夢話 <ユメバナシ>
夢は夢。
現実は現実。
そう割り切ってしまえば、今回のことはただの幻のようなものだったのかもしれない。歌音は現実逃避しただけで、俺は説教しただけ。母さんと歌音、歌音と俺はすこしずつ前に進んだけど、それを良い変化にすることができるかどうかはこれからの俺たち次第だ。
だから本当に大事なのはこれからだろう。とくに俺と歌音にとって、さっきの情景を、本音を、決断を、意味のあるものにできるのかどうかはこれからにかかってくる。夢に終わらせないようにできるのか、これからが大切だ。
「おかえりなさい兄ちゃん」
「……ああ、ただいま獏」
歌音の夢から帰ってきた俺を出迎えたのは、もうひとりの歌音の姿。
今回、俺たち兄妹のために力を尽くしてくれた妖怪だ。
繋いでいた手をほどく。
夢から覚めても時間はさほど経っていなかった。時計の針は、夢に入ったときから半周しかしていなかった。
昼間の日光は高く日差しは入ってこない。このまま西日になるまでクーラーが活躍するだろう。
小さく息をつく。
ほどよい室温に身を預け、俺は椅子にもたれかかった。
獏が俺の顔を覗き込んでくる。
「どうだったの?」
「ん……まあ、言いたいこと言ってきただけだ」
「むこうの歌音、なにか言ってた? こっちに戻るって?」
「いや、悩んでるみたいだったぞ。まあ結局、ぶつかってはこなかったけどな」
「そっか。なんかごめんね兄ちゃん」
獏は目を伏せる。
「おまえが気にすることじゃないだろ獏。おまえは歌音を助けるためにここにいるんだから。むしろ感謝してるぞ?」
「でも……」
「あのさ、せっかく感謝してるんだから、こういうときは素直に受け取っとけよな」
「わかった。うん、じゃあ恩返しに歌音とゴートゥベッドして欲しいな」
「素直すぎるぜ!」
予想内だが。
なにを想像してるのか知らんが、獏は恥ずかしそうに身をくねらせる。
「ほんとは初めてが人間とだなんて緊張するけど……イヤじゃないよ?」
「初めてが妖怪となんてイヤすぎる」
「……イヤよイヤよも?」
「イヤのうち!」
「YEAH?」
「英語風に言ってもイエスにはならんぞ」
「むむむ……せっかく快楽を教えてあげようと思ったのに」
「小さな親切大きなお世話」
「小さなお胸に大きなお尻」
「歌音のことか?」
「兄ちゃんの好みだよ」
「だからなんで知ってんだよ」
「そりゃあ兄ちゃんの部屋のエロ本はむしろ歌音のほうが熟読してるからね……あ、ちなみに金庫の暗証番号を澪姉ちゃんに教えたの歌音だから」
「共犯がここにっ!?」
どうりであいつが俺の性癖をこと細かく知ってるわけだ。
というかいつのまに仲良くなってやがった。
「でもそう考えたらやっぱり兄ちゃんの好みに一番近いのって澪姉ちゃんだよね。白々雪さんはおっぱいデカすぎるし、コトバ姉ちゃんはお尻も小さいし……あれ? ねえツムギ兄ちゃん、もしかしてコトバ姉ちゃんに手出したりしてないよね?」
「ギクッ」
「……ゴゴゴゴゴ」
「嘘だって! 嘘だから変身すんな!」
「ロードローラーだッ!」
まさか車輌にまで変化するとは。
「まあツムギ兄ちゃんはチキンだから手を出すおろか手をつないですらなさそうだよね」
「否定できないコケコッコー」
「デートもちゃんとしてなさそう」
「申し訳ないコケコッコー」
「ここで一句……デートすら、段取りできない、ダンドリー」
「チキンが育ってコケコッコー」
「そもそもそれって彼氏っていう? いまどき小学生でもデート誘うよ」
「……ほんと面目もございませんピヨッ」
「ヒヨコまで退化した!?」
