第百四十六話 状況は悪化の一途をたどり
黒い穴の檻。
それは世界から観測される可能性を。干渉できる可能性を奪いつくした所。
黒い穴の中からは、外の世界に対して絶対に干渉できない無の領域。
振動も。音も。光も。全て。
全ての可能性が外に伝わらない牢獄だ。
ここに放り込まれた者は世界から観測されず、徐々に存在を失っていく。
自分の声を忘れ、顔を忘れ、身体の形を忘れ、記憶も忘れていく。
人であったことも生命であったこともあやふやになって、消えていくのだ。
それが外側からこじ開けられる。
黒い穴を維持する術式から血の可能性が掌握され、そこから世界の色が穴の中に注ぎ込まれる。
鮮やかな血の色がたっぷりと。
「ウフフ・・・こーれで、寝坊助さんも起きるよねー」
久々に会うのが楽しみでウキウキが止まらない。
小刻みにリズムを取りながらシャホルは牢獄の中にいる人物が出てくるのを待っている。
待っているのだが。
「フフフ・・・。・・・・フフ? あーれ? 出ーてこないぞー?」
黒い穴に開けた隙間が小さすぎたのかと、大の大人が立って通れるぐらいに隙間を力任せに広げた。
外の光が隙間に差し込み、牢の中の様子が照らし出されていく。
それでも出てこない。
待ちきれなくなったシャホルが中へと入っていき見回してみる。
牢の中は思った以上に広かった。
外からは黒い穴にしか見えないが、中には拘束するための鎖を付けた支柱が等間隔で並んでいた。
拘束する人物の力を奪う術式で構成された鎖。これも黒い穴と同種の物だ。
注ぎ込んだ血で赤く汚れたその鎖をひょいひょいと避けながら、内部の中心に近づいていく。
「あー、いたー! ファルシュ迎えに来たよー」
ようやく、お目当ての人物を見つけた。
シャホルが小走りで近寄っていく。
ファルシュ・ニヒリズム・モーン。
かつて王都で王位継承者斬殺事件を引き起こした犯人であり、シュピーゲル王の暗殺を企てた逆族。
そして、シャホルたちが属するアーデリ王国の騎士の一人。
彼の計画はセトたちによって打ち砕かれ、この黒い穴にアズラとライブラ王子の手で放り込まれていたのだ。
その彼をようやく助けることができたとシャホルが喜びながら話かける。
「ファルシュー。もーう寝んねの時間は終わりだよー。ファルシュー?」
「・・・ッ・・・・・・」
「なーに? 聞こえなーい」
床に溜まった血で赤く汚れているせいか顔が見えないが、この気配はファルシュだ。
いつもの彼なら偉そうに術式の話を勝手に初めて長々と語り出すのだが。
さすがの彼も王宮術式に囚われて堪えてしまったのか、もぞりと動くだけだ。
「ファルシュ? どーしたの?」
一向に起き上がらないのを見て不審に思ったシャホルがファルシュを片手でつまんで持ち上げた。
すると、ドババ・・・と勢いよく血色の悪い塊が転がり落ちていく。
そして、強烈に漂い始める悪臭。
思わず鼻をつまんで顔をしかめる。
「くさーい!? ヤーダ腐ってるー! ファルシュがお陀仏になっちゃったよー」
腹から臓物が腐り落ちていた。
よく見ると足はやせ細りミイラのようになっている。腕は腐敗が進み筋肉がただれ出ていた。
彼のミイラのような顔は、本当にミイラと変わらない状態に変わり果て、鼻と唇、頬の肉も腐りきって無くなっている。
眼球も左側が破裂していた。
まだ、生きているのは奇跡だろう。
死にかけている彼を世界が観測しないから、生が長引いているだけだ。
そんなファルシュを見て、来るのが遅かったかとシャホルが手を放し早々に去ろうとする。
だが、ガシッと彼女の足首を腐りかけの手が掴み引き留める。
「・・・ッ・・・ヵ・・・ぉ」
「ヤーダあり得ないしー汚いしー。ファルシュ放してー」
「・・・チ・・・ヵ・・・っ、・・・ら」
か細い、虫の息が、声が言葉を紡ぐ。
憎悪に満ちた声が、復讐を語る。
それをシャホルはニヤリと笑って聞き届けた。頬が吊り上がり邪悪で恍惚とした笑みを浮かべながら。
彼からにじみ出てくるそれを。
憎悪を愛でていく。
「いーいよ。ファルシュ頑張り屋さんだから助けてあげるー。でもー、ほとんど腐っちゃってるから、ちゃんと元に戻るか分かんないよー?」
「・・・ッ・・・」
「ウフフ・・・ファルシュとってもいーい子。もっと、もっーとその気持ちをわたしに見せて・・・」
シャホルの目が血に染まっていき口を開いていく。
大きく、大きく開いて、牙を見せ。
そして。
ゾブリッ。
腐敗した憎悪を愛でる。
それは愛おしく、愛撫でもするかのように咀嚼していく。
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上層区画のあちこちから呻き声と破壊音が聞こえていた。
呻き声の主は人と亜人に迫り、その歪で大きな口を持って丸呑みにしてくる。
人々の悲鳴が上がり続け、理性を失い暴走する亜人たちは食われることも厭わずにその怪物を殴りつけていた。
