プロローグ
夏休み初日。
世の高校生カップルが学校という名のしがらみから解き放たれて、好き放題遊び呆けることができる時間。
宿題も教科書もこの日だけはなりをひそめ、あまたの彼氏彼女が羽目を外す。
犬も歩けば棒にあたるように、外を歩けばカップルにあたる。世に蔓延る青春たちは、この暑いなかプールにショッピングに映画館にと、持てる限りの精を出し、モテる限りに生を満喫する。そんなやつらにはクーラーの室外機も腹を立ててぐおんぐおんと怒っているようですらあり、嫉妬に回るファンが室内の熱を放出するたびに、地球の気温が恋の熱にうかされていくようですらあった。
男子は女子の唇を奪おうと奮闘し。
女子は男子の心を奪おうと奮闘する。
誰も彼もがアツさを享受する日。
そんな夏休み初日。
俺こと、久栗ツムギは、
『――私はもう、久栗くんの彼女じゃないから』
生まれて初めて、彼女に振られた。
口 口 口 口 口 口 口
澪=ウィトゲンシュタインは優等生である。
話を始める前に、まずはこれを言っておかなければなるまい。
優等生について辞書を引けばおおかた似たような記述がでてくる。
いわゆるそれなりに優秀な成績を収め、かつ模範的な生活態度で過ごす人物。
この学校で優等生を選べと言われたら、すぐにおもいつくのはまず白々雪だろう。圧倒的な記憶術をあやつり類まれなる成績をおさめている少女。
しかし生活態度の面に関して言うと、とてもじゃないが優等とはいえない。
あけっぴろげなのはいいことだが、好奇心の赴くままに行動し、誰かれかまわずしゃべり倒す。ただし仲良くしようとはせず、たいていは俺の近くで勝手気ままに猫のような生活をしている。品行方正とは言いがたい。
もちろん学力と生活態度を両立しているやつらは、何人かいるだろう。
俺のクラスにも数人いるし、学校全体ならなおさらだ。
だがもっとも優等生なやつといえば、彼女をおいてほかにはいないだろう。
成績はそれなりに良好。
生活態度はまじめ。
校則違反はしないし、先生の言いつけはしっかり守る。
そしてほとんどすべての生徒や教師に好かれ、一目置かれている転校生。
なおかつ日本語とドイツ語を巧みにあやつるバイリンガル。
澪=ウィトゲンシュタイン。
優等生の定義を体現したかのような生徒だ。
単に言語上の意味合いだけではない。
澪は誰にとっても優等。
ある程度の距離をとり、決して不快に思われないように行動する。
相手の心情を理解し、それに応じた対応は好かれる原因のひとつ。
誰にとっても優等生。
それが澪だった。
夏休みの始まりと同時に告げたこのコイバナシに主役をひとり選ぶとすれば、異論を挟むことなくその優等生になるだろう。
……ただし、優等生に裏があるのは、常識だ。
「なにか言いたいことはある? ツムギくん」
図書準備室は灼熱地獄だった。
窓から差し込む太陽光が床を焼き、閉め切られた部屋にはクーラーがついていない。あの小さな冷蔵庫のむこうはどんな涼しい世界が広がっているのだろうと北極の幻想を抱いてしまうほど、その部屋は暑かった。
そこで正座する俺。
正しくは、正座させられている俺。
まるで拷問。水分が絞りとられる。
しかしこの部屋の扉の鍵は澪が持っているから、脱出できない。
よって言われるがまま、こうしているのだ。
「……なあ。これは立派な虐待行為だと思われますが」
「虐待プレイだからいいんだよ?」
「そんな言い訳があるか」
プレイと称すればなんでも許されるのは夜の世界だけだ。
ここは日中の学校。
神聖なる図書準備室である。
「ツムギくん。わたしはただ、なんでツムギくんが梔子さんと付き合っているのか質問してるだけなの。それさえ答えてくれればなんでもするよ。わたしだってツムギくんをいじめたくない……」
潤んだ瞳。
愛らしい表情。
その両方をたずさえて、正座する俺の正面にかがむ澪。
……あ、パンツ見えた。
期待を裏切らない優等生。薄い水色のレースだった。
しかしすぐにスカートの裾に邪魔されて見えなくなる。
くそう。
「ねえ、聞いてる?」
あ、また見えた。
でもすぐに隠される。
「ちょっと、ツムギくん?」
あ、また見えた。
しかしすぐに隠れる。
「……なに見てるの?」
また見えたけどすぐ隠れる。
くそっ、なんだこの拷問は。
うっすら汗ばんだ太ももから目が離せないじゃないかっ!