「もはやチキンすら生温い俺氏」
「生温いチキンくらい最低ってことだね!」
「温めなおすチャンスをくれ」
「じゃあ歌音の体を温めるチャンスを――」
「あ、それなら冷めたチキンでいい」
「視線が冷めたよチキン兄ちゃん!?」
誰がチキン兄ちゃんだ。
そうだ、俺は梔子を大事にしようとしてたからこそ手を出さなかったのだ。決して俺が臆病だったからではない。うん。
「壊したくないから触らないってやつ?」
「そうだな。そんな感じだ」
「……なんか寂しいね、それ」
「え?」
「彼氏が触ってくれないんだよ? 女の子からしたら相手が本当に自分のこと好きなのか疑っちゃうよ。コトバお姉ちゃんとなんで別れたのかは知らないけど、たぶんコトバお姉ちゃんは寂しかったと思うよ」
いや、でもそれは。
――あいつは寂しいって感情知らないから。
なんて言葉が浮かんできた俺は、やっぱり最低な彼氏だったのだろう。
それが言えるわけもなく。
俺はただ、黙り込むしかない。
獏は小さくうなずいた。
「歌音だってたぶん同じだよ。触れてくれないから寂しい。それは相手が恋人でも家族でも、誰でもそう思うものなんだよ。誰かの体温がするってことはさ、ほんとに安心できることなんだから」
「……安心、か」
「そういう意味では、ツムギ兄ちゃんは歌音の安心できる場所だったんだよ?」
「俺も同じだ。歌音のそばなら俺も安心できた。だからこそ、だ……」
「だからこそ?」
首をかしげる獏。
俺は寝ている歌音の頬に触れる。
やわらかいほっぺ。
温かい。
「だからこそ、俺ばっかりが独占しちゃなんねえんだよ。いつかこいつにだって彼氏ができて、結婚して、子供産んで、老いていくんだ。いつまでも兄妹水入らずってわけにはいかねえんだ。だからいまのうちに俺も妹離れしないと……な」
「……妹離れ、か」
獏は納得したように笑った。
「ツムギ兄ちゃんってば、あんまり自分の気持ち話さないからさ……今回のことだって、もしかしたらもう歌音のことが嫌いになったのかとか、気持ち悪いとか思われたのかと思ってて……ほんとはそこが一番怖かったんだよ」
「気持ち悪い? なんでだよ」
「兄ちゃんのこと冗談抜きで好きだと思い込んでる妹だよ? 気持ち悪くないの?」
「べつにそうは思わん」
「それならよかったの。それなら、嫌われたわけじゃないなら……よかったよね? ねえ、歌音?」
獏が問いかけたのは、ベッドの上の歌音。
「……うん。そうだね、獏」
本物の歌音は目を開いていた。いつのまにか天井を眺めていた。
ああ、ようやくだ。
ようやく戻ってきた。
あの夢から、現実に戻ってこれた。
「おかえり歌音」
「ただいま兄ちゃん」
歌音は上体を起こした。
およそ一週間ぶりに目を覚ました歌音は、自分の腕に刺さっている点滴の針を見つけると顔をしかめて引きはがした。
ちょっと不満そうな、でもすっきりしたような顔つきだった。
「歌音、あのさ」
「いっとくけど兄ちゃんに言われたからじゃないんだからねっ!」
……なんかツンデレになっとる。
俺たち家族はみなこの素質があるからな。
疑問には思わない。
「まあ、よかっ――」
「うわああ兄ちゃん抱き着くのやめてよ歌音やっと兄ちゃんのこと諦める決心ついたから戻ってきたんだよ! それをいとも簡単に崩すなんて最低だよ兄ちゃん!」
「むしろ抱き着かれたぞ!?」
言っとくが、俺からはいっさい抱き着いてなんていない。
「うそだよ兄ちゃんから抱き着いてきたんだよ久々に現実で兄ちゃんの匂い嗅いだら我慢できなくなったとかじゃないからぐえへへへへへ」
「酷くなってやがる!?」
ツン短かっ!
