百三十三話 崩壊の始まり
契約が決定付けられる。
誰にも遮られること無く、止めさせることもなく、糾弾させもしない。
その者、ディオニュシオス教皇との契約は絶対だ。世界最大宗教の意思決定者とは、すなわち世界の意思決定者。
彼に逆らうことは世界に逆らうことと等しい。
世界を敵に回すことに等しい。
全世界のツァラトゥストラ教信徒に命を狙われることになるのだ。ある国の臣民に、貴族、そして王に。教皇の敵は、ツァラトゥストラ教を信仰する国に取っての敵。
教皇の一声で、王の命令で、兵の剣が命を奪いに来る。
それは、ツァラトゥストラ教信徒だけの話ではない。ツァラトゥストラ教が最大宗教なら、自分の母が、父が、そして恋人も、果ては子供たちでさえ、きっと泣きながら自分を兵士たちに引き渡すのだろう。
それが、そんな未来が今この場で異議を唱えようものなら現実になりかねない。
宮廷に集められた貴族や王族たちが口を紡ぎ、ただただ事の成り行きを見守るしかなかった。
その中でも。
怒りに身を震わせ、愛娘に抑えられなければ怒号を飛ばしそうになっているウィリアムの姿があった。
拳を握りつぶし、手から血がポタポタと流れ落ち綺麗な純白の床を汚していく。
その赤と同じように彼の目は怒りで真っ赤に染まっていた。
許せない。
目の前にいる奴が許せない。
カラグヴァナを教皇如きに売り渡したことが断じて許せない!
もうフローラが身を挺して抑えるのも限界だ。
ウィリアムの近衛騎士たちが万が一に備え始める。
近衛隊長のベシャイデンが一度だけ、部下たちに目配せをする。万が一の場合はウィリアムとフローラを死守せよとの命令。
近衛騎士たちは自分たちの他誰にも悟られないように戦闘態勢に移行していった。
そんな、完全に怒りに呑まれてしまったベスタを横目に見ながらシアリーズは静かに思案する。
答えはまだ出ない。
答えを出せない彼女を置いて事態はさらに進んでいく。
「カラグヴァナの者たちは礼儀を知らないのでしょうか。猊下の前である。膝を着け」
教皇を守る殲滅神官たちが道を開けその間より、一人の神官が出てきた。
腰まで伸びる長い白髪、女性と見違えるほどの白い肌と美貌を持ち、白に赤が追加された神官服を着た男。
ヴェヒター・デカダンス・ホーエンツォレルン。
神官ヴェヒターが眼下にいる全ての者に告げる。膝を着き立場を認識しろと。
その強い言葉に狼狽えていく貴族と王族たち。
その中で。
「ほっほ。お言葉のままに」
真っ先に跪いたのはガスパリスだった。
四大公爵家の一角が早々に屈服する。その姿に貴族たちが次々と後に続いていった。
「ぐぅぅぅ! ぐぬぅ・・・!」
その行為の意味を理解しているのかお前たちは! とウィリアムの目が告げている。
それは売国行為だ。
今、目の前にいるのはツァラトゥストラ教の傀儡となった第一王子と、それを操る教皇。
それに跪くということは自分たちの主君は、シュピーゲル王ではなくディオニュシオス教皇だと認めるということ。
それを分かっているのかとウィリアムから怒りが溢れていく。
「父上! ダメですの! ここで手を出してはベスタ家の未来が!」
悲痛なフローラの叫びが広間に響き渡る。その声はもう勝敗を決定する笛の音にも似た感覚。
その声を勝利の音色として聞きながら、タウラス第一王子が立ち上がり未だ態度を決めあぐねている王族たちに問う。
「何を躊躇っている? 我がカラグヴァナもツァラトゥストラ教を国教とし我らの信じるべき道として精神の根幹に根付いている。そして。王位継承権第一位の私が、光栄にも猊下に祝福され王位を継ぐ。カラグヴァナの者としてこれほど名誉な事は無い。なのに何を躊躇う必要がある?」
タウラスの問に誰も答えられない。それに答えるのは異議を申し立てたと捉えられかねないからだ。
皆が自分に問いかけるなと目を逸らす。
関わりたくない。ここで起きたことの責任を取りたくないと王族たちが目を、耳を、口を塞いでいく。
それは沈黙という名の黙認。
「優れた皆に感謝する」
タウラスが、これでカラグヴァナで主要な権力を有する者への楔は打ち込んだと勝利を確信する。
後は対立派閥を抑え込み、元老院を掌握すれば戴冠式など執り行わなくても、自分が王だ。
そのために。
「一つ、よろしいでしょうか?」
次の指示を出すための準備をしていたタウラスの思考を遮る声。
その耳障りな女の声の主にタウラスが目を向ける。
「・・・ええ、もちろんですとも。シアリーズ嬢」
広間にいる全ての人の視線がシアリーズに注目した。なぜ、声を発したと、質問をしたと驚きの表情で溢れている。
皆が驚く中、自分なりに得た答えをシアリーズはただ静かに尋ねる。
