8話 眼光紙背に徹す
「……ん」
口から漏れたのは、寝言のようなうめき声だった。
いつのまにか気を失っていたらしい。
どうにも頭がぼんやりする。思考がうまくまとまらない。心なしか、少し熱っぽい。
倦怠感を感じてベッドから起き上がった。
「あ、ツムギくん起きたんだ?」
ベッドのすぐそばの椅子にちょこんと腰かけていたのは妖精澪。
窓から差し込んでくる西日が、彼女を黄金色に照らしていた。
「……澪、俺どうしたんだ?」
「倒れたの。覚えてない?」
「覚えてないな」
たしか澪と泳いだところまでは覚えている。
そのあと、なにか珍しいものを見たような気もするが……ダメだ。思い出せない。
「とりあえず水、飲んでね。そこに置いといたから」
「すまん」
ベッド脇の机のペットボトルを手にとり、渇いた喉を潤す。
水がうまい。胃に染みわたる。
そのまま起き上がろうとしたら、澪が膝の上にぴょんと跳び乗ってきた。
「動いちゃだめ。今日はこのままベッドにいること。白々雪さんが診てくれたけど、ツムギくんカンペキに熱中症だったみたいだよ」
「そうなのか……このままって、飯と風呂は?」
「ご飯はもうすぐ梔子さんが持ってくるからそのままここでね。それと、お風呂はダメ。私がタオル使ってごしごし体拭いてあげるから」
「…………すまんもう一度頼む」
「私のタオルでごしごし体で拭いてあげるから☆」
「俺は病人じゃないんだが」
「不満なの? ……じゃあ、私がタオルになってごしごし体拭いてあげるから☆」
「色々ひどい!」
妖精とのイケない遊びが目に浮かんだ。
まあ冗談はともかく、
「……でも、実をいうと立ち上がる気力もねえんだ。体中汗とか海水でべとべとするし、頼んでいいか」
そういえば俺、いつのまに水着からいつもの服に着替えたんだろう。
記憶がないのでわからない。まあ、澪ではないことは間違いないのだろうけど。
とにかくさっそくやってもらうことにする。
服を脱いで上半身裸になってうつぶせになると、澪が準備していた濡れタオルで俺の背中を拭いてくれる。熱で頭がぼうっとするせいか、恥ずかしさはほとんどなかった。
かいがいしく世話を焼いてくれる澪は、鼻歌を歌っていた。
聞いたことのない独特のリズム。跳ねるようなテンポの曲のようだが、あまり音に抑揚はついていない。聞いたことはなかった。
「それ、オーストリアの民謡か?」
「うん。おばあちゃんがいつも歌ってたから覚えちゃった」
「ふうん。タイトルは?」
「〝戦場を駆ける一匹狼〟」
「おまえのばあちゃんカッコよすぎだろ」
心地よい背中の感触を楽しんでいると、部屋の扉があいた。
「あ、梔子さん」
両手でトレイを抱えた梔子と目が合う。
いつもどおり、目の下で切り揃えた前髪。
表情はうかがえないが、なぜか梔子は入り口で少し躊躇ったような動きをした。一瞬部屋から出ようとして、思い直したような動きだった。
「ご飯、机に置いててね」
「…………。」
梔子はうなずいた。
ガチャン!
心なしか乱雑に机にトレイを置いたような気がした。
しばらく澪と梔子は、無言で見つめ合っていた。俺の背中を拭くその小さな手を、梔子はじっと見つめているようだった。
「コトバおねえちゃーん! ご飯だよー!」
階下から歌音の声が聞こえてきて、梔子はくるりときびすを返した。
梔子が部屋から出て行くと、澪はまた鼻歌を再開して背中を拭く。
ダシとすりおろした山葵の香りが漂ってきた。
どうやら今日の夕飯は、そうめんらしい。
俺の好物だった。
翌日、別荘四日目。
いつものように遅めに起床すると、リビングのテーブルにはサンドイッチがラップをかけられて置いてあった。
どこに行ったのかと窓から外を見てみる。
四日目にもなるとそろそろ遊びにも飽きてきたかとおもいきや、女たちは澪を除いて岩場で釣りをしていた。
釣り……良い遊びだ。
ゆったり過ごすための趣味としては申し分ない。
朝食のサンドイッチを胃に詰め込み、ソファで横になる。持ってきていた本を開いて斜め読みしていると、いつのまにか澪が反対側のソファに座っていた。
「おはよう澪」
澪は返事をしなかった。
「……どうした?」
横目で聞くと、澪は顔をうつむけたまま「おはよう」と返してきた。
どことなく、元気がない。