やっぱり歌音は歌音だった。
そう考えたらやはり歌音の姿性格をしてるとはいえ、獏はまだ易しいほうだった。歌音と同じように接していたけど、俺の予測を超えたことはしなかった。
人間のために生まれた妖怪という本質だったからだろうか。
それとも、あいつが優しかったからだろうか。
……ああ、そういえば獏だ。
「なあ獏、おまえこれから――」
歌音が戻ってきたし、これからどうするのか。
そう聞こうとして振り返ったが、そこにはもう獏の姿はなかった。
ただクーラーが音をたてて稼働する病室には、俺と本物の歌音がふたりっきりでいるだけだ。さっきまで俺と話していた妖怪の姿がどこにも見当たらない。
「……獏?」
「獏は、消えたよ。歌音が夢から覚めたら消える。獏が存在できるのは夢を見ているあいだだけだから」
歌音は俺の体から腕を放して、自分の左手を眺めていた。
事故で動かなくなったはずの左手。
その手を、何度も動かして。
「あいついいやつだね。最後の最後にぺろりと食べて行っちゃった。歌音の未来のために悪夢を食べてったよ。まったく、そんなことこれっぽっちも頼んでないのにね」
「……そっか」
俺は部屋を見回した。獏の気配は綺麗さっぱり消えていた。部屋の隅にも椅子がひとつ置いてあるだけで、ふつうの病室に戻っていた。
なんか拍子抜けだな。
歌音と獏、夢と現実に分かれたふたりの夢語りは、こうしてあっさりと終わりを告げた。
挨拶もなしに、礼も言えずに。
あるいは白昼夢のように。
「……ありがとな、獏」
聞こえるかわからないけど、俺は窓の外を眺めてつぶやいておいた。
「歌音ちゃん、退院おめでとう! これ、つまらないものだけど」
「あ、ありがとう澪姉ちゃん……」
すっかり元気になった歌音は、夏休み最後の日に退院を迎えた。
そもそも獏を呼び寄せて夢に籠らなければ、すぐにでも退院できたはずなのだ。すっかりというか、やっぱりというか、さっぱりというか、何回か検査をしただけですぐに返された。
病院のロビーに押しかけていた週刊誌の取材陣を追い払うため母さんの姿はない。
そそくさと裏口から出た俺と歌音を待ち受けていたのは、巨大な花束だった。
誰にも教えてないはずなのに、なぜかそこに澪がいた。ついでに白々雪と梔子も。
歌音の退院祝いに来てくれたのは嬉しいが、さすがに豪華な花とかもらっても困るんだよな。歌音もあからさまに顔をひきつらせている。
白々雪が鼻で笑った。
「ねえ澪ちゃんは馬なんですか? 鹿なんですか? それともカバなんですか?」
「もちろん天使よ」
「ああアホでしたね。聞いたウチが悪かったッス」
「なによいきなり?」
白々雪を睨む澪。
「何も蟹もありゃしませんよ。そんなボッサボサな花贈られても歌音ちゃんが喜ぶわけないじゃないッスか。ねえ歌音ちゃん?」
「えっと……まあ、その……」
兄ちゃん助けて、と視線で訴えかけてくる歌音。
そりゃあ両手にあふれんばかりの花を渡されても困るだけだが、気持ちを受け取らないわけにはいかんだろ。
「まあ、花はどっかに生けとくよ。さんきゅな澪」
「ツムギは甘いッス! こんな世間知らずに感謝する必要ないッスよ!」
「じゃあ白々雪さんはなにを用意したのかしら?」
「ウチはこれッスよ」
白々雪が鞄のなかから取り出したのは、メロン。
美味そうなメロンだが、これはむしろ入院中に持ってくるべきものだろう。
それと気持ちはありがたいが、歌音はメロン好きじゃねえんだよ。
「……ありがと、白々雪さん……」
「あれ? 好きじゃなかったッスか?」
あからさまにガッカリする歌音。
澪が嬉々とした。
「リサーチ不足ね白々雪さん! 歌音ちゃんの好みも把握してない幼馴染なんて、幼馴染として失格よ! そこに落ちてるセミの抜け殻にでもヒロインの座を譲ったらどうかしら?」
澪がセミの抜け殻を拾い上げ、愛おしそうに撫でる。
「よっぽどこっちのほうが可愛いわよ喋らないし。ねえセミ雪桜子さん」
「それは俺がイヤだ」
※次回からこの物語はセミの抜け殻がヒロインになります。
……どんなラブコメだ。
「ふふん、残念ながらウチはヒロイン安泰ッスよ」
「たいした自信ね。根拠は?」
「そりゃあ数少ない巨乳枠だからッス!」
胸を張る白々雪。
ぷるんと揺れる双丘。薄いシャツだからこそ形がはっきりとわかる。
「たしかにそうだけど、ツムギくんは巨乳より貧乳のほうが好みなのよ」
「そんなことは千も承知ッスよ。でも、それがどうしたんスか? ほらそこのふたりを見てください澪ちゃん、澪ちゃんの中途半端なつるぺたに対して、梔子さんと歌音ちゃんは見事なほどの絶壁――痛っ!」
歌音が無言で白々雪を蹴った。
いまのは白々雪が悪い。
「ま、まあともかく、歌音ちゃんは妹で、梔子さんは無口っていうキャラ立ちもしっかりしてるッス。澪ちゃんは胸もキャラも中途半端なんスよ。ツムギがよくても、世間はよくないんスよ」
