10話 まちがわない
少し息があがるほどの速さで街を横切った。
廃墟になったパチンコ屋の駐車場に潜り込み、自転車を止めた。もしあの男が追ってきてこのパチンコ屋の建物を迂回すれば、すぐに俺たちを発見できるだろう。見晴らしは上々で天気も良く、遮蔽物がない駐車場のど真ん中なんて隠れる場所じゃないと思ったが、どうやら澪は広いところじゃないと不安らしく、しばらくここに腰を落ち着けることにした。
「……で、大丈夫か?」
俺はあぐらをかき、視線を上げる。
澪は自転車の荷台に横向きに座り、足をぶらぶらと振っていた。動揺はいくらか治まったようで、申し訳なさそうに頬をかいて答えた。
「ごめんねツムギくん。……なんだか、迷惑かけちゃったね」
まったくだ。
だが、それよりも。
「あいつなんだったんだ? 澪のストーカーか?」
転校生とストーカー。俺は発想力が乏しいので、そんなありきたりな組み合わせしか考えつかなかったが。
澪は遠慮がちにうなずいた。
「そうともいえるの……かな。ストーカー……うん、たしかに、ずっとつきまとってるから、そう呼べるのかな」
不快そうな口調で――しかし、顔にはなぜか笑みを浮かべて、
「でもね、そうじゃないの。ストーカーだけど……ストーカーじゃない」
「どういう意味だ?」
「あれは、インスブルックからずっとくっついてきてるから」
オーストリアから日本まで。
それはストーカーの範疇を越えている。なんて呼べばいいのかわからない。
異様な状況。
「……ちょっと待て。もしかして、澪が日本に来たのって――」
「うん。……あれから、逃げるため」
荷台に足を乗せて膝を抱えた澪。
「でも、やっぱりダメみたい。日本に来て、前の学校でもやっぱりいつのまにか近くにいて、この街にきてもダメだった。国とか、土地とか、ぜんぜんあれには関係ないの。気付けばああやってすぐ近くで、わたしを見てるんだもん。それにね、なんかわかんないけど、少しずつ近づいてくるみたい。いつもはもっと離れたところから見てるだけだったのにね、きょうはすごく近かった。……怖いよ……。このまま少しずつ近づかれて、いつか、殺されちゃうのかなぁ……なんて。あはは」
渇いた笑い声で、にこにこと笑う澪。なぜ笑っているのか、まったく理解できん。
正気じゃないと思った。澪も、あの黒いコートのやつも。
「ねえツムギくん。ごめんね。まさか、こんなはやくに見つかるとは思わなかったから。ごめんね。迷惑だよね、気持ち悪いよね。でも、みんなには内緒にしてて欲しいの。クラスのみんなもすっごく良い人たちだから、心配かけたくないし、嫌われたくないし、だからツムギくん、このこと、内緒にしててね?」
立てた膝に顔を乗せて、澪は力なく言った。色素の薄い髪の毛がさらさらと風に流れた。
俺には、澪が言ってることが理解できなかった。
たったひとりから逃げるために国を越えて、転校を重ね、逃げる。意味がわからん。警察はどうした? オーストリアの国家公務員はひたむきで勤勉だと聴いたことがある。国民の税金から金を貰ってるんだ。そうでなくとも、高校生の少女を守るくらいの仕事はしろよ。ストーカーのひとりくらいどうとでもなるだろう。それなのに澪は、なぜ国を越えてまで逃げ、追いつかれて、あきらめてるんだ。
しかし澪は、疲れたように笑う。いや、疲れたように見えるのは事情を知ってしまったからだ。その笑顔は教室のときと同じく、誇大された微笑みだった。
やはりその笑顔は……詐欺だ。
俺はなぜか腹が立った。
ストーカーのやつではなく、澪に対して。俺は平穏が大好きで、こういう事態でも笑顔で悟ったように言う澪が、許せなかったんだと思う。異常な状況をそのままにしておく――それを想像するだけで無性に腹が立った。だからこそ、俺はつい声を張り上げた。
「なんでだよ? おまえ、なんでここまで逃げてきたくせに笑えるんだよ。なんだよ内緒にしてくれって。意味わからん。そもそもストーカーだろ。おまえが悪いんじゃないんだから、なんで我慢してるんだよ。平凡でぬるい日常を手に入れるためにできることならなんでもやるのが人間だろ? おまえはそうじゃないのかよ。なんでへらへら笑ってるんだよ」
