15話 キス
南戸の本名は青蛇の呪いの際に奪われたため、すでに存在しない。
世界から欠落した記号の代わりに、南戸はいろんな偽名を使い分けていた。南戸というのは彼女が本名を失う直前に使用した最後の偽名だった。だからいま、彼女の名前は、間違いなく南戸だ。
夜も深まってきた。道場の窓の外から虫の鳴き声が聴こえてくる。
「……アタシは、青蛇の呪いに利用されてるだけだ」
青蛇が南戸の体のなかへと姿を消すと、いつのまにか自我を取り戻していた南戸は、ワイヤーに縛られたまま静かに語り始めた。
「そもそも梔子クンが青蛇の呪いを受けている理由は、梔子クンの両親に起因する。梔子クンの両親はいわゆる放任主義者だった。幼い梔子クンに対して愛情を注がず、ふたりで旅行に行って数カ月返ってこないこともザラにあった。過保護が素晴らしいとは口が裂けても言いたくないが、それでも放任よりはマシだろう。親は、子どもを育てるために親になったんだからな」
南戸は、ちらりと俺を見る。
俺は黙ったまま南戸を見おろす。
すこしだけ視線が交わる。
「……アタシがそんな梔子クンと出会ったのは、中学三年の頃だった。梔子クンもそのころはすでに中学一年だった。アタシはその頃から、美貌と知略を活かして、他人を騙し男から金を搾取して生活していた。この街の遊園地に来たのはその一環だったよ。……アタシはここで梔子クンとの出会った」
南戸は自嘲するように鼻を鳴らす。
「梔子クンは、遊園地のとなりにある公園の、紫陽花の花壇のなかで倒れていた。観覧車からそれを見たアタシは大慌てだった。誰かが死んでると思った。とにかく急いで花壇に向かい、梔子クンを抱き上げた。そのとき梔子クンは紫陽花の葉を食べていたんだ。毒があるのにも関わらずに、むしゃむしゃと。それはなぜかわかるかい、久栗クン?」
「いや……」
「飢えていたんだよ。両親がいない。食料はない。金もない。あるのは広い屋敷だけ。手入れもされていない屋敷に食べられる草花があるはずもなく、梔子クンは手近な公園で、なにか食べるものを探していた。中学一年の女の子が草を食べるだなんて、笑い草にもなりやしない。……いまの梔子クンにも、その頃の記憶はわずかに残っているらしい」
「…………。」
梔子はうなずいた。無感情の瞳が、すこしだけ揺らいだ気がした。
「アタシは驚いたよ。こんな裕福な家庭の子が、飢え死にしそうになってることに誰も気付いてない。そりゃそうだ。梔子クンには親戚も友達もいなかった。両親はいるが、姿はない。アタシは驚いたあと、呆れた。そんなんでどうやってこの先、生きていくつもりなんだよ。そう言ったら梔子クンはこう答えた。『でも、どうやってお金を稼げばいいの?』そんなもんアタシにとっては簡単だ。美人は金に困らない。……だが梔子クンは他人を謀って生きる方法を知らない。アタシは迷ったよ。まっとうな金の稼ぎ方を教えるべきか、それとも他人を騙すことを教えるべきか。……だが答えはひとつしかなかった。なんてことはない。アタシができるのは、他人を騙して金を得ることだけだったからな。中学三年ですでに性根が腐ってるアタシにとって、年下の女の子をまっとうに教育できるはずもない。だが、見捨てることはできなかった。
そこからは言った通りだ。アタシは梔子クンを教祖として配し、家に帰らない両親を言いくるめて道場に教団を創り、そこらの頭脳や心の弱いやつらを信者にして金を稼いだ。犯罪だと知覚できないくらいの少量の金を、多くの信者から長い期間に渡って奪い続けた。……そうしていくうちに、妙な話を聴いたんだ。昔からある小さな宗教団体の信者のひとりが、その神を真っ向から否定して、呪われたと。ざまあみろと思ったよ。軽々しく神を扱うからそうなるんだ、とね。そのあとすぐにその団体が潰れたときは驚いた。潰したのが、梔子クンと同じ歳の少年だったということもすぐに調べた。……じつはキミのことは二年前から知ってたんだぜ、久栗クン。同じクラスの少女のためにぶっ飛んだことをするやつもいるもんだなあと感心していたよ、他人行儀にな。
