13話 笑顔
よく晴れた日だった。
その日はとくに代わり映えのない平日で、晴れた空には渡り鳥が気持ちよさそうに飛んでいた。
総合病院の屋上からは街が見渡せる。
山に囲まれたこの街に、風が緑の匂いを運んでいた。
夏の気配がほんのすこし混ざった空気は嫌いじゃない。
暑いのは苦手じゃなかった……そんな気がする。
「ほら、やっぱりここだった」
「相変わらずのストーカーぷりに脱帽ッスよ」
誰かが屋上に来たみたいだ。
振り返ると、そこにいたのは二人の少女だった。
ひとりは澄んだ湖のような長い髪をした、まだあどけなさが残る細身の少女。
もうひとりは眠そうな目をしたスタイルの良い少女。
たしか、名前は……
「澪と白々雪……だったっけ?」
「いい加減覚えてください。もう一週間経つんスよ」
「……すまん」
「ま、ツムギのボンクラさには慣れてますけどね」
ふたりは俺のすぐそばまで歩いてくると、手に持っていた荷物を広げる。
コンクリートの床にシートを敷いて弁当箱を取り出した。水筒やコップなんかも広げて、まるでピクニック気分だ。
「さ、昼食だよツムギくん」
「おう」
促されるまま、俺はふたりの間に座った。
俺は気が付いたら、この病院に運ばれていた。
背中や腕をひどく痛めたらしく、最初は歩くのも箸を持つのも苦痛だった。
手術をする必要はなかったみたいだが、入院とすこしのリハビリが必要だった。
俺はその前にも大怪我をしていたようで、医者から絶対安静を命じられて病院の敷地からは出られない。
なんでそんなことになったのかは、まったく覚えてなかった。
俺はクラスメイト(らしい)の澪と白々雪から、俺たちが友達だったことを聞いた。なにやら俺の怪我の原因を知っているらしいけど、ふたりともそれは言いたがらなかった。
まあ、怪我したものは仕方ない。
記憶がほとんどなくなったのはその影響かもしれないと医者は言っている。
自分の名前すら憶えていなかった俺は、この一週間いろいろと教えられてきた。一番驚いたのは母親が有名な歌手だってことだった。このまえ昼のワイドショーで母親がインタビューを受けていたのを見た。息子が記憶障害、とニュースのリポーターがこの病院前で中継していた。
それが俺らしい。実感は乏しいけど。
「この卵焼きうまいな」
「でしょ? ツムギくんが好きだって教えてもらったの」
「そうか。歌音にか?」
「あ、えっと……ちょっと違うんだけど……」
言葉を濁した澪。
妹の歌音はいまごろ学校だろう。
高校はテスト期間中だから、わざわざ澪と白々雪がこうして見舞いに来てくれているようだ。本来なら俺も同じクラスでテストを受けないといけないはずだけど。
「なら母さんか?」
「ええと……」
澪が目を伏せる。
俺の家族構成は母親と妹のはずだ。父親は海外にいるので、滅多なことでは帰ってこないらしい。
その二人以外に、俺の弁当の好みを知ってるやつなんているとは思えないが。
「ウィンナーもらいッス」
「あっ! 白々雪てめえ!」
俺のタコさんウィンナーを!