「だって、どうしようもないの。笑うしか、できないよ」
「そんなもん――」
俺は否定したかった。悟ったような澪の言葉を、事情も知らないくせに否定したかった。それが正しいと思った。いくら相手が気味の悪いストーカーだとしても、そこまで卑屈で矮小な態度でいいはずがない。俺はそう思って、澪を否定しようとして――。
息を呑んだ。
いつの間にか、澪のすぐ後ろに黒いコートが立っていた。
「――澪っ!」
俺はとっさに、澪の手をとって走り出した。澪はいきなり走る俺に、なにか言おうと口を開いたが、背後を一瞥して状況をすぐに察して笑顔を崩し、懸命に足を動かした。
俺は駐車場を走りながら、肩越しに振り返った。
黒いコートは俺の自転車のすぐそばに佇んでいた。黒いストローハットのような被り物の下で、濁った眼が煌めいている。男か女か――近くで見ても判断がつかなかったが、とにかく背が高い。
……そう、背が高いのだ。近づいてくれば、すぐに気付くほどに。
なのに、なぜ気付かなかった?
俺は駐車場を走り抜け、廃屋になったパチンコ屋を迂回する。建物の反対側は大通りで、そこまでいけば入り組んだ住宅街に入っていける。
だが。
建物の角を曲がった俺たちは、そこで脚を止めた。
目の前に、黒いコートがいたからだ。
……あり得ない。
つい数秒前まで、俺の自転車の近くに立っていたはずなのに。振り返ってみると後ろにいたやつはいなかった。消えていた。デカイ図体をまるで瞬間移動のようにして動かして、俺たちの前に現れたとしか考えられなかった。
まるで人間業じゃない。そんなことができるなんて――
と。
俺は閃いた。
……いや、まさか……でも、そうか。
そもそも、人間じゃないのかもしれない。
俺はすぐ澪の手をとったまま引き返す。とにかく冷静になる必要がある。俺の勘違いを修正する必要がある。固定観念を捨てる必要がある。
俺は訊いた。
「なあ澪! あいつは何なんだ? 人間か?」
澪は答えた。
「ううん。たぶん、ドイツの妖精」
――妖精?
俺は場違いな単語に耳を疑った。しかし、澪は走りながら言葉を続ける。
「ドイツの湖の妖精だと思う。わたし、ドイツに遊びにったとき、湖で悪いことしちゃって妖精を怒らせたの。最初は妖精なんて信じてなかったけど、家に帰ってしばらくしてからあいつが姿を見せるようになって、ようやく気付いた。妖精が怒ってるんだって。あいつからはムンメル湖の匂いがするから、きっとそうよ。わたしに罰を与えようとしてるの。じわじわと追い詰めて、いつか、わたしを湖の底に引きずりこむのよ! だから、怖いの。でもいくら謝っても許してくれないの! もうあきらめるしかないの! ごめんね、変なことばっか言って! でもウソじゃないの! 信じてツムギくん!」
はいそうですかと信じられる話ではない。
だが俺は考えてみた。いまの話の『妖精』という単語を……『神様』に変えたら。
……ああ、同じだ。
俺は想い出していた。中学三年のとき、白々雪にとり憑いた神のことを。
俺が白々雪と交流するようになったきっかけ。それが『神様』を巡る騒動だった。あのとき白々雪は、自分にとり憑いた神に恐怖し、精神が壊れかけ、支離滅裂な言動を繰り返していた。そのせいでクラスで孤立して、それがいっそう白々雪を壊した。
……あれと同じだ。理解できないものへの、理性では抑えられない恐怖。
だからこそ澪はあきらめざるを得なかったのだ。相手が手の出しようがない存在だと思って。
しかし、それは早計に過ぎる。
俺の経験が正しいなら、神様は間接的に危害を加えてくるのが関の山だ。たとえば野良犬をけしかけたり――そう、たとえば図書室のガラスを割ったり?――そうやって俺たちを怖がらせるだけだ。もしくは、体を乗っ取ってしまうこともあるが。ただし俺たちを物理的に殺すのは目に見えないものではない。精神を弱らせた人間自身が、神に体を支配されてしまい自ら――もしくは他者を殺すのだ。それこそが〝神罰〟で、それこそが〝祟り〟だ。
なら妖精だって、さほど変わりないに違いない。
俺は脚を止めて振り返った。
コートの男はぴくりとも動いた気配はなかったのに、すぐ近くに立っていた。