「……教えてくれたらもっと見せてあげるよって言ったら?」
「すぐ教えますっ!」
叫んでからハッとする。
しまったやられた。
というか確信犯だったのか。
くそう、思春期男子の心情をうまく利用しやがって。
冷やかな目で見られた。
「……ツムギくんってときどきチョロいよね」
「おまえこそ、ときどきろくでもないよな」
「七でもないよ」
「八でもないと言っておく!」
ついでにいえば一でも二でも三でもない。
まだ視線が冷たい。
「……変態は死んじゃえばいいのに」
「縁起でもないことをいうな」
「本心だよ」
「演技でもないのはわかってる!」
黒澪さんがひょっこり顔を見せた。
さすがにパンツひとつで白状するのは薄情だったか……。
それはともかく、このくそ暑いのに話が進まないのは危険だった。
「……で、だ。そもそも澪、俺がおまえにそのことについて話す義務があるとは思えんのだが。……これは俺と梔子の問題だしな」
「そうかもね。でも、そうじゃないよ。だってツムギくんはわたしに返していない貸しがひとつあるでしょう?」
「貸し?」
そんなもの作った覚えはないが……。
「プロレス。あの日本当はツムギくんが白々雪さんと行く予定だったんでしょう? でもわたしを犠牲にすることによってツムギくんは安息の家に帰ることができた……ほら、これって平和主義者のツムギくんにとっては大きな借りじゃない?」
「くっ……」
たしかにそう言われれば否定できない。
これこそ因果応報。
日本プロレス協会めっ!
「……そうだな……だけど俺はいいとして梔子が……」
「じゃあ梔子さんは答えられる?」
澪は、俺の背後に声をかけた。
梔子が立っていた。
この暑い中、汗ひとつかかずに直立していた。
『私が久栗くんの恋人である理由?』
掲げた梨色のメモ帳が、やけに涼しげにゆれる。
「うん。ツムギくんが借りを返してくれないなら、その連帯責任は恋人(仮)のあなたにあると思うの梔子さん」
『借りはあっても仮じゃない。……でも、そうなの?』
「そうよ」
『そうなんだ。ならわかった。教える』
と梔子は、まったく迷いがなかった。
そのあっさりとした態度にすこし驚くが、考えてみればわかることだった。
隠していたのは、知られるのが面倒だったからだ。いわば俺の都合であり、梔子の都合ではない。その原因を追究されれば神だとか呪いだとか、そういった怪奇なことにぶちあたるのは目に見えている。怪奇な目で見られることはわかっている。だからこそ黙っていたんだけど……。
ただ、澪と白々雪もまた、同じような経験をしている。
ならこの二人にだけは、教えてもいいかもしれない。
「……わかったよ。俺が話す。梔子もいちいち書くのは面倒だろうしな」
『久栗くん、いいの?』
「いいよ。この展開は、おまえの彼氏になったときから覚悟はできてる」
ただし、あの部分だけは省かせてもらうけどな。
「ツムギくんってそんなかっこいいことも言えるんだね。ちょっと妬けるかも」
「これ以上アツくなったら死ぬぞ澪」
「キュン死にするぞってこと?」
「そこまでキザじゃねえよ」
こうなればどうにでもなれ、だ。
投げやりじゃないけど、計画的でもない。
流れに身を任せるってやつもまた、平穏を享受するために必要なことだ。
そうに違いない。
俺は最初から順を追って話した。
入学式、初めて梔子と視線を合わせたこと。
その時から神様に憑かれていたということ。
図書室で梔子が助けてくれたこと。
感情を失っているということ。
個性を失っているということ。
俺と南戸で、神様を追い払ったこと。
残りの感情を取り戻すために、俺はいま梔子の彼氏をしているということ。
話にすればそう長いことではない。
ただ、すこし気恥ずかしい。
この場に白々雪がいないことだけは救いだったのかもしれない。神様を追っ払った手段だけは詳しく言 わなかった。澪は好奇心を優先させることはせず、黙って聞いてくれた。
ひととおり話し終えてから、ようやく澪は口を開いた。
それは過去の質問ではなかった。
すごく単純で、ひどく直接的な質問。
「経緯はわかったよ。だからひとつだけ質問させて梔子さん」
『なに?』
「あなた、ツムギくんのこと……好き?」
好き。
たったの二文字。
言葉にすれば、これほど簡単な感情はない。
しかし梔子詞にすれば、これほど難しい感情はない。
……梔子は、首をかしげたのだ。
澪はため息をついた。
「好きがわからないなんて……それ、本当に恋人って言えるのかな? わたしはそんなふうには思えないよ。ツムギくんはただ梔子さんの感情を取り戻すために恋人をしてるのなら、梔子さんの恋人役は誰でもいいんじゃないかな? ねえ梔子さん、そう思わない?」
『私は……わからない』
梔子は無感情に、床を見つめていた。