だが、神の呪いはひとごとじゃなかったんだ。あるとき梔子クンが、記憶も感情も言葉も失くして帰ってきた。まるで幽霊のようだと思ったよ。その原因が、おそらくキミにあるということまでは、状況から察してなんとなくわかった。だがなぜそうなったのかはわからず仕舞いだった。アタシは梔子クンの失ったものを取り戻そうと、いろいろとやることになった。金も知識も時間も随分つぎ込んだが、梔子クンはもとに戻らなかった。一体何が原因で、梔子クンがそんなことになっているのか、想像すらできなかった。三か月ほど苦心して、それも無駄に思えてきた。
答えが見つかったのは梅雨も終わりの頃だった。梔子クンが手を怪我して帰ってきた。事情を問い正して……アタシは驚いたよ。梔子クンはとっくのむかしに神に憑かれてたことに、ようやく気付いたんだからな。それは紛れもなく、神の名を騙って教祖をしてきた影響だった。……ああ、そうそう。キミが梔子クンの記憶を奪ったのは間違いないようだが、それはキミのせいではないぞ。入学式のあの日、キミを見た梔子クンは自分に憑いていた神に〝自分の個性〟を捧げて、ナニカを願ったようだ。その結果として、梔子詞としての記憶と感情、そして梔子詞という名前のせいで言葉も失ってしまったようなのでね。そのときの願いはアタシの知り得る範疇にないことゆえに、詳しくは知らないが。……とにかくそのとき梔子クンは憑いていた神となにかしらの契約を交わした。それはもう、誰の記憶にもないことなので、知る術はないがな。
とにかく。まだそのときは梔子クンは憑かれていただけで、こんなふうに呪われてなんかいなかった。ただ梔子クンと契約した神が、梔子クンの周囲をうろついているだけだった。あのドイツの精霊のように、ストーカーのように。梔子クンは怖がっていたが実害はなかった。そんな状況が一変したのがついこの前のことだ。……ドイツの精霊は愛を知っていた。だが、梔子クンに憑いた名もない神は愛というものを知らなかった。なぜなら梔子クンがそれまで愛情というものを知らなかったからだ。愛というものをどうにかして理解したい。その神の好奇心は、しかし、歪んだものだった。それは当然だろう。ドイツの精霊の歪んだ愛を模倣したんだからな。……名もない神は愛の概念を知るために、なんとアタシの体を奪おうとした。その体で、梔子クンを愛そうと願っていたんだ。
もちろんそれは失敗した。アタシは抵抗したからな。神と戦った経験は初めてだった。体のなかに異物が入ってくる奇妙な感覚はまだはっきりと覚えている。アタシはなんとか神の顕現を阻止することは成功したが……それで怒ったのは神だった。鳴かぬなら殺してしまえホトトギス……あろうことか、神は梔子クンを呪ったんだよ。それも体を乗っ取ることを拒否したアタシに殺させようとしてな。青蛇なんていう古典的な使い魔をつかった呪いだった。――それが、先週の話だ。アタシと梔子クンは相談して、キミに手伝ってくれるように決めたんだ。こんなことは他人に言いたくなかったけどな……しかし、キミになら大丈夫だと梔子クンが断言するから……アタシはそれに賭ける」
ふぅ、と息をついた南戸。
梔子が手帳をめくって、
『ごめんなさい。迷惑ばかり』
南戸に謝った。南戸は卑屈に笑う。
「なぜキミが謝るのかアタシは見当もつかないぜ。そもそもアタシがキミを教祖として教団なんてものを築かなければ、キミが神と契約して記憶を失うことも、その神に呪われることもなかった」
『でも、あなたが私を助けてくれなければ、飢えて死んでいた』
「はっ。それは理屈が不十分だ。議論する価値はない。そんなことよりもいまは……」
南戸は、黙っている俺に向き合った。
「……久栗クン。キミがどうしてくれるのかが問題だ。アタシは手の内をすべて曝け出した。青蛇の呪いを解きたい理由も、経緯も、ひととおり話した。あとはキミに頼んで青蛇を消してもらうだけだが…………なんだね? 苦虫を咀嚼したような顔をして」
「いや、べつに」
正直言って複雑な心境だった。