「なにかあったか? そろそろ小さい体も疲れてきたのか?」
「ううん。違う……ちょっとぼうっとするだけ」
「おまえも熱中症か?」
「たぶん……それも違う」
首をふる澪。
そうじゃなきゃ、ただ単に疲れただけかもしれない。
「ま、今日はゆっくり休んでおけばいいさ」
「ううん。今日はあそこに行ってみたい」
澪が指差したのは、海岸のずっと先。
水晶壁の祠がある洞窟――その上。崖の上だった。
『灯心』という地元じゃ有名な崖だが、そこにあるのは壊れた灯台だけ。とくに見にいくような場所でもないのだが……
「……行きたいのか?」
「うん。連れてってくれる?」
「わかった」
俺はパタンと本を閉じて、澪を肩に乗せた。
灯心の崖までは、一度町のほうへ出て畑の道を通っていくのが正規ルートだ。かなり高い崖になっているため、この海岸からは上っていけない。
念のために書き置きして出発する。
誰かに見られないよう、いつでも隠れられるようにフードつきの半袖パーカーを羽織っていく。
さすが俺。安全のためにはぬかりはない。
というかこの状況に馴れてきただけか……とも思いつつ、森を歩く。
木々の天井があるうちは涼しかったが、森を抜けると途端に暑くなった。
畑のむこうのほうには駅があり、建物もいくつか見えるが、ここには日光を遮るものなんてなにもない。目がくらむような熱線に、
「あー」
「うー」
肩の上の澪とそろって呻いた。
アイスが食べたい。それもかき氷のやつ。
「わたしはバニラがいい。バニラアイス食べようよ」
「甘ったるいのダメなんだよ」
「じゃあ帰ったら、かき氷あーんしてあげるね」
「聞いてなかったのか? 甘ったるいのダメなんだって」
「わお甘い展開も。まさかのダブルミーニング」
「そういえば俺の部屋の雨垂れもダメになってたな」
「おお、トリプルミーニングだね」
いや、そんなつもりで言ったわけではないが。
アイスの話をしていると余計に暑く感じるのは気のせいだろうか。浮き出る汗をぬぐいつつ、畑をちらりと眺めた。緑の葉っぱが色濃く茂っている。芋かなにかだろうか……あまり興味もなかったので、眺める程度にとどめておく。
しばらく歩くと、また道が森のなかを通っていた。別荘へ向かう道もわりかし整備されていたが、こっちは車が余裕で通れるほどに綺麗に舗装されていた。灯台の修理にでも来たのか、タイヤの跡がまだ土の道に残っていた。最近は雨が降っていないから、ここ一週間ほどのあいだについた跡なんだろう。
「誰かいたらすぐに隠れろよ」
「うん」
と確認作業を繰り返して、森を進んだ。
あっさりと森を抜けると、視界いっぱいに広がったのは水平線だった。
小さな灯台と、木の杭にロープが括りつけられている崖。波の音が聞こえる。
崖からは森に隠れるように別荘が見えて、もちろん砂浜も見える。砂浜の逆にある岩場では、梔子と白々雪と歌音が仲良くならんで釣竿を垂らしていた。
「見晴らしいいね……海のずっと向こうまで見える」
「そうだな」
とはいえ、珍しい景色でもなんでもない。感動するには少し物足りなさを感じているのは、俺がこれを見慣れたせいかもしれないが……
「ねえツムギくん」
「なんだ?」
「綺麗だね。やっぱり生きてるって素敵だね」
「まあ、そうだけど……」
「最後に見た景色だからかな、すごく心が熱いよ」
「?」
澪の言いたいことがわからず、俺は首をひねる。
なんとなく、澪の様子がおかしい。
いや、おかしいのはもともとだ。妖精になった様子なんて、奇妙以外のなにものでもない。
でも、それだけじゃなかった。
なんとなく、澪が澪ではないような、そんな気がしてくる。
「海の底はね、すごく寒いんだよ」
「……澪?」
「光も届かなくて、暗いの」
「おい、澪」
「誰の声も聞こえなくて……さみしいの」
あきらかに様子がおかしい。心なしか、羽が薄く輝いているようでもある。
もしかして、妖精と澪がまた強く入れ替わるのか?
でも、南戸の言っていたことを信じるなら、妖精と澪が完全に入れ替わるまでは七日の猶予があるはずだ。まだ四日目……少なくとも〝修理屋妖精〟の様子に焦ったようすもない。こうやって望みをかなえていけば、元に戻るはずだ。
けど。
いまの澪を見ていると、なんとなくそれが間違っているような気がするのは、俺の思い違いだろうか?