「むむむ……」
「いっそキャラ転向したらどうッスか? ヤンデレとかいま需要あるッスよ。ヤンデレキャラならインパクトもあるッスし、澪ちゃんにはピッタリだと思うんスよ。いまならウチが無料でプロデュース!」
「……ヤンデレか……」
「『それもありだなぁ』みたいな顔すんなよ!?」
澪のヤンデレとかシャレにならん。
俺と澪と白々雪が騒いでる横で、梔子がこっそりと歌音に小さなカードのようなものを差し出していた。『退院おめでとう』と書かれた可愛いメッセージカード。
「……歌音、兄ちゃんの学校のひとってみんな変なひとだと思うけど、コトバ姉ちゃんだけは善いひとだね」
『そんなことない。みんな善いひと』
歌音は梔子のことを気に入ったらしい。ケータイのアドレスも交換してるみたいだし、梔子もまんざらでもない様子だ。
俺たちは話しながら家へと向かう。退院したとはいえ、まだ病み上がり。歌音をこの暑いなか立ち話させるわけにもいかない。
目の前に迫った二学期のことに話が移り、文化祭の話題へと変わっていく。我らが冨士吉高校の文化祭はわりと大規模で、どのクラスもかなり力を入れている。俺たちのクラスはたしかお化け屋敷をやるんだったか。すぐに準備も始まるだろう。
しばらくは平凡な日々もお預けか。
まあ、それはそれで悪くない。それも日常ってやつなんだろうからな。さすがに文化祭を嫌がってるようじゃ、平和な高校生活とは言えないだろう。
それに梔子の感情も、まだまだ取り戻さなきゃならない。
ここしばらくは歌音につきっきりだったから、梔子のことを気にする暇もなかった。あとで南戸にでも相談してみよう。
と、俺が頭のなかで予定を組み立ててるときだった。
夏の暑さに歪むコンクリート。
蜃気楼がゆらゆら揺れる先の道に、誰かが立ち塞がっていた。
そいつは浴衣を着て髪を結っていた。手には小さな巾着袋を提げて化粧もばっちり。年上だろうか背は高い。どこかの夏祭りにでもいく予定でもあるのだろうか……いや、それにしては時期が遅い。もう八月も終わるというのに。
そいつは俺たちに気づくと、正面から歩いて向かってくる。
「「……かわいい……」」
澪と歌音が、つい見惚れてしまうほどの美しい顔立ちだった。
だが俺はなにかが引っかかっていた。たしかに惹き込まれそうな魅力だったけど、そのどこかで感じたことのある違和感が、胸をよぎる。
くいっ、と服を引っ張られて視線を落とす。
隣で、梔子が俺の服の裾を握っていた。首を横に振る。
「……あっ」
カランコロンと下駄を鳴らし、こちらに歩いてくる謎の浴衣美女。
俺はその顔をじっと見つめハッとした。
化粧をして、完璧な表情をつくり、赤みがかった髪をまとめあげている。道行くひとが振り返るどころか、見惚れて呆けてしまうほどの美女。自転車に乗っているやつは転び、車はブレーキを踏む。ひとつ間違えば交通事故が連鎖しそうなほどの状況を、そいつはつくりだしていた。
まるで、歩く災厄。
そんなやつ、俺の知る限りこの街にはひとりしかいない。
「どういうつもりだ、南戸」
「……南戸?」
ピタリ、と俺のまえで足を止めた浴衣美女。
そいつは袖の下から一本の扇子を取り出すと、パタパタと煽いでくすりと笑った。
「誰のことかわからないけど……ふうん、キミたちはボクを見ても平気そうだねぇ」
――違う!
南戸じゃない。
いや、それどころかこの美女、もしかして……
「……あんた、男か?」
「わぁお!」
そいつはニッコリと笑った。
「ご明察ご名答、ボクの性別をひと目で見破ったのはキミで幾人目か忘れちゃったけどおおよそ初めてだよ。ご褒美としてボクからの熱いチューをプレゼントしてあげる」
不意打ちだった。
リンゴのような甘い香りを漂わせながら、そいつはするりと俺に近づき、頬に軽く口づけてきた。とっさのことに、俺は身動きがとれなかった。
驚いて我に返ったのは俺じゃなく、澪や歌音たち。
「なっ、ななななにしてんスか!?」
「あなたツムギくんによくもっ!」
「う、歌音の兄ちゃんに!」
「有象無象は黙っててくれないかい?」
あまりにもにこやかな表情だった。
そいつは腕を組み、自分の唇を指先で撫でた。まるで男を誘うような目を俺に向けて、舌なめずりした。
梔子が、俺の服を握る力を強くする。
「そう警戒しないでよ。ボクはただ人を探してるだけなんだ。キミたちに危害と喜愛を与えようなんて気はこれっぽっちっしかないよ」
「……人探し?」
「うん。いつも甚平服を着た、ボクによく似た女さ」
そいつはじっと俺たちを見つめる。
確信的に。
挑発的に。
あるいは、悪魔のような笑みで。
「ボクと血を分けた双子の姉、ボクのたったひとりでもないけど愛すべき家族、ボクにとって最大の障害……弟ですら騙そうとする愚かな詐欺師を、キミたち、この近くで見なかったかい?」




