第百六十五話 否定された全て
ヌアダの放つ拳が漆黒の翼を折りたたんだドレスを弾き飛ばす。
翼がもげて、その純白の体を晒したビナーに、容赦なく青白い光を纏った拳が打ち付けられた。
目も鼻も口もないビナーの顔が苦痛に歪む。
純白の腹に拳がめり込み柔らかな肉がグシャリと押しつぶされる。
自身に襲い掛かって来る存在。それは、ビナーの心を嘆きから怒りに変えるのに十分な要素だ。
ビナーの表情が怒りの表情へと変わり。
殴りかかって来るヌアダを頭の翼で追い払う。
翼がヌアダの顔を掠め、真横に振りぬかれた翼が暴風を巻き起こしながら二人を分かつ壁を生み出した。
「くッ!」
ヌアダが腕を交差させながら風を凌ぐ。
予想はしていたが一撃では沈まない。
ヌアダの長い生の時間の中で四聖獣と対峙したことはこれが初めてではないが、討伐を試みたことはない。
それはなぜか?
ヌアダがしなくとも黒の異端者が必ず現れて殺していくからだ。
だが、今回は違う。
今回はそれを許してはならない。今、現れている黒の異端者はアズラの召喚した黒い天使だ。
黒い天使がビナーを殺すことは、アズラがリーベを殺すことに等しい。
そんな残酷なことをさせる訳にはいかない。
愛する者に殺されるなど聖女と四聖獣への転生を繰り返す神話の存在でさえ一度たりともない出来事。
万が一起きてしまえばどんな事が起こるか見当も付かない。
理屈を付ければヌアダがビナーを殺そうとする理由はこれだ。
だけども、ノネがその罪を感じた様に。
ヌアダも分かっている。
こうなる原因を生み出したのは自分たちだと。それを悔いて立ち止まることはもう許されない。
だから、代わりに罰を受け入れよう。
許しを踏み潰して。
血濡れたその手で罰を握り締め、己が望みへとひた走るのだ。
ヌアダの腕に光の波紋が収束していく。先ほどよりも強大な一撃をその手に込めていく。
先ほどの邪魔はもう入らない。ゼヴが駆け付けた者たちを全て引き受けているのだから。
その隙に、光の波紋を束ねた腕を構える。
構えた先には折れた翼から赤い血を流しながら、泣きじゃくる仕草をしているビナーがいる。
怒りよりも悲しみが大きい。
目の前のヌアダよりも、セトとルフタを失った悲しみの方が大きいから。
本当に小さな女の子が泣く様に見えてくる。
一人になってしまったと悲しむ子供の様に見える。
それは好機だ。
この最大の好機をヌアダは逃さない。
悲しみがビナーから絶対という神話の力を奪っているのなら。
それは、神でない存在の手が届くということ。
拳が握り締められ、翼が羽ばたき。
一直線に迷い無く拳が打ち込まれた。
空間が波打ち、拳から発生するようにビナーに向かって広がる。
「許せとは言わない、恨んでくれていい。代わり約束しよう。神も人も、恐れなくてもいい世界を手に入れると」
それがヌアダが二人に送った言葉。
アズラとリーベの二人に捧げた誓い。
そして、誓いを立てるための生贄としてビナーの命が。
捧げられた。
「ーーッ・・・ーー・・・」
毟り取られるように胸に大穴が空き、一瞬の断末魔を上げる。
神話の断末魔。
一人の聖女の終焉。
リーベという少女の死。
それが無慈悲に訪れる。
バティルたちの目の前で地面へと崩れ落ちていくビナーの姿。
それは、黒い悪魔に翼を引き千切られ血を流しながら墜ちていく白い天使。
神の使いが地面に叩き付けられる。
砂煙が舞い、差し込む朝日の光がビナーを照らす。
漆黒のドレスをはぎ取られ、血と純白の肌を晒す少女の形をした肉体が、黄金色に輝いていく。
陽の光に照らされながら、青白い光がビナーを包んでいった。
神話の存在が消えていく。
鼓動はもう聞こえない。
純白の肌から命の色が剥げ落ちる。
本当に彼女が消えていく・・・。
ビナーの死を感じたからか、暴走する黒い天使が動きを止める。
今までの暴れようが嘘のようにピクリとも動かなくなった。
押さえつけていたコクマーが細心の注意を払いながら手を放す。
もう、意識がないのか機能が停止したのか反応がない事を確認したノネは、フゥと息を吐いて胸を撫で下ろした。
「終わった・・・」
ノネの言葉にヌアダが頷く。
「ああ、終わった」
ノネの隣にヌアダが降りてくるが、その顔には疲労の色が見える。