拒絶のシェリダー誕生と同時に発生した魔獣クリファの群れ。
それがフローラたちのいる塔の中に入ろうと扉に襲い掛かっていた。
「押さえろ!! 一歩も引くな!!」
「味方は!? 外にいた奴らはどうなった!? 食われちまったのか!」
騎士たちが声を上げながら入口を押さえつけている。
周りから集めてきたガラクタを扉に押し当てバリケードを作っているがそう長くはもたないだろう。
塔の下。下層に通じる出口には暴れ狂う亜人たちがのさばっている。
フローラたちは完全に閉じ込められたのだ。
「このままでは・・・なんとかしないといけないですの」
「でも、どうやって? わたくしたちはこの塔に閉じ込められたのよ」
フローラたちは上層から避難しようと下層を目指していたのだが、状況は悪化の一途を辿っていた。
騎士たちが亜人を追い払い人々を塔に避難させていた時、魔獣クリファたちが突如として押し寄せて来たのだ。
人を食らい、殺し。さらに殺された人が新たなクリファとなって襲い掛かる。ネズミ算式に増えていく敵についに騎士たちが押し切られ塔の中に立てこもる結果となった。
下層への出口一帯の安全を確保できればいいのだが、出口は暴走する亜人たちで溢れかえっている。
その数は何かに引き寄せられるかのように増すばかりだ。
うかつに外に出て気付かれでもしたら塔の中に雪崩れ込んでくるだろう。
そうなればフローラたちはお終いだ。
剣の騎士団と術導機を一機連れた盾の騎士団。そして騎士団統一戦参加者のハンサ。
戦えるメンバーはいるが、圧倒的な数の差がフローラたちを追い詰めていく。
そんな状況の中、怪我をした人々を助けて回る小汚いローブを被った少年が一人いた。
「大丈夫ですか? 怪我を見せてください」
「おお・・・ありがとう坊や」
この少年は、ライブラ王子だ。
塔に入る前、盾の騎士団に足止めされた時にライブラは慌ててこの小汚いローブで顔を隠したのだ。
それは、盾の騎士団がタウラス第一王子直轄の騎士団であることが理由となる。
今、カラグヴァナはタウラス第一王子に逆らう勢力の重要人物が宮廷で皆殺しにされた状態。タウラス一強の状態になっている。
殺したのはカラグヴァナの敵勢力だとしても、それを積極的に利用しているのはタウラスだ。
彼の配下の者たちに正体がバレるのは不味い。
ライブラも王位継承権が低いとはいえ王族の一人。
タウラスにとっては鬱陶しい存在なのだから。
正体を隠したまま手当てを続けているとハンサが隣にやってきた。
癒呪術式を多用したせいで疲労が溜まっているライブラをヒョイっと抱き上げる。
「わわっ! 僕、自分で歩けるよ」
「ン~! 強がっちゃって。かわいいんだから~」
「わわわ」
かわいい奴めとほっぺをぐりぐりと押し付けて頬ずりしまくるハンサに、抱きかかえられされるがままのライブラ。
小柄なライブラのその困った様子は、怪我をした人々に微笑ましい光景を見せていく。
塔に閉じ込められた状況でも、ほんのひと時の笑顔が戻る。
ライブラを連れ帰ってきたハンサとフローラたちが、この状況をどう打開するか向かい合って座りながら考え始めた。
フローラの膝の上ではリーベが横になっている。心配そうにイェホバ・エロヒムがフローラの後ろから覗き込んでいるが、まだ大丈夫だろう。
「ハンサ、貴方の魔装で道を開けないの?」
「んー、ちょっと無理ですお姫様。あたしの魔装にも限界はありますから」
「でも、このまま立てこもっていてもダメですよね?」
二つの大きな丘を頭に乗せながらライブラが答える。喋るライブラを可愛いとハンサが抱きしめて離さない。
一見ふざけているようにしか見えないハンサの行動だが、暴力に支配されつつある状況の中で無理をしてしまうライブラを引き留めるのに絶大な効果を発揮していた。
人々を助けるんだと頭の中がいっぱいになってしまっているライブラの気を誤魔化すには十分な行動だ。
フローラがその何気ない行動を適格だと評価してハンサを認めていく。
半分は本当に可愛いから抱きしめているのだが、それは秘密だ。
ハンサだって気を紛らわしたいのだ。
ライブラを抱きしめながらハンサが案を出してみる。
「やっぱり、下層に出るべきね。亜人たちがどれだけいるのか分からないのがネックだけど、あのクリファの群れよりマシそうだし」
「あの怪物を知っているのですか?」
フローラの問に頷くハンサ。
「ええ、ちょっとね。あの魔獣が出現したってことは、たぶんジグラットで何かが起きたんだと思う。塔に入る前に見えたバカでかい怪物がそうなのか、もっと別の何かがいるのか分からないけど・・・」
そう言ってハンサは視線を伏せた。
一瞬だけリーベを見る。
今の王都の状況は、帝国領ラガシュでの出来事に似ている。しかもより大規模で発生しているのだ。
もし、思っていることが正しいなら。
自分はどうすべきか。ハンサは悩んでいく。
(一人で救えるかな・・・、リーちゃんを狙う怪物たちにあたし勝てるかな?)