「ど、どうしたのツムギくん?」
いきなり止まって黒いコートと対峙した俺に、焦ったような声で話しかけてくる澪。
たしかについてくる黒いコート――妖精というより亡霊だな――と向き合うのはけっこう恐ろしいけど、しかし、俺にとってこの黒コートは〝理屈でねじ伏せられる恐怖〟だった。逃げていてもくっついてくるのなら、むしろ、止まって考えるほうが効率が良い。
黒コートを睨む。
さてどうしたものか。
俺はプロフェッショナルじゃない。すこしばかり神様とトラブったことがある、ただの高校生だ。
それでも経験がないやつよりは、多少冷静に思索できる。俺は考えようと頭を動かして――
「あ」
バカなことに気付いた。
俺は、この黒コートの正体を知らない。相手のことを知らない。戦いを乗り越えるには、まずは敵を知ることからだと孫子も言っているのに。
早計に過ぎるのは俺の方だった。
動揺している場合じゃないが、それでも落ちついている場合でもない。
どうしよう。まさか、「一回帰って、あんたのこと調べて来ます」なんて言えない。そうだ。俺には知識が足りなかったのだ。俺が中学のときに神様を退けられたのは、神様に憑かれていたのが白々雪桜子だったからだ。白々雪がデータベースとして秀逸だったので、俺はただ、編集ソフトとして動いたに過ぎない。
それを失念していた。俺は大莫迦野郎だ。
「…………ツムギくん?」
俺の後ろに隠れた澪が、眉をひそめて顔をうかがってくる。妖精とやらが直接なにかしてくるとは思えなかったが、しかし、それを証明することはできない。それに人じゃないナニカが、去年の図書室のようにガラスを割って飛ばすようなことをすれば、ここは駐車場で俺の手元にはなにもなく防ぎようが――
俺はそこで、脳裏にひとりの少女が浮かんだ。
そういえば忘れていた。あのときなぜか梔子が助けてくれたのだ。先読みして、機敏に動き俺と白々雪を守った。
「……梔子……」
手前勝手に。
俺は、彼女の名前を呼んだ。ただ呼んだだけだった。
そこに意味はなかった。
だが、なぜか呼んだほうがいいような気がした。それだけだったのに。
……それは偶然だったのだろうか。あるいは。
俺は、驚愕して、目を剥いた。
黒いコートの亡霊の後ろに、いつのまにか梔子がいた。
梔子は、まるでそこにいるのが当然のように、堂々とした立ち姿だった。大柄なトレンチコートの亡霊に隠れて気付かなかったが、そこには梔子が、長い前髪の隙間から小柄な体格とは不釣り合いな大きな瞳をギラつかせ、こっちを――俺を睨んでいた。
なぜここにいるのか。こんな、廃墟の建物の駐車場に。
頭のなかにワイダニットが駆け巡る。このときほど、俺がクラスメイトに戦慄を感じた瞬間はなかったが、それと同時に、頼りになると感じた瞬間もなかった。
「くちな――」
『おっと。黙りな少年』
いきなり。
高圧的だが耳に残る声が、梔子から聴こえてきた。俺は梔子の名前を呼ぶのを妨げられ、声にならない声で「……し?」とつぶやいた。
――まさかいまのは梔子の声なのか? 一言も話さないことで有名な少女の声が、アニメに出てくるような甘酸っぱいものなら、それはそれで話としては上出来だが。
しかし違った。
『神奇怪譚数あれど、そこに巡り合うのは、人間一匹生きていても往々にしてあるもんじゃないんだぜ? だが、その奇々怪々にそう何度も首を突っ込む高校生がひとりくらいこの街にいてもなんら不思議ではないかもしれんな。確率論にしちゃあ分が悪いが……人生は数学では計れない。そこが面白い。そうは思わないか?』
声が聴こえてくるのは、梔子が手に握っているケータイ電話からだった。
その声は、まるでいまここにいるような風体で嘯いた。
『そんな少年がひとりでこの状況に立ち向かう気概は、買ってやらんこともない。青春とは無茶をすることと同義だ。然し、無茶と無謀は違うと聴いたことはないか? 無策で敵を迎え撃とうとするのは傲慢だぜ。傲慢は大罪のひとつだぞ。梔子クンの情報から推察した印象には逸れた行動だが、まあ、キミも男の子ということか。いたいけな少女を守るために他国の精霊に立ち向かうなんて、ハハハ、随分と恰好吐けるじゃねえか。少年』
……誰だ?