たしかに南戸は、彼女の言った通りにいろんなことをやってきたのだろう。この梔子屋敷を使って他人を騙して、金を吸い上げた。それは紛れもない犯罪で、忌諱すべき行為だ。
だが。
なぜ梔子が南戸に従っている――いや、むしろ懐いているのかがようやくわかった。
南戸は、梔子のことをほんとうに大事に想っているのだ。梔子のために他人を騙した南戸。稼いだ金をつぎ込んでまで、梔子を治そうとした南戸。梔子を見捨てずにずっと同じ屋根の下に居座っている南戸。記憶がほとんどなくても、梔子はそれをわかっている。
そんな南戸のことを知ってしまうと、俺は、さっきのように嫌悪を向けることができなかった。悪人の隠れた良心に心を揺さぶられるとは、俺もたいがい甘すぎる。だがそれでも南戸に敵意を向けることはできなかった。
とはいえ態度を翻すことも、いまさら恥ずかしくてできない。
ただ無言で南戸を見るしかなかった。
「……その沈黙は了承の合図と受け取っていいのかい? キミには青蛇をアタシの体から引き剥がすために、少々荷が重い役割を受け入れてもらうつもりだが? それでもいいのか?」
もとより、南戸は俺がそれを拒否するとは思っていないのだろう。そしてそのとおり、
「……ああ。やるよ」
俺がうなずくと、南戸は当然とばかりに言葉を返してきた。
「ならば手段を講じよう。まずは、神の呪いというものの解き方だ。これにはいくつかの選択肢があるらしい。ひとつは、キミが中学の頃に行ったように、信仰そのものを消し去ることにより大元である神の必要性を否定――つまり存在意義から殺すことだ。だが、今回の神は信仰によって生まれたものでも特殊な事例だ。虚数計上に神をつくり上げたアタシと梔子クンが生きている限り、この神が死ぬことはない。ならばどうするか。――選択肢その二、梔子クンかアタシが気力で呪いを打ち破る……そんな荒技ができるはずもないので却下。――選択肢その三、神を説得して解呪してもらう……直接話ができるのは梔子クンだけだが、梔子クンはそもそも会話できないので却下。なら、選択肢その四。ここで前提を覆す」
南戸はワイヤーで拘束されたまま、自信満々に言い放った。
「――神の願いを叶える。そうすれば呪う必然性が消える」
俺は首をひねった。
「……つまり、どうするんだよ?」
南戸は、またクククと声を漏らした。
そして満足したような顔つきで、
「簡単なことだよ。キミたちふたりで、愛とはどんなものかを実演してみせればいい。神にわからせてやれ。愛するということがどんな快楽を伴い、苦痛を伴うものかを!」
それは意地の悪い提案――いや、指示だった。
もちろん南戸が言った言葉がどんな意味を持つのか、俺には察しがついていた。
それでも、確認せざるをえない。
「……それって、まさか……」
「ああ、キミの想像通りだ健全な男子高校生。……愛は子孫繁栄のための欲求だぜ? 幸いなことに、ここには清潔な布団もある」
「いやいやいやいや!」
俺は慌てた。
「まて! じゃあなにか? いまから、ここで、俺は梔子と――……」
その先は言えなかった。想像してしまい、ぐっと言葉に詰まる。
南戸は愉しそうにケラケラ声を立てた。
「そう焦るな少年。無論、ほんとうにやれというわけじゃねえ。あくまでフリでいい。梔子クンに憑いている神は愛する行為とはどんな具合か、が気になっているだけだ。言ってみれば愛の概念を知らぬ神の好奇心であり、決して交配行為を研究したいわけじゃねえ。布団に入って、手を繋いで、キスでもしろ。それで神が満足しなけりゃ、ちょっとお互いを慰めてやればいい。それだけだ」
「そっ――」
それだけとは、軽く言ってくれる。愉しんでいるだけとしか思えないその口調に、俺はつい言い返しそうになる。
ぐいっと梔子に腕を引かれた。
『これが、唯一残された解決策だから。お願いします久栗君』
「いや、でも――」
とまた反論しようとすると。
梔子は、おもむろにポケットに手を突っ込んで、ペンを取り出した。手帳になにか書き込む。それまでの文章は、俺の反応を見越して用意していたものだったのだろう。どうりでなにも書かなくても意思表示できるはずだった。だが梔子は新しく一文を書き足した。それを俺に向ける。