「あ、みんな一度戻るみたいだよ。お昼ごはんの準備かな? わたしたちも戻る?」
我に返ったように、いつもの澪に戻った。
俺はすこしのあいだ笑顔を浮かべる澪を見つめてから、うなずいた。
別荘に戻り、梔子と歌音が作ってくれたチャーハンをみんなで食べ、俺は澪と自分の部屋にこもってまた読書を再開する。
「なにかしたいことがあるか」と聞いたら「とくにないから、ツムギくんと一緒にいるね」と言った澪は、寝転んで本を読んでいた俺の腹の上で、すやすやと昼寝をし始めた。まさか同級生に腹の上で寝られるなんて思ってもみなかったが、まあ、小さい体なのでとくに重さも感じなく不満はない。
途中、一度梔子が様子を見に来てくれたけど、とくに問題はないから遊んできてもいいぞと伝えた。
梔子はうなずいて『釣りにいってくるから』とメモを投げてきて、俺の腹の上で寝息をたてて眠る妖精を一瞥してから、バタンと勢いよく扉をしめた。
……怒ってる、のだろうか。わからん。
それにしても、午前に続いてまた釣りか。
ハマったのか、それともほかにやることが思いつかないのか、どっちだろう。梔子と白々雪の性格を考えればどちらもあるが、歌音の性格ではひとつに熱中するとすぐに飽きるだろうから、おそらく後者だろう……なんて予想をしていると、あくびがひとつ漏れた。
いかん、眠い。俺も昼寝したくなってきた。
本を閉じてそのまま枕元に置くと、目を閉じる。
昼寝を我慢する理由もない。
そのままゆっくりと思考を鈍らせていき、うとうとする。
完全に寝る必要はない。
まどろみくらいがちょうどいいのだ。
開け放している窓から、鳥の声が聞こえた。
どこからか女の子の声がする。
風がカーテンを揺らし、かすかな布ずれの音も耳に届く。
潮の香りと、木の香り。
まどろむ心地良さに、このままこうして生きていければいいのに、と夢見てしまう。
むろん、そんなことは叶わない。
完全な平穏なんて訪れるはずもない。
だからこそ俺は平和主義者でいるのだ――
「……あれ?」
なにか物足りないことに気付いて目を開けた。
腹の上に澪がいなくなっていた。
時計を見る。三十分ほど経っていた。
気付かなかった俺も俺だが、なにも言わずに出て行った澪も澪だ。
ひょっとしたらなにか用事があるのかもしれないが……なんか、胸がざわつく。
俺は部屋を出るとリビングにむかった。
岩場を眺めると、三人の女子がまた岩場にいた。まだ釣りは始めていないようで、歌音と白々雪が睨み合っていた。喧嘩してるのだろうか、それとも「釣り勝負だ!」とか言っているのだろうか。ああ、勝負はありそうだ。歌音はそういうの大好きだからな。
とりえあえず家のなかを捜索してみた。トイレや風呂もチェックする。
が、澪はいなかった。
勝手に家から出るな、とは言ってあった。誰かに見つかってもそうだが、野生の動物に食われでもしたら最悪だ。家の外に出る。もしかしたら、釣りを見にいってるのかもしれない。
岩場まで小走り。
「あれ、ツムギ、どうしたんスか? 息切らして」
「兄ちゃん見てて、この魔女より多く釣ってやるんだからね!」
「歌音ちゃん、せめて魔法少女と呼ぶッスよ!」
「少女はそんなスイカを胸につけてません!」
やっぱり勝負するのか。
睨み合うふたりをよそに、俺は黙々と竿を握って海面を見つめる梔子に声をかけた。
「なあ……澪、みなかったか?」
『見なかった』
「そうか」
やっぱりここじゃないようだ。
ならいったいどこへ行ったのだろうか。もう一度家を探してみよう。もう子どもじゃないんだから、そんな無茶なところへはむかっていないはずだが……。
駆けだそうとして、ひとつだけ思いついた。
「おまえら遊びもいいけど、潮が満ちてきたらこのあたり危ないからそのまえに戻ってこいよ」
「あ、うん」
「わかったッス」
とうなずく歌音と白々雪。
しかし梔子はメモ帳を取り出して、こんなことを書いた。
『それは少し違う』
「……違う? なにが?」
梔子は素早くメモに走り書いた。
いつもどおり、ただ思ったことを書いただけなのだろう。深い意味はなかったに違いない。
『私たちは遊んでいるわけではない。ふたりは釣り勝負をすると言っているけど、本来の目的は、今晩食べるための食材釣り。これほど綺麗な海なのだから、きっと美味しい魚もいるはず。だから、ただ遊ぶ、というのはすこし前提が間違っている。……とはいえ、危険と判断したらふたりを連れてすぐに戻るから、久栗くんは安心して休んでて』
「そうか。わかった」
あいかわらず真面目な返事の梔子。
だが、そこでなにかがひっかかった。
梔子の提示するメモをもう一度見る。
じっと見る。
目を惹いたのは一文だった。
「前提が……間違ってる?」
そうつぶやいた瞬間。俺のなかで、泡が弾けるように閃きが走った。
いつもは鈍い俺だが……
このときばかりは、眼光紙背に徹した。
だが、その閃きは、決して嬉しいものではなかった。