俺の知り合いに、こんな大仰な話しかたをするやつはひとりしかいない。だが梔子のケータイから話すなんてまどろっこしいことはしないだろうし、そもそも声が全然違う。アニメ声のような高い声で、なぜか俺の頭の中には〝和室でふんぞり返る甚平服の女〟が連想された。それは、確信的な想像だった。根拠はないが、畳の上であぐらをかいて扇子を煽ぎながら電話を持つ女の姿がはっきりと浮かんだ。
「……誰だ?」
俺は眉間を寄せ、梔子を見る。
梔子はケータイを掲げて、声がよく通るように俺に向けた。
するとまるで俺の表情を見ているかのように、ケータイの向こうの女は喋る。
『おっと、済まない。自己紹介が遅れたな。アタシは……アタシは凡庸小型通信端末、つまり梔子クンのケータイ電話さ』
「ケータイが勝手に喋るわけがねえっ!」
『ってのは冗談で、アタシは梔子クンの保護者的な人間だ。名は……南戸とでも名乗っておこう』
「偽名かよ」
『偽名も名だ。あまつさえ真名を呼ぶとそれだけ不利になる状況だ。偽名の有用性はキミが思ってるほど多岐多様に渡るんだぜ?』
ちくいち口調がまどろっこしい。
それに、いまは偽名について論議している場合じゃない。緊急を要する電話じゃなければ、無視したいところだが。
するとそんな俺の心境をも読んでいるのか、
『焦るなよ少年。むしろ兆全だぜ。声だけとはいえアタシがそこにいるんだからな。ドイツの精霊の一骸くらいどうにでもなる。キミも安心し給え、澪=ウィトゲンシュタイン』
やけに自信に満ちた言葉だった。こちらの事情などとうに見透かしているような口調。
その言葉に、俺の後ろに隠れている澪はぎゅっと俺の腕を掴んだ。不安げに訊く。
「……あなた、だれですか?」
『精霊撃退機能付きのケータイ電話さ。……ま、いきなりアタシのことを信用しろっても無理な話だな。アタシはそれほど急いでないんだが、キミらが不安に思うのなら、ひとまずそこにいるドイツの精霊から、キミの姿を隠してやろうではないか』
と。
ケータイから聴こえてくる高い声が、一瞬、真剣な響きを見せた。
『いまからキミの名前を呼ぶ。それが真実であろうがなかろうが、キミは返事をしろ』
「え?」
『――やあ、元気にしてるかい、ビティア?』
ほんと唐突に。
いかにも嘘臭い偽名で、南戸は電話の向こうから澪に語りかけた。
澪はきょとんとして返事をしない。
もう一度、南戸が言う。
『なにを黙ってるんだ? キミはビティアだろう? 元気にしてたかい?』
すると、澪はなにかに気付いたらしい。ハッとして答えた。
「は、はい。そうです。わたしが、ビティアです!」
『やっぱりそうか。キミはビティアだな』
「はい。わたし、ビティアです!」
確認作業のように、何度も繰り返した。
なんの意味があって――と俺が口を挟もうか迷っていたときだった。
いきなり、黒い精霊とやらが、キョロキョロと周囲を見回した。それまでじっと澪しか見ていなかったのに、まるで澪を見失ったかのようにデカイ図体を動かして、やがては黒い精霊は――驚くことに、あっさりとその姿を霧散させて、虚空に消えた。
澪は驚嘆した。
「……すごい」
「なにがあったんだ?」
俺が訊くと、南戸はあっさりと、
『偽名を使うとはこういうことだぜ少年。なに、簡単な理屈だ。神様や精霊ってのは人間を識別するのに顔を見てるだけじゃねえ。名前も見てるんだ。キミ、それがなぜかわかるか?』
「……いや」
『名前は記号だ。知能があるものほど名を細分化させて世界を区別する。それは人間であっても精霊であっても同じ。つまり折節、アタシたち知能がある生物は、名前を頼りに物を見分けているということになる。わかりやすい三段論法だろ? その名前を誤認させれば、それは違う物にも見えてくるってことになるんだぜ』