『もう時間がないの。青蛇が、あのひとを支配してしまうまで。今日は顔まで青蛇に変化してしまった。猶予がないの。私はあのひとを失いたくない。だから、おねがい』
俺は息を呑んだ。
……なぜ、梔子はまだ南戸をワイヤーで括ったままなのか。俺はそれを失念していた。
もう青蛇は南戸のなかへと消えたのに、なぜか。――簡単だ。いつ出てきてもおかしくない状況になってしまったのだ。梔子のいうことには、たぶん昨日までは大丈夫だったのだろう。それなのに南戸は、おかしそうに笑ってはやしたててくる。まるで大したことじゃないと思わせるように。
……なんてやつだ。
俺は、恐怖に濁った梔子の目を見つめ返した。
「…………わかった。やってやる」
「順応力が高いね少年! さて梔子クン、布団の準備だ!」
ひとり面白がるようにして叫ぶ南戸は、しかし、まだワイヤーを体に喰いこませたままだった。よくみれば、ワイヤーが当たっている皮膚が赤く染まっている。ところどころ血も出ていた。青蛇が傷つけた南戸の肉体のことなんて、俺はまったく気にしていなかったことに気付いて……いたたまれない気持ちになった。
梔子は、道場の押し入れからそそくさと真っ白な布団を出して、道場の床に広げる。それだけでなく、同じ押し入れから蝋燭や、しめ縄を取り出して、道場のなかに均等な間隔に置いていく。しめ縄は道場の北側に張り巡らせる。道場の電気を消すと、あっというまにどこかの儀式のような雰囲気になった。
……ちがう。これは、まぎれもなく儀式なのだ。神を満足させるための、奉納の儀式。
俺は固唾を呑む。
ふざけてやっているわけではないのだ、と拳を握る。
「禁止事項が幾つかある」
梔子が準備をすすめるなか、南戸が真剣な表情になって言った。
「一つ、決して涙を流すな。愛を語るときに涙を見せるな。神が疑う。
一つ、決して笑うな。梔子クンは真剣だ。真剣に考えてこの案を受け入れた。キミが躊躇ったり、要らぬ情をほだしたりするな。
一つ、儀式が始まったなら、決して名を呼ぶな。とくにフルネームを神に知られることはすなわち支配されることと同義。神の面前で梔子クンの名を呼んだが最後、彼女は神の手に落ちるだろう。これだけは絶対に守れ。守らなけらばアタシのように体を乗っ取られる。アタシは名前を知られたからこそ、こんな醜態を晒す羽目になっているんだ。こんな気持ちを梔子クンに味あわせるわけにはいかねえ」
「なまえ……?」
と。俺はそこで思いつく。場違いな質問かもしれないが。
「それって、精霊に対しても同じなのか? 名前を知られたら精霊にも支配されてしまうのか? だから南戸はあのとき偽名を名乗ったのか?」
「そうだ」と首肯する南戸。「神でも悪魔でも精霊でも同じこと。相手の名前を知ることは命を握ることと同義だ。それくらい聴いたことあるだろう」
「じゃあ、なんで澪は無事だったんだ? あいつ、精霊の目の前でフルネームで何度も呼ばれてたはずだろ?」
「彼女がハーフブラッドだからだ。澪という真名は、発音はともかく筆記はドイツ語のスペルじゃなく漢字だろう? ドイツの精霊が英語ならまだしも漢字を理解してると思うか? 名前は正しく認識しなければ固有名詞になりえない。彼女はある意味、幸運だったんだよ」
なるほど。それなら納得できる。
「顕現させた神の前で梔子クンの名を呼ぶことの危険性を理解できたか? ……キミがついうっかり興奮したはずみで名を呼ばないとも限らないのでな、忠告しておいた」
興奮したはずみとは。失礼な。
「……俺の理性を舐めんなよ」
「梔子クンの魅力を舐めるなよ」
そうこう言い合っているうちに、梔子は準備を整えたようだ。
いつのまにか、梔子はジャージじゃなくて白い浴衣に着替えていた。蝋燭しか灯っていない暗がりで見るとバスローブのようにも見える。その梔子が、三つ指をついて布団の横に正座していた。
演出にしては凝り過ぎだが。
しかし、布団の周囲を囲んである蝋燭と、視界の隅にちらつくしめ縄が、やはり儀式めいた雰囲気を醸し出している。俺は緊張しながら、梔子の隣にいく。