ビナーを倒すのにかなりのエネルギーを使ったようだ。
戦いが終わったことでゼヴも撤退を開始する。
だが、それでバティルたちが納得できるはずがない。
「待てッ!」
バティルが大剣を突き付ける。
その目には怒りが灯っていた。リーベを殺された怒りだ。
突き付けられる怒りに、ゼヴは嬉しそうに顔を振り向かせ。
「ヌハハハハハハ!! その怒り、次に見える時まで取っておけッ!! このゼヴが必ず叩き潰してやろう!!」
それはもはや勝利宣告。
大剣を突き付けるバティルは叫ぶのみで攻撃を仕掛けれなかった。
もう、状況が語っている。自分たちは負けたのだと。
バティルたちの前からゼヴが去っていく。
森羅が状況の変化に従いバティルに剣を収めることを進言する。
「バティル殿、ここは耐えましょう。今は生き残った者たちを救出するのが最優先です」
「ぐぅッ・・・ああ、そうだな」
バティルが悔しさを滲ませた声を出しながらも森羅の意見に賛同し大剣を下げた。
今ここで戦っても何にもならない。
誰かが蘇る訳でもない。
状況は覆る訳でもない。
バティルは片膝を付いて地面に座り込む。そして、倒れ伏したビナーを見た。
胸に大穴を空けて倒れるその姿は、まさに自分たちの敗北を象徴するに相応しい光景。
青白い光に包まれながら、指先や残った翼の先端から少しづつ消滅していっている。
ビナーの体が青白い光の粒子となって、霧散して消えていく。
周囲へと広がっていくその光は幻想的で、とても悲しい光景に見える。
その光の粒の一つがバティルの手の平に落ちた。
リーベの形見を握るように手を閉じる。
光は温かった。
温かい。
光の粒からリーベを感じれそうに思える。
その光の粒は、ルフタの亡骸の前で泣き崩れるエリウの下にも降ってくる。
もう涙も出ないほど泣いて。
目の前の現実を見ることが出来ずに蹲るエリウの顔の側に、光の粒が漂う。
それを見たエリウは無造作に光の粒を手の平で覆い頬に寄せた。
温かい。
光が温かく励ましてくれる。ポロポロとまた涙が零れてくる。
その温かさが誰のモノかを知ってエリウは涙を流す。
その光の粒は。
意識を失っているハンサにも。
ファルシュに敗れ瀕死の重傷を負っているランツェにも。
降り注ぐ。
光の粒が森羅とアズラにも降り注ぐ。
ゆっくりと振ってきた光の粒を。
森羅は避けた。
そして、アズラに降り注いだ光の粒は。
黒い天使が一つ残さず黒い魔力で食らい尽した。
威嚇するように、唸るように黒い天使の目が赤く光る。
光の粒が降り注ぐその光景をノネは少し驚きながらも、これがそうなのかとヌアダに尋ねる。
「ヌアダ・・・これが・・・そうなのかな」
「そうだ。これが四聖獣の転生。かつての自分を消去する工程といった所か」
降り注ぐ光の粒を眺めながらヌアダは、四聖獣のかつての転生の瞬間を見た記憶を思い出していた。
それは、大切な人が死にセフィラとなって残った人たちを皆殺しにして消滅する四聖獣の姿。
かつての自分を消去するとは、かつての自分を良く知る者たちを消去することも含まれる。
大切な家族。友人。恩人。その全てを。
まるで転生してくる新しい聖女の邪魔にならないように、前の聖女に係わる存在を消し去っているような作業。
しかし、今回はそうなる前に四聖獣を討伐した。
それは、永遠に続く転生という輪廻の中で一石を投じる変化となるかも知れない。
かつての聖女が愛した人たちが残った世界に、新たな聖女が生まれること。
記憶が無くなり、全てを忘れたとしても。
その魂は同じであるはず。
ならば、かつての聖女も新しい聖女もリーベという一人の少女と定義できないか。
記憶を失っただけで、別の存在になった訳ではないのではないか。
ヌアダは、そんな希望的観測を行う。
それが残された者にとって救いとなることを願った。
光の粒がヌアダの近くで光り輝いていく。
温かい。
リーベが側にいるようだ。
ヌアダが優しく光を撫でてやる。
すると光の粒に触れた者たちの心に何かが響いた。
「・・・・・・!?」
その何かは、訴える。
(・・・・・・・・・ィヤ)
か細い声で想いを伝える。
(・・・みんなと離れたくない)
リーベの声がみんなに響く。
(一緒にいたい!)