澪の料理は抜群にうまかった。誰かの手料理を食べた記憶は残っていないが、澪の料理が俺の好みの味付けだってことは理解できる。
「ケチケチしなくていいじゃないッスか。澪ちゃんに毎日弁当作ってもらえて」
「それはありがたいけどな、だからって俺のウィンナーを食べていいことにはならない」
「ツムギは優しいから大丈夫ッス」
「たとえ記憶失くす前に許してたとしてもいまは許さん。返せ」
「いやッスね……はむっ」
「ああっ! 俺のウィンナーが! くそっなんかよこしやがれ!」
取っ組み合いを始める。
そんな子供じみた俺たちを眺めて、澪が「暴れないの」とたしなめる。
……俺にはこいつらと関わった記憶もない。こんなふうに話していたのかもわからない。
少し怖い。
でも、それでも気兼ねなく接してくれる澪と白々雪が楽しそうに笑うなら、俺はこのままでもいいと思えた。
「兄ちゃん! みてみて!」
昼食を終えてから、病室にもどった。
リハビリ中とはいえかなり症状もよくなっている。ベッドに寝転んだり座ったりしてるけど、どんな体勢でも痛みはほとんどない。
病室のテーブルでは澪がテスト勉強をしていた。白々雪はパイプ椅子をひっぱりだしてきて小説を読んでいる。あしたもテストのはずなのに、勉強するつもりがないのかこいつは。
ま、白々雪の自由気ままな態度は一週間でもう慣れた。わざわざツッコむこともない。
やることがないので俺も勉強していたら、豪快にドアが開かれた。
部屋にずかずかと入ってきたのは妹の歌音だった。
快活な表情と、中学の制服姿がまぶしい。
「あ、澪姉ちゃん白々雪さんこんにちは。……兄ちゃんみてこれ、すごくない?」
「……なにこれ」
「料理の本つくったの。授業でなんか作れって言われたから」
歌音が差し出してきたのは、きちんと製本されたレシピ本だった。
表紙も綺麗な写真。中身も写真やイラストつきで丁寧に書かれてあってわかりやすい。
手作りにしてはなかなかクオリティが高かった。
「へえ。中学ってそんな授業あるんだな」
「兄ちゃんもやってたよ」
「俺も? なにつくったんだろ。思い出せたらなぁ」
「歌音覚えてるよ……たしか平均台のミニチュアだったかな? 作っててなにが楽しいのか意味わかんなかったけど」
訂正。思い出さなくてもよさそうな想い出だった。
澪と白々雪も手を止めて、レシピ本を眺める。
「これを自前とはすごいッスね」
「さすが歌音ちゃんね。あ、この料理わたしも作ってみたいな。こんど一緒に作らない?」
「えへへ。いいよ、兄ちゃんの退院祝いにでも」
ふたりに褒められてご満悦のようだ。
そのまま歌音はベッドに飛び乗ってくると、枕に顔をうずめてゴロゴロとしだす。
「それで兄ちゃん退院いつなの?」
「つぎの検査が明日だから、その結果しだいだな」
「ってことは早くてあした?」
「そうなるな」
うなずくと、突然険しい表情になった歌音。
「ってことは、押し倒すなら今日ってことに……」
「ならない」
なにをアホなことを。
「考えたら背骨怪我してるいまがチャンスだよね」
「もうほとんど治ったから」
「よし、もう一回へし折る」
「何がしたいんだおまえ!?」
「ナニがしたいんだよ兄ちゃん」
「聞こえない。兄ちゃんは聞こえない」
妹の性癖が理解できない。
「ほら、でも記憶失くす前は歌音のことあんなに可愛がってくれてたじゃん」
「え……まじ?」
「うん! だからほら、いまさらって言うか?」
「そうだったのか」
「そうだよ!」
「……よし、じゃあまかせろ」
「へ?」
「ほら脱げよ。おまえを満足させてやるよあんなことやこんなことしてたんだろほら早く脱げってこのやろうリボンが固い!」
「きゃああああごめんなさい嘘だから脱がさないで! 嘘だってば!」
ベッドから慌てて逃げ出す歌音。
ふふふ、作戦通り。
「「変態兄妹」」
後ろから何か言われたけど聞こえない。
「……そういや、俺ってほかに友達とかいなかったのか? 一週間経つけど、見舞いに来てくれたのっておまえらだけだし」
「それは……」
口ごもる澪。
話題を逸らすために選んだ質問だったが、まあ予想通りの反応だった。
どうやら俺は友達が少ないらしい。
いままでどんな性格をしていて、どんな風に過ごしてたんだろう。記憶がないってのはこんなに不安になるもんなのか。それとも、俺が気にしすぎているだけなのか。
それはきっと、俺の記憶が戻るまでわからないことなんだ。
誰にもわからない。
俺にも、わからない。