まさか。俺は苦笑する。
「そんな単純なことで……」
『もちろんそれですべて誤魔化すことなど不可能。こんな手段は、数分の時間稼ぎにすぎない。精霊はすぐに戻ってくる。……ではさて、それまでに、キミに精霊の退治法でも伝授しよう』
「はい?」
俺は耳を疑った。
だが南戸は、気楽に言ってのけた。
『アタシがやっても問題ないが、キミはどうやらこういったバケモノ退治の経験があるらしいじゃねえか? どうせやるなら上達しろ。進化は生物の義務だぜ。……なあに、心配はいらない。精霊の一骸くらい殺しても、いまさらどうってことない。それともなにか。白々雪桜子のために神様を殺すことはできても、澪=ウィトゲンシュタインのために精霊を殺すことはできないとでものたまうか?』
嘲笑うかのような声。俺は言葉が出なかった。
なぜそれを知っている。俺と、白々雪の過去を。
『おいおい。神様殺しておいて、誰にも気付かれないとでも思ったのか? 神様ってのはどんな些細なやつでも、キミが考えてるより周囲への影響力がデカいんだぜ? アタシくらいに敏感になれば、どこのどんな神が死んだかくらい把握できる。誰がやったのか、その犯人もな』
「……でも、あれは、」
『安心しろ。日本での神殺しは罪じゃねえ。だから言い訳する必要もねえ。キミは少女をひとり守ろうとして、単に神を殺しただけだろ。人間を殺すのは犯罪だが、キミにとって喜ばしいことに、六法全書には〝人を殺すな〟と書いていても〝神を殺すな〟とは書いてねえ。だから罪悪感を負う必要もねえ。……なに、前と同じことをするだけでいいんだ。ただし今回はアタシが監修してやる。箱舟に乗ったつもりでいればいい。キミはただ、少女を守るためにアタシに従えばそれでいい。任せろ少年。アタシの言葉は間違わない』
「…………。」
こいつ……南戸の言葉を信用するべきだろうか。電話越しの初対面なんて小さじ一杯ほどの信用性しかない。やけに自信家なのも問題だ。
だが。
南戸はなぜか俺の過去を知っている。白々雪の過去を知っている。そんなことを知ることができる人間――しかも神を消したことを鼻で笑える人間が、いまこの瞬間、嘘をついているなんて思えなかった。
俺は、しばらく躊躇ってから訊いた。
「……それで、俺はどうすればいい?」
南戸は即答した。
『驚くほど簡単だぜ? 三分クッキングが難しく見えてくるくらいにな。精霊が戻ってくれば、キミはただこう言えばいい』
そのとき、電話の向こうで、南戸がニヤリと嗤ったのがわかった。
『――澪=ウィトゲンシュタインは俺の恋人だ、と』
「「……………………は?」」
俺と澪は、素っ頓狂な声を挙げてハモった。
南戸はケラケラと笑いだした。
『いや、勘違いしてるみたいだから言っておくけどな。キミたちが相手どってるのは、人間の少女に恋をしたただの湖の精霊だぜ? 湖でなにをしたからは知らねえけど、罪悪感のあるそこの少女と、神に殺されそうになったことのあるキミじゃ勘違いするのは無理ないが。しかし考えてみろ。湖の精霊がそうそう人に危害を加えると思うか? 状況から見て推理しろ。そこの少女は、精霊のストーカーに遭ってるんだろ? ストーカーの九割以上が恋愛絡みだぜ。そこは精霊だろうと人間だろうと大差ねえ。少女はただ、黒くて怪しげな精霊に見染められただけだぜ。殺される心配? そんなもん、塵一つ皆無だろ』
「……なら、精霊を殺すってのは……」
『恋心を砕かれる痛みは、殺されるようなもんだろ?』
さっきまでのシリアスな空気などどこ吹く風で、南戸は楽しそうに語った。