頭に浮かぶ、漆黒の翼を纏った身体に、頭からも大きな翼を生やた少女を思わせるセフィラ。
四聖獣ビナー。
そして。
骨に甲冑を貼り付けたような外観に、女性の体格をイメージする黒い体には赤いラインが奔っている黒い巨人。
黒の異端者アニマ。
あの時の記憶が鮮明に頭に浮かぶ。
ハンサがライブラを放し、立ち上がった。
「よし、騎士団も呼んで下層への道を開こう!」
「やっぱりそうなるのですの」
リーベをイェホバ・エロヒムに預け、フローラたちも立ち上がる。
そして、騎士たちの所に向かい突破口をこじ開ける案を出す。だが、案を聞いた騎士たちの反応は鈍い。
「話は理解できるが、この戦力で、しかも守りながらは至難の業だ・・・」
「怪我人を見捨てるのなら、まだ確立はマシになりますが、それはイヤなのですよね?」
騎士たちがフローラたちの考えをすぐさまくみ取っていく。
何を失いたくないのかまで正確に。
「ご指摘の通りですわ。それでも、やらなければなりませんですの。臣民を見捨てて生き残るなどわたくしには出来ませんわ」
フローラの力強い言葉。
だが、思いだけでは騎士は動かない。
生死の掛かったこの状況。おいそれと判断を出せるはずがない。
「一つ、考えがあるんだけどいい?」
「何でしょうかハンサ様」
「様は付けないで。あたしはただのハンサだから。それで、考えっていうのは、あたしの魔装で術導機を強化するというものなんだけど、この術導機はそういう使い方できる?」
「可能です。魔装との相性はありますが術導機は複合的な術式の塊。ハンサ・・・殿ほどの術式の腕ならば術導機そのものを魔装化できるはずです」
ハンサの提案した術導機の強化案。
確かに一体で100人の騎士を相手にできると言われる術導機なら強化次第でこの状況を打破できるかもしれない。
「行ける・・・。行けるぞ! 全ての亜人を相手にする必要はない。我々が守りに徹して」
「あたしが攻撃に専念すれば」
「「「道は開ける!」」」
活路が見えた。
すぐに人々を呼び集め、下層に向かう準備を始める。
後は時間との闘いだ。亜人たちを退けて道を開く前に、クリファたちが塔に入ってきたら確実に全滅する。
クリファたちを防いでいる扉は長くはもたない。
「今から下層に向かいますの! 決してわたくしたちから離れないでください!」
フローラの声と共に塔の階段を下りていく人々。
臣民が全員降りた後、殿を務めていた騎士たちがクリファを抑えるのやめこちらに合流する。
騎士たちが合流する頃には道を確保していなければならない。
長い螺旋階段を下り、下層への出口が見えてきた。
扉は壊れ、配置されていた騎士の部隊が全滅しているのが見える。
そして。
塔の中に入り込んでいた亜人がフローラたちに気付いた。
「ガァァァアア!!」
唸り声を上げ、凄まじい速さで走って来る。
「公女様は後ろへハンサ殿!」
「分かってるわ!」
ハンサが術導機の上に乗り魔装を構成した。
自分だけでなく術導機そのものを魔装で覆うように、その規模を拡大していく。
迫る亜人に騎士たちが剣を抜いて斬り掛かった。亜人が一人ならまだ対処できる。
だが、塔内部に雪崩れ込んできた数十という亜人たちがこちらを見上げた。
「く、来るぞ!」
さらに塔の上。上層区画へ向かうフロアから轟音と共に騎士たちの叫び声と人ではない者の気配が聞こえる。
扉をぶち破り、魔獣クリファたちが塔の中に入り込んでくる。
「そんな! もう!?」
ライブラが驚愕の声を上げた。
そこに、魔装を纏ったハンサが。
「お待たせ! この子の名前は?」
「クリンゲ・十五式だ」
「じゃあ、クリ天ちゃんだね。いくわよクリ天ちゃん!」
鮮やかな緑の鎧。空を駆けるための3対の翼。
魔装・天装翼を追加装備した術導機。
ハンサ命名の。
クリ天。
両腕の巨大な槍と人を記号化し鎧を着せたようなその姿に、ピッタリな緑の鎧を付け足す。
背中には槍に負けないほど巨大な3対の翼。緑の装甲が術導機を全くの別物へと引き上げる。
クリ天と共にハンサがひしめき合う亜人たちの中へと飛び込んだ。