「カラグヴァナを・・・、この国を、タウラス様とシュピーゲル陛下の二つに分かつ意味があるのでしょうか? それはカラグヴァナ王国本土の混乱を招くだけで事態の解決にはならないはず」
「私の話をお聞きにならなかったのですか。古いカラグヴァナは淘汰されるべきなのです。父上にはもうカラグヴァナを維持する力はない」
「その古いカラグヴァナには、貴方も、・・・タウラス様も含まれるのではないでしょうか?」
「それは、どういうことだ?」
彼女に集まっていた視線が一斉に飛散した。自分は知らない。彼女など知りもしない。
自己保身に走った王族たちは、ただこのパーティーに飾られた置物と化す。
だけど、皆に見捨てられても彼女は続ける。
「今、この瞬間にも私の国、ケレス公国は滅亡の道へと向かっています。それは、タウラス様の仰る通り古いカラグヴァナである、わたくしのような無能者が招いた結果なのでしょう」
シアリーズの声が無関係を貫こうとする広間の沈黙に響き渡っていく。
彼女は思う。この沈黙は自分の意志を見せる機会だと。誰も邪魔をしてこない最高の舞台だと。
だから歌う。自分の意志を皆に届ける。
「では、タウラス様の仰る通りカラグヴァナが躓くこの時代で、自身の権力をその象徴である王位を無心する貴方は、淘汰されるべき者ではないと言えるのですか!」
「その発言は、私だけでなくこのタウラスを認めて下さった猊下をも侮辱していると分かっているのか?」
タウラスの語気が邪悪なものに変わり始めた。
シアリーズの発言を許さないと封じ込めに来る。
だけど。
シアリーズはまだ、歌う。声に意志を乗せて、その眼差しは彼女の強い心を映し出している。
「まさか、猊下のお言葉は全てに置いて尊重されるべきこと」
「ならば」
「ならば! 猊下に認められた王の資質をもって、古いカラグヴァナで迷い嘆くわたくしどもに道を示すべきです! 少なくとも、わたくしたちケレスの民はタウラス様の戴冠式など待ってはいられない」
シアリーズの意志が想いが弾ける。皆の心を叩いていく。
その通りだ。今、カラグヴァナは敵と戦っている。
自分たちはこんなことをしている場合ではない。
「私を認めないと?」
「タウラス様が王になるころには、ケレスという国はこの世に無いという事です」
シアリーズにとって仕えるべき主君が誰であろうと関係ない。
その主君がケレスを救ってくれるか。ただそれだけが彼女の知りたいこと。
タウラスが王になるか、ならないかなどどうでもいい。
彼を認めないことで、受ける偽善にも似た暴力もどうでもいい。
彼女にとっては国を救えなければ、死んだも同じなのだから。
だから聞く。
「タウラス様が、今この場で王になられたとして、それでケレスを救ってくださいますか? 守るべき民を救ってくださいますか?」
「・・・」
その問にタウラスは、答えることが出来なかった。
シアリーズはその沈黙を回答として受け取る。彼はケレスなど見てはいない。
見ていない者を王として認めることは出来ない。
「ケレスは・・・、タウラス王子の王位継承を・・・、認めません」
震える声で、告げた。
足に力が入らず倒れそうになる彼女を護衛の騎士が支える。顔は兜で見えないが大人げなく泣いているのがシアリーズには聞こえた。
そんな騎士を見て少し表情が綻ぶ。
自分が諦めなければケレスの民も諦めはしない。彼の涙はその証だ。彼らのためにも自分は立ち止まることなど出来ない。
シアリーズが自分の足に力を籠め自分の意志でタウラスの前にもう一度立つ。
その彼女の姿に、無関心を貫こうとした王族がざわついていく。四大公爵家の一角が反対を表明した。
そのことに、タウラスが王になることが決定付けられた運命が崩れていくのが皆の目に見えていく。
「わしもタウラス王子の王位継承を認めん! 認めて欲しくばケレスを救い、エウノミアとの紛争に終止符を打って見せろ!」
ベスタの援護が飛んで来た。
援護を出したのは怒りが収まり、冷静に事態を見据えるウィリアムだ。
彼を見たシアリーズの目にニコッと微笑むフローラが映る。
流れが変わる。
そうだ! カラグヴァナは権力に恐怖する矮小な国家ではない。
それをタウラスと教皇に見せつける。
シアリーズたちの意志が一つになり始める。
「・・・」
「・・・フッ」
タウラスは沈黙で。教皇は失笑で受け止めた。
シアリーズたちは少し思い違いをしていたかもしれない。
それは、ケレスを救うことは出来ないという意味ではない。
ケレスを見ていないという訳でもない。
タウラスの。そして、ディオニュシオス教皇の中でケレスの役割は決定していた。
決定している駒の意見など聞く価値があるだろうか?