『キミは精霊に失恋の痛みを与え、生まれ変わらせるのさ。わざわざドイツからオーストリア、オーストリアから日本までついてきた精霊には気の毒だが、致し方あるまい。ここは心を鬼にして異種族間の恋愛の難しさを思い知らせてやれ。ククク……アタシがその場にいれば、同性愛という精霊には理解できない概念を見せつけることもできたのにな。梔子クンでもできるが、残念ながら梔子クンは喋らねえから今回は諦めてやろう。同性愛を知ったときの精霊の顔が見れないのは残念だが、まあその機会はまたにとっておくか』
半信半疑だったものの、そう南戸に言われて否定する根拠もなく、またそれこそが大筋だと、なんとなく納得させられてしまった。たしかに精霊は澪に危害は加えていない。危害を加えたいのならいつでもやれたはずなのに。
澪はしばらく唖然としていた。
そして南戸の言葉どおり、すぐに戻ってきた精霊の目の前で、俺は疑心暗鬼になりながらもたった一言「澪=ウィトゲンシュタインは俺の恋人だ」と宣言した。すると、精霊はまるで泣いたかのような低い唸り声をあげながら、黒い姿を溶かして、地面に吸い込まれていった。……あっけない終わりだった。
南戸いわく「精霊は土地の守り神と同じ役割を担っているから、遠く離れた地に長い間滞在することはできない。一年も日本にいたことのほうが奇跡だ。もともとここらで潮時だったんだ。接近してきたのは、一度くらい近づきたかったからなんじゃねえか?」と予測した。精霊が消えたいまとなっては、確かめようのない推察だったが。
あまりにもあっさりとした結末に、わざわざオーストリアから逃げてきた澪は、いかに自分が無為な逃亡をしてきたのかを噛みしめているようだった。哀しんでいるような、でも、悲観しきれずにどこかあきらめたような笑みを浮かべて、精霊が消えた地面を見つめていた。
精霊退治があっけなく終わると、梔子も用が済んだと言わんばかりに俺たちに背を向けた。その背中に声をかける。
「梔子、おまえなんでここにいたんだ? それに、なんで澪の事情を知ってたんだ?」
「…………。」
もちろん梔子は無言だ。その代わりに、電話から声が鳴る。
『ひとつ訊いておこうか久栗クン。キミがもし、自分の知らぬところで他者の人生を左右するような大きな影響を与えていることに気付いたとき、それを自分の罪だとするか?』
「……なんのことだ?」
『仮定の話だ。なんなら逆でも可だぜ。例えば、この梔子クンが無意識にキミの人生を左右するようなことをしでかしたとして、キミはそれを彼女の罪とするか? それとも、そういうものだと受け入れるか?』
「言ってる意味がよくわかんないけど……たぶん、俺なら、受け入れるだろうな。俺は平穏がなにより好きだし、他人を恨むことも怨まれることもごめんだ」
『キミがそのせいで、不利益を被るとしてもか?』
『さあな。でも、梔子は去年、図書室で俺を助けてくれた。そんなやつを恨むなんて不義理なことはするなと、小さい頃から叩きこまれて育ってきたからできねえよ』
すると、梔子が、驚いたような勢いで振り返った。
髪の隙間から覗く大きな目が、俺の視線とぶつかる。
しかし、そこにある感情までは読み取れなかった。
『ならば』
と、南戸は嗤う。
『梔子クンはキミを助けてくれるだろう。キミが望むときに、キミが望むタイミングで。今回がそうだったように、これからも。キミが望む限りな』
意味深な言葉をつぶやいた南戸だったが、その言葉が終わらないうちに、梔子は乱暴に電話の電源を切った。そのまま梔子はすたすたと歩いていき、建物の角を曲がり姿を消した。けっきょく梔子がそこにいた理由はわからなかった。
釈然としなかったが、とにかく、梔子と謎の女――南戸に救われたのは事実だった。
振り返ると、澪が膝を抱えて座っていた。
その瞳にはどこか哀愁のような憂いが混じっていた。寂しそうなその視線に、躊躇いがちに声をかける。