「いいか、決して名前を呼ぶなよ?」
念を押す南戸。
俺はうなずいた。
梔子が布団の横に置いてある手帳をめくる。
『では、私はいまから神と通じます。久栗くんの姿を正しく神に認識させる必要があるので、布団に寝転んで、私の手を握ってください』
いよいよ始まった。
言われたとおり布団に寝転がる。柔らかい羽毛の感触。布団の端に寝転がった俺の手のひらに、梔子の小さな手がそっと触れる。
柔らかかった。
いつか白々雪のふとももを触ったことを想い出した。あのときは弾力のある柔らかさで、かなり肉感的な印象だったが、梔子の手は握れば零れてしまいそうな儚さがあった。俺はできるだけ優しく包むように握った。
なんだろうか。言葉にできない緊張感が溢れてくる。
梔子は布団の横に座ったまま、じっと祈るように目を閉じていた。すこし怯えたような表情なのは気のせいではないだろう。この少女は、恐怖だけはちゃんと感じることができるのだ。
怖がりつつも神に祈る巫女のような姿に、俺は魅入ってしまう。
白くて小さな体。この体で、俺を二度も助けてくれたのか。一度目は、手に怪我を負いながらも。正直、恩に感じた以上に……嬉しかった。
俺はつい、手に力を込める。
「……。」
梔子は、薄く眼を開けて俺を見た。
しばらく、俺と梔子は見つめ合う。
「そろそろ、神がこちら側に降りてきたか?」
背後で南戸が訊いてくる。梔子はうなずいて、視線を枕元に動かした。俺もつい梔子の視線を追って――呼吸が止まった。
枕元の蝋燭の上に、ぼんやりと、なにかが浮かんでいた。
なにか――と漠然に言ったが、それは人型をしていた。人間の形の神。それが俺の頭上に浮かんで、俺と梔子を見おろしていた。よく見れば梔子とおなじくらいの体格で、髪型も同じだった。これが、梔子に憑いている神。
梔子から個性を奪った――神。
『この空間は、神と通じました。儀式を始めます』
手帳の最後から二番目のページを、梔子がめくって枕元においた。
俺は、いつもの梔子のように、無言でうなずいた。
手を繋いだまま梔子が布団に潜り込んでくる。布団と衣服が擦れる音がやけにはっきりと聴こえた。あと、心臓の鼓動の音も。
となりに寝転んで気付く。思っていたよりもさらに梔子は華奢だった。梔子は自分の表情を前髪で隠しながら、顔を見ないように俺の胸元に寄ってきた。梔子の体は俺の腕のなかにすっぽりと収まりそうなほどだった。
つぃ、と梔子は繋いだ手を指先で撫でる。俺の体温を確かめるような、そんなふうだった。そのまま少しずつ俺に近づいてきて、ついには繋いでないほうの俺の片腕を、枕にするようにして寄り添った。
俗にいう腕枕状態だった。そのなかで、梔子は顔をすこし上向きにした。
前髪の隙間から、潤んだ目がこっちを見ていた。
なにかの香りがした。
甘い香りだとかではない。女の子から甘い香りがするなんて、そんなのは香水かシャンプーだろう。そういう人工的な匂いではなく……鼻腔を撫でるような、くすぐるような、独特な香り。それが女の子特有のフェロモンだと――俺はまったく気付かなかったが。
だがその香りが漂ってきた途端、梔子を抱きしめたくなるような感覚に襲われる。俺は梔子と目を合わせたままその衝動に耐えた。
梔子は俺の胸元で、空いたほうの手をぎゅっと握りしめた。
緊張しているのがわかる。
俺は、梔子の頭の下に回している腕を、すこしだけ引き寄せた。抱きしめるようにして、梔子との距離をさらに縮める。
「…………。」
すぅ、と梔子が肩に力を込めて息を吸った。
こんどは梔子から、俺に近づいてくる。
布団の上で、足が絡まる。梔子が遠慮がちに俺の脚の上に、太ももを乗せてくる。慎重に、しかし確実に、ふたりの触れる部分が増えていく。
蝋燭の炎が、ゆらり。
梔子は長い前髪を、自分の手で払う。
……初めて梔子の顔をちゃんと見た。
すこし幼げな印象が残る、可愛い少女だった。
写真で見たようなはっきりとした表情はなかった。だが、完全な無感情というわけではない。わずかに梔子の瞳が揺らいでいる。
梔子はゆっくりと、俺の首に手を回してきた。