声がハッキリと心に響いてきた。光に触れた全員がハッと顔を上げた。
間違いない。
この声はリーベだ。彼女の声だ。
心に響く声にエリウが空に手を伸ばす。降り注ぐこの光にリーベがいる。
バティルも拳を胸に当てリーベの思いを受け止める。
意識を失っていたハンサとランツェも目を開き、リーベの声をしっかりと聞いた。
変化している。
転生が始まっているのにリーベの意識が残っている。
この場にいる者だけでなく、リーベを知る全ての人がその温かさを感じていく。
フローラたちも、ラバンとシャホルも。
ベスタ公国にいるリーリエたちも感じた。
信じられないとヌアダが驚きの声を上げる。
「これは・・・聖女の意志? 魂神の定めた秩序に逆らうというのか」
リーベの諦めない心。
その力強さにコクマーとなったハーザクも嬉しさが込み上げてくる。
もう諦めるしかないと思っていたのに、希望が見えてきたのだから。
希望が集まる。それがビナーの下へと集結していく。
彼女の存在を再構築できる想いが集まる。
それを。
それを。
「それを・・・異神が許すはずがありません・・・」
森羅が空を見上げながら呟いた。
その言葉と同時に、黒い天使が獣のような挙動で立ち上がり、想いを否定する闇を見せつける。
黒よりも黒い剣が振り上げられる。
「コクマーッ!!」
ノネが叫ぶ。
止める。救いまで否定する神話など必要ない。
そんなものは神話ではない!
灰色の巨体が黒い天使に突進し二体とも倒れ込んだ。
地面を揺らしながら黒い剣を握った右腕を押さえこむ。
黒い天使がその美しい姿からは信じられない獣のような挙動で暴れ狂っていく。
だが、コクマーは冷静に抑え込む。腕を曲げ関節を固めて完全に地面へと押さえこんだ。
「そのまま! ビナーに手を出させないで!」
ノネがもう何も出来ないように全ての力を注ぎ込む。
これで。
「!?」
危機は去ったと思った。
しかし、ヌアダが顔を上げた。空の彼方、遥か先を睨む。
いる。
そこに、ここへ来なければおかしい存在が強大なエネルギーを放出しながら、こちらを狙っている姿が。
ヌアダの目にハッキリとその姿が映り込む。
身長は5mはあるだろう。
骨に甲冑を貼り付けたような外観で、黒い体に赤いラインが奔り細く女性的体格を感じさせる。
背中には長い突起が左右対称に生えており、そこから大きな黒い翼を広げ。中央には赤いリング状の発光体が浮かび上がっていた。
黒の異端者アニマ。
四聖獣を殺す存在。
その手には黒い弓が握られており、赤い矢が。
打ち放たれた。
極太の否定が、頭上から迫って来る。
黒い天使に気を取られてしまった。
ヌアダが迫りくる一撃を逸らそうと、光の波動を手の平に浮かべる。
僅かでもいい、攻撃が逸れればビナーの転生は成功する。
それは神話から解放されるための一歩となり得る。
青白い光球を空に向けて打ち放つ。
一直線に飛ぶ光球。
一瞬で手の平から離れ、赤い矢に届く瞬間。
撃ち落とされた。
光球が霧散し光を散らす。
ヌアダがその攻撃の主へと振り返る。
目線の先にいたのは。
森羅だ。
その手に、銀色の拳銃の形をした魔装。
完全魔装・観測者
を構えながら、ヌアダの攻撃を相殺してみせる。
その魔装を。強さを見てヌアダが叫んだ。
「貴様何者だ!? その魔装は三天人のみが扱える武器。何故貴様が持っている!」
皆の視線が集まる。エリウやバティルたちは状況の変化に付いていけてない。
だが、森羅がその流れを変えてしまうことをしたのは分かる。
森羅が答える。
「これを扱えるのが三天人のみならば、答えは出ていますよ。天主国アマテラスの守護三天人の一人、王守・森羅。それが私です」
その回答と共に赤い矢がビナーへと打ち込まれた。
希望も奇跡も否定する赤い球状の光が全てを包み。
「異神は魂神の変化を許しません。だから、今はダメなのです。分かってください」
森羅の声が赤い否定の中で最後まで響いていた。
第六章終了です