「……あの精霊、澪のこと好きだったみたいだけど」
「うん。でもわたしにとって、あの妖精は怖かったから……」
それにしては、精霊が消えた地面を寂しそうに見つめていた。
やけに切なそうな顔を見てられなくて、訊く。
「……日本に来たことが無駄になったこと、悲しいのか?」
「ううん。インスブルックも好きだけど、日本も好きだよ。みんな優しいし、楽しいし、ツムギくんだってわたしを守ろうとしてくれたしね。だから悲しいんじゃないの。寂しいんじゃないの」
澪は膝を抱えたまま、俺を見上げて言った。
「……なまえ……」
「え?」
「妖精さんの名前、訊けばよかったかなって。怖かったし、ほんとうに殺されるかと思ったけど……でも、わたし、妖精さんの名前くらい訊いてもよかったんじゃないかって。湖の名前は知ってるけど、妖精さんの名前は知らなかったから。それも訊くことなく消えちゃって、ちょっと、残念だったな」
名前。それは澪にとってのこだわりなのだろう。
「ツムギくん、ほんとうにありがとね。さっきの電話のひとも、知らないひとだけど助けてくれたし。同じクラスの……梔子さんだっけ? あの子も手伝ってくれたみたいだし。またあした、お礼いわなきゃだね」
と。ようやく澪はそこで立ち上がった。どうやら表情に活力が戻ったみたいで、またもや無駄なほど爽やかな笑みを浮かべて、
「そうだ! お礼! ねえツムギくん、お礼したいんだけど、どうすればいいかな?」
「お礼?」
「うん。助けてくれたお礼! わたし、すごく嬉しかったよ。わたしを守ろうとして、妖精さんと睨み合ったときとかすごくカッコ良かった!」
そんな褒め言葉、停滞主義の俺には似合わないにもほどがある。
しかしお礼か。貰えるものなら遠慮することもない。俺は義理にはうるさく育てられたので、義理を返そうとしてくるやつを拒むこともない。
「なにかお礼、したいんだけど、なにがいい?」
「そうだな」
と答えようとしたとき、俺の腹がぐうっと鳴った。
俺の代わりに胃袋が返事してくれた。そういえばとっくに昼飯の時間だ。
その虫の声を聴いた澪は、嬉しそうに両手を合わせた。
「じゃあ、なにか御馳走するね! わたしもお腹すいたし美味しいものつくってあげるよ」
……手料理か。それも悪くない。平和な響きだ。
俺は首肯して、自転車を動かす。後ろの荷台に澪を乗せて、駐車場から走り去る。
こうして精霊につきまとわれていた転校生との思わぬ一日が、幕を閉じる――――
――――そうは問屋が卸さなかった。
現実は小説よりも突拍子もないものだというのが、俺の所感だ。俺は理論派の小説が好きで、不条理系は認めていないし、俺の部屋の本棚にあるミステリはすべて『トリックよりロジック』がありありと写し出された作品たちだ。その現実よりも推敲され洗練された文章は、あきらかに現実よりも現実めいている。
ならば現実とはなにか。
神だとか精霊だとか、そんなものはあくまで現実のなかの例外だ。そんなものよりももっと不可解で不可思議で非可思議なものがある。
人間。
俺は、どうやら他人を見る目がないらしい。
それを思い知らされたのは、澪=ウィトゲンシュタインが料理を振る舞ってくれるということで招待された、澪のワンルームマンションだった。
てっきり親と共に日本に来たのかと思っていたが、どうやら澪はふつうに留学生としての奨学制度を使っているようだった。澪はむこうで成績優秀な高校生だったらしく、白と桃色を基調にした女の子らしい部屋の隅には、オーストリアで貰った賞状や、いろいろな資格証明証などが飾られていた。ドイツ語で書かれてあるので読めないけど。