「ま、べつに気にしないけどな。母さんがいて、歌音がいて、白々雪がいて、澪がいて、それでいままで俺が楽しく過ごしてたんだったら、ほかにはなにも望まないさ。おまえらもわざわざ面倒だろうに、いつも来てくれてありがとな」
「……やっぱり、できないよ……」
澪が小声でつぶやいた。
「澪ちゃん」
「澪姉ちゃん!」
白々雪と歌音が、澪を睨む。
「……黙ってるって決めたッスよね?」
「そうだよ。ツムギ兄ちゃんのために黙ってるって」
「うん。わかってる……わかってるけど」
澪は自分の腕を抱えて、泣きそうな顔になった。
「やっぱりそんなのずるいよね」
なにがなにやらわからない俺はただ見ているしかなかった。
澪がケータイを取り出して、病室から出て行く。
白々雪がすぐに後を追った。
歌音は呆然としていたけど、すぐに小さくため息をついた。
「……ほんと、こんなバカ兄ちゃんのどこがいいんだろ。歌音は妹じゃなきゃたぶんきっとおそらく見向きもしてないよ」
「聞こえてるぞ」
バカとはなんだバカとは。
もっとも澪がなにをしようとしているのかわからないから、歌音の呆れたその台詞に何か言うことなんてできなかった。
口 口 口 口 口
……記憶。
それがどういうものなのか、俺はたぶん考えた事なんてなかった。
当たり前のように覚えていて、当たり前のように忘れる。
思い出すことができる――それがどんなに幸福なのか、きっと俺は知らなかったんだろう。
自分の写真、もっと撮っておけばよかったな。
家から持ってきてもらったアルバムをめくりながら、この一週間そう感じてきた。
忘れてしまったら、失われてしまうから。
どんなに大事にしていたものでも、なにか手がかりがなければ忘れてしまう。
「ツムギには、黙っておこうって決めたんスよ」
窓の外は輝いていた。
遠くの森のむこうに沈んでいく夕陽はどこか物悲しかった。
白々雪は穏やかな表情で、茜色に染まる空を眺めていた。
「どうせ思い出せないなら、その日が来るまで黙っておこうって決めたんスよ。そのほうがツムギにとっては楽なんじゃないかって」
「歌音だってそう思うよ。ツムギ兄ちゃんが危ない目に合うのは、もうイヤだから」
「でも、わたしは我慢できないの。ツムギくんのそばにいて、ツムギくんがそうなってまで助けたかったひとのことを、知らないままでいるのが我慢できない」
歌音も、澪も、自分なりに考えたんだろう。
俺のために。
「彼女もツムギくんに忘れられて、きっと、つらいから。顔を合わせるのがつらいから会うのはやめるって決めたの」
「でも、あの子だって悩んでるんスよ。だからいま、連絡して決めてもらいました。会うか会わないか」
「そしたら、会うって。兄ちゃん」
誰のことを言ってるんだ。
俺がそう聞こうとしたとき、病室の扉がゆっくりと開いた。
暖かな夕陽を浴びながら、小柄な少女が入ってきた。
腰まで伸びた艶やかな黒髪。華奢な体を質素なワンピースとカーデガンで包み、手には小さな鞄を抱えていた。
前髪はヘアピンで留め、おでこを出していた。
すこし緊張したようなぎこちない表情で俺のそばまで歩いてくる。
「……えっと……」
「梔子さん、だよ」
梔子。
俺は何回か反芻してつぶやいた。
どこか懐かしい響きだった。
梔子は何も言わずに、目を伏せている。
俺が何か言わないと進まない。
なぜかそう確信して焦って言った。
「ええと……初めまして? あの、久栗ツムギです。あ、知ってるんだっけ」
この流れで知り合いに決まってるだろ、アホか俺は。
恥ずかしいほど、この場にそぐわない慌てっぷり。
すると梔子は薄い笑みを浮かべた。
俺を見つめて、はにかむように微笑んだのだ。
それは、すこし恥ずかしそうだったけど、とても可憐な笑みだった。
「梔子さんが……笑った……!」
澪が驚いたように言う。
なに言ってんだ。
そりゃあ小柄とはいえ同じ年頃の女の子だろ。
笑うときは、笑うに決まってる。
……そう言おうと思ったのに。
「あれ……なんだ、これ……」
俺の目から、なぜかボロボロと涙が出てきた。
なんでだろ。
梔子の控えめな笑顔を見ると、胸の奥が震えた。
涙が止まらなかった。
「ツムギ……」
「ツムギくん」
「兄ちゃん……」
おかしいな。
体が言うことを聞いてくれない。
なんでこんなに嬉しいんだろう。
なんで俺は、こんなに満たされてるんだろう。
わからない。
俺は夕暮れの病室で、涙を零しながら震えることしかできなかった。