見つめ合ったまま、じわり、と顔の距離が近づいていく。
……だが、鼻先が触れあうところまでくると、どちらともなくぴたりと止まった。
「ほら、さっさとキスくらいしろ」
じれったいのか、茶化すような南戸の声は、俺の耳にはまったく入ってこなかった。梔子も俺を見るのに必死で、その言葉には反応しなかった。緊張と、恥じらいと、なぜかすこしの恐怖が、俺をその先へと踏み出せずに静止していた。こんなことをするなんて予想もしてなかった俺はもとより、覚悟していたはずの梔子も、躊躇っているように俺を潤んだ目で見るばかりで動かない。
鼓動の音だけが、ふたりぶん、やけにはっきり聴こえてくる。
…………梔子は、ふつうの女の子だった。
そんなあたりまえなことを、俺はようやく思い知った。
無口だろうが、クラスで浮いていようが、神に祟られていようが。
梔子は女の子だった。俺の腕の中で、かすかに震える女の子だった。
「……怖いか?」
俺は静かに訊いた。
梔子は、首を横に振った。
嘘だ。梔子は怖がっている。
「……やめたいか?」
梔子は、首を横に振った。
たぶんそれは本当だ。覚悟した表情は、変わらない。
記憶を失って、言葉を失って、感情を失って……。
そんな梔子がさらに神に祟られて、どれだけ怖かっただろうか。
その恐怖から、すこしでも遠ざかるために、せめて神の祟りを鎮めるために、こんなことをしなければならない。怖くないはずがない。
……嫌じゃないはずがない。
だが、梔子は決意している。
俺がほんとうは臆病だってことは、梔子は知っているだろう。平和好きという建前の、ただ日常の変化を怖がっているだけのつまらない男だということも、たぶん、わかっているだろう。
だが、梔子は俺を呼んだ。
この役回りに俺を選んだ。
なら、俺がリードしてやらないと。
恥ずかしがってる場合じゃない。躊躇っている場合じゃない。梔子は命をかけた瀬戸際にいる。ここで恩を返せないほど、俺は……俺は。
久栗紡は、臆病じゃない。
「……いくぞ」
梔子の頬に手を添えた。柔らかくて、暖かくて、どこか安心する。
梔子はそっと目を閉じた。長い睫毛が、ぴくりと震えた。白い肌に、小さな唇。ほんのわずかに化粧をしていた。やはり、梔子は女の子だった。
俺は、そっと。
梔子の薄い桃色の唇に。
触れるようにキスをして――
「この瞬間を待ってたぜ! 久栗紡クン!」
突如、南戸の叫び声が響いた。
――え?
俺は梔子にくちづけをしたまま、身を硬直させる。
南戸が、いま、俺の名前を呼んだのだ。
それがどういう意味なのか。
それは、さっき聴いたばかりで覚えていた。
南戸は嗤う。
「いやはや、キミは純粋だな久栗クン。愛を知りたい神に対して、愛し合うフリだけで解決するとでも思ったのか? 梔子クンですらそんなことは無理だと確信していたぜ? キスで神を鎮められるなんて笑い話にしかならねえぞ。そんな与太話を信じてくれたことは嬉しいが、キミの将来に些か不安を抱かざるを得ない。方法論がひとつしかないと信じたキミは、驚くほど従順になってくれることが証明された。これでアタシがヒットラーほどに残酷なら、キミを利用してもっとむごいめにあわせてしまうだろうよ」
どういうことだ――と、俺は言おうとした。だが、梔子にぐっと唇を押し付けられて、俺はなにも言えなかった。梔子は必死に、俺にキスをし続ける。どこか切羽詰まったような様子で、義務感のように。まるで自分の匂いを、俺に染みつけさせるように。
南戸はワイヤーに縛られたまま、
「聴いたばかりで忘れたか久栗紡クン」
俺と梔子の様子を眺めて、嗤った。
「アタシは、詐欺師だぜ?」
――騙された。
俺がそう気付いたときには、遅かった。
ずにゅぅうっと。
なにか異物が俺の脳に侵入してくる感覚。吐きそうになるほどの不快感。
さっきから頭上に浮かんでいた神が、嬉々として俺を支配していくために潜り込んでくる。けたたましい笑い声が聞こえた気がした。幻聴だろうか。圧倒的な不快感。
だが、その感覚はすぐに消え去た。
なぜなら。
俺は、意識を失ったのだ。