「たしかにツムギくんが、すでに梔子さんの感情をふたつ取り戻すことができたのなら、それは間違ってない選択だと思うよ。わたしが口を挟むこともないし、ふたりが納得してるのならむしろ祝福する。だけど、それは梔子さんがツムギくんのことを好きな感情があることが前提だと思うの。それが礼儀であって義務なんじゃないのかな。誰かの恋人っていうのは、気持ちがなくてもなれるほど軽いものじゃないと思うの。……それがないのに、梔子さんがツムギくんの彼女を名乗るのは…………」
澪はじっと、梔子顔を見つめる。
どんな些細な感情の変化も見逃さない――そう目が語っていた。
「…………わたし、許せない」
許せない。
そこに含まれていたのは、どういう意味だろう。
俺にはわかるはずもない。
優等生は物事がきっちりしていないと許せないのだろうか。
それとも、ほかになにがあるのだろうか。
俺には知るよしもないことだった。
知る勇気も、ないことだった。
だから。
『……そう』
梔子が決心するのを止めることなんてできなかった。
『なら久栗くん。私には、久栗くんの彼女でいる資格がない。そもそも流れに身を任せて久栗くんの彼女になることを約束しただけ。そんな私が、久栗くんのためになにかできると思わない。久栗くんを失うのは怖いけど……でも、それも怖いだけ。怖い以外になにも感じられないの。久栗くんがほかの誰かと恋人になっても、許せないなんて思えない。そんなに怒れない。だから、そんな不完全な感情しかない私が久栗くんの彼女でいるなんて、ダメなことなの』
「……梔子」
『だから、私は久栗くんの彼女じゃない。私はもう久栗くんの彼女じゃないから……だから久栗くんは、自由になって。好きなだけ平和を満喫していいの。……これでいい?』
いい?
と問われて。
俺は、否定することはできなかった。
自由な時間。
平和な時間。
たしかに梔子と出会ってから、平穏が短くなった。梔子の彼氏になってから、バレないように気を回すことが増えた。こっそり家に行くのも、こっそり一緒に下校するのも大変だった。
……ああ、俺こそ、最低な彼氏だった。
なにも言うことができない。
澪と目が合う。
澪はすこし申し訳なさそうだった。まさか梔子が即断するとは思ってなかったのだろう。梔子がこれほど行動力のある少女だということを、知らなかったのだろう。
でも、これは澪のせいじゃない。
いつか突きつけられることになっていただろうから。
俺と梔子の関係は、いびつなものだってわかっていたから。
だから、俺はうなずいた。
「ああ……わかったよ」
だから俺と梔子の関係は――
『でも』
と。
梔子はメモ帳を掲げた。
俺と澪に見えるように、力強く掲げた。
『いままではそうだったかもしれない。私は久栗くんのことを好きじゃなかったかもしれない。好きっていうのが、どんなものかもよくわからないから。だから彼女はやめる。彼女ではなくなる。……だけど、これからもそうだとは言ってない』
澪が目を見開いた。
『これから、私はあなたや白々雪さんと同じ立場になる。その立場で、正々堂々とツムギくんのことを好きになる。好きになってみせる。そうすれば私は久栗くんの彼女になる資格を手にできるから。そうすれば久栗くんを失わなくてすむから。だから澪さん。あなたには負けない。白々雪さんにも負けない。私はあなたたちに勝ってみせる。勝って、きちんと久栗くんの恋人になってみせるから』
梔子は右手を差し出した。
小柄な少女の伸びた手を、澪は驚いて見つめていたが、すぐに口元をゆるめると、
「望むところよ、元カノさん」
しっかりと握りしめた。
こうして夏休み初日、俺は彼女に振られた。
振られて、好きになると宣言された。
それは成就するのかわからない。好きという大きな感情を取り戻すことができるのかはわからない。俺が……俺なんかがそれを手伝っていいのかもわからない。
だけど、ひとつだけ思った。
澪
こいつには不思議な魅力がある。
学校中のやつらから好かれ、あの仲良くなるのが難しい白々雪とでさえいまでは馬が合うようになっている。疎まれているものの嫌われていない。澪には他人を惹きつけるなにかがある。それは素質か、はたして努力の結果かはわからない。
どれだけストーカーをされても、どれだけ腹黒いところを見せられても、俺もこいつのことは嫌いになれそうにない。
そんな予感がする。
だからこそ、澪は優等生なのかもしれない。
嫉妬されることのない立ち位置。
同性からも好かれるような立ち振る舞い。
品行方正、文武両道。
ただほんのちょっと、恋に惑わされてきた少女。
妖精を魅了した過去をもつ、銀色の髪の美少女。
それが澪=ウィトゲンシュタイン。
だからこの夏休みの前半戦、俺が振り回されることになるこの物語の主役にはこいつがぴったりなのだ。
俺だけでなく、こいつ自身も振り回されたこのコイバナシ。
これにひとつキャッチコピーをつけるのなら、これが適しているのではないかと思う。
〝優等生と、恋わずらい〟




