が発見されて」
「そうなんだ」
「でも、今さらです。飯室自身も、誰かに殺されちゃいましたし……」
草野は何食わぬ顔で弁当を咀嚼する。
浮かない顔のかえでは話を続けた。
「なんか……モヤモヤします。そりゃ、人の命を奪った飯室は許せないですけど……だからこそ真っ当に、人としてのやり方で罪を償わせるべきなんじゃないかって、そう思うんです。殺してしまうというのは……上手く言えないですけど、なんか違うなって」
「まぁ、それじゃ彼と同じだからね。褒められちゃいけないことだよ」
「せんぱい……」
希望を宿して草野を見たかえでの目が、一瞬見開かれた。それから何かを振り払うように、勢いよく頭を振る。両の掌で自身の頬を叩く。
「どうしたの?」
「最近ちょっと疲れてるみたいで。罪の匂いみたいなのが、せんぱいから感じられちゃって」
「えぇ!? 勘弁してよ……」
「あはは、そんなわけないですよね」
「早く寝た方がいいよ。お肌にも悪いらしいからね」
「そうします」
和やかな空気になったところで、草野の目に飛び込んでくるのは焦燥すべき時刻を示す時計。
「うわ、早く戻らないと怒られる! ごめんかえでちゃん、僕もう行くね! これ食べていいから!」
「あ、はーい。お気をつけて」
「またね!」
口早に礼を告げ、草野は駆け出す。
しかし、
「せんぱい!」
尋常ならざる声に引き止められ、歩を止めた。振り返る先にあったのは、今にも不安に潰されそうなかえでの顔。胸の前で握ったこぶしを震わせ、揺れる声音でおそるおそる問う。
「……信じて、いいんですよね?」
彼女の抱える不安に、草野はただ、影のない笑顔で応じた。
「もちろん」
一通のメールが、彼の携帯に届いていた。
もう少し海外ドラマっぽくしたかったんですが、かなり日本ぽい感じに。厨二かっこいいを作るのってかなり難しいですね。