白い木枠のベッドと、ハート形の薄桃色の絨毯。部屋の隅には勉強机と本棚、中央にはふたりがけのテーブルと椅子。あまりスペースはないものの、ひとり暮らしにしては快適そうな城だった。もし俺がここに住めば十年は出たくなくなるに違いない。手の届く範囲に冷蔵庫まである。平穏に過ごすにはもってこいだ。
初めて同世代の女子の部屋に入ったが、それほど緊張したりはしなかった。澪のことなんて会ったばかりで詳しく知っているわけではないので、家に邪魔したからといってなにがあるわけでもない。ただ飯を食いに来ただけだ。理論武装とかどうとかではなく(そういえば理論は武装するものじゃなかったっけ)気分は落ちついていた。
澪は、廊下に備えつけのキッチンで料理をしている。オーストリアの郷土料理を振る舞ってくれるらしい。日本という国は便利で、大型のスーパーに行けばたいていの国の料理を作る準備が整う。日本人が雑食だというだけだけど、澪は喜んでいた。
手持無沙汰になった俺は、小さめの椅子に座ったまま、テーブルに頬杖をついていた。ひとり暮らしのワンルームにテーブルとは少し違和感だが、オーストリアに卓袱台やこたつがあるとは思えない。それに俺も、飯を食うならテーブル派だ。それにテーブルクロスに白熊の絵が刺繍されていて可愛い。
あまり観察するのもどうかと思ったが、とにかくやることがない。漫画を勝手に読むのは躊躇われるし、なにより澪が持っているのは小学生向けの漫画ばかりだった。なるほど喋るのはまだしも、読み書きの日本語には慣れていないのか。
退屈にそんな分析をしていると、いきなり、ケータイが鳴った。
すぐに取り出す。知らない番号からの着信。
まあどうせやることもないし。
もしもし、と言う前に、そいつは甘ったるい声を挙げた。
『ひとつ言伝があるぜ久栗クン』
「…………南戸か」
『南戸サン、とでも呼んで貰いたいね。年上を無条件で敬うのが日本の慣習だろう。素晴らしいことじゃあないか。年功序列万歳』
「なんの用だ? なんで俺のケータイ番号を知ってる?」
『さあて、本題に入ろう』と南戸は堂々と話を逸らした。『本題と謂えど、たいした用向きじゃあないぜ。キミの耳には少々痛いかもしれないが、梔子クンが警戒していたことにアタシも拘泥しちまったからな。忠告だ』
胡散臭いやつだ。だが俺のケータイ番号なんて調べればすぐにわかるだろう。それよりもなぜ電話をかけてくる必要があったのかが気になって、耳を傾けた。
南戸は享楽主義者かと思うくらいの軽い口調で、
『そこに、さっきの少女、澪=ウィトゲンシュタインはいるかい?』
「ああ。ちょっと離れてるけど」
『離れているなら問題無い。心して聴いてくれ少年』
なんか嫌な予感がした。
『梔子クンが気にしていたからな、少し調べてみたんだが……いやはや、見事なまでに騙されたぜ。もっともそんな構造になっているという発想自体、常軌的な思考じゃないんだがね。梔子クンもさすがだな。よく気付いた』
「……騙されたって?」
『ああ。彼女――澪=ウィトゲンシュタインはな、ストーカーだ』
さらりと、そんなことを言ってのける南戸。
『梔子クンが怪しいと思ったのは、彼女が転校してキミに話しかけた最初のひとことだったらしい。彼女はすでにキミの名前を知っていたそうだな。覚えてないか?』
そういえば、俺が名乗る前に、俺の名前を呼んだ気もするが。
『もちろんキミのストーカーというわけではない。キミの名前を知っていたのは、彼女のストーカー気質の一環だ。もののついで。おそらく彼女は、キミの学校の全生徒の顔と名前を把握しているだろう。それくらいのことは軽々とするような子だったらしい』
「……調べたっていうのか?」
『ネットは怖いものだぜ久栗くん。世界中の情報が、キーボードを打つだけで手もとに入ってくる。アタシは機械