ここでの王位継承は云わば楔。
そうここでの出来事が今後の全てに突き刺さる事実として利用するための、必要な儀式。
そして。
今、自分に逆らった者たちを。
根こそぎ。
敵だというエウノミアと。
・・・・・・ために。
宮廷が大きく揺れる。
パーティーに参加していた者たちが、上を見上げ様子を窺う。
そして、揺れが収まり切らぬうちに入口の扉が開いた。
入って来た者に対しディオニュシオス教皇は最大限の礼儀を持って、邪悪に微笑んで迎え入れる。
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森羅とアズラがリングに上がり最後の相手の前に並び立っていた。
騎士団統一戦の優勝者を決める最後の試合。バトルロイアル形式の4人による戦い。
勝ち残った、ケレスの風のスィームグルことバティルが、ヒギエアの近衛騎士ツィーレンが武器を構えていく。
アズラも最初から魔力を解放していき魔装を構築しながら。
「師範、ここで優勝したとしてそれが本当にベスタのためになるんでしょうか?」
「おや? アズラも騎士らしいことを考えるようになりましたね」
アズラの悩みに森羅が嬉しそうにする。彼女の悩みはベスタを想うからこそ出て来る悩み。
ただ、今はその悩みに答えを出している時間はない。
「アズラ、その悩みは忘れずに覚えておいて下さい。この試合が終わったら一緒に考えましょう」
「はい」
二人の戦闘準備が完了した。
闘技場のボルテージは最高潮に達しつつある。観客たちにとっては試合の形式などどうでもいいこと。
ただ、血沸き肉躍る試合が見たいのだ。
その欲を満たすかのように試合開始の笛が鳴った。
最後の試合を飾るように今まで以上の歓声が闘技場を包む。
ライブラ王子に用意してもらった席でセトたちがアズラと森羅を応援する。
「いよいよ最後の試合だね」
「アズ姉さんがんばれー!」
「それよりライブラ王子殿下が道に迷ってニャいか心配だニャ」
「まさか、エリウじゃないんだし・・・」
「ニャ!」
セトとエリウがいつも通りのやり取りをしながら、元気になったリーベがセトに抱っこしてもらいながら声援を飛ばす。
ランツェは無言だが、アズラたち二人をしっかりと見守っていた。
早々に敗退してしまった自分の分も含めて彼女たちに思いを乗せて応援していく。
アズラたちは敗退したセトとランツェの気持ちも背負っている。それは彼らが送る力だ。
そして、ルフタも試合が始まったリングを眺めていた。
繰り広げられるのは、遠距離攻撃によるアズラとツィーレンの術式と装着型術導機の撃ち合いと。
森羅とバティルの接近戦だ。
どちらとも、上位の戦いをしている。もう自分ではついていけないだろう。その中にアズラがいることがルフタにとって誇らしいことだ。
「頑張るんだぞアズラ。吾輩はお前さんに優勝して欲しいのであるからな」
ルフタはアズラを見守る。アプフェル商会の総括でアズラとセトの後見人のような立場だが、もう必要ないだろうとルフタは思う。
ここまで、立派な姿を見れば自分が守ってやらなくても大丈夫だと感じる。
そう、一緒に守り合える家族。
そんな関係。歳的に自分があっという間にお爺ちゃんになって、彼らの人生を見守る立場に移り変わるだろう。
それも遠くない日にだ。
「・・・こんなことを考えるとは、吾輩も年を取ったのである」
ふと顔を上げ視線を変えた。
こんな気持ちではアズラの試合をちゃんと見てやれない。気持ちを入れ替え視線を落とすと。
落とした先に、観客の中に。
彼女がいることにルフタは気付いた。
試合を見るでもなく。
ただ、こちらを見ている彼女に。
「師匠?」
それは紛れもなく、彼女。
ノネ・デカダンス・メーディウムだ。
薄いピンク色をした長髪で、美しいというよりは体が弱そうなほど、肌が白くその肌に、赤いラインを追加した白い神官服を着た彼女。
そのノネが笑っていた。細く、細く口の笑みを伸ばし。
笑って。
涙を。
流して。
そして、
「師、匠・・・? ッ!?」
終わりを告げるその時は唐突に来た。
轟音と共に全てを包むのは崩壊する王都上層。
この王都アプスの基幹を支える8本の内の一つ、今、ルフタたちの居る闘技場が内部にある巨大な柱。
ツェントルム・トゥルムの崩壊が全ての終わりを告げる。
これで五章は終わり、そのまま六章に続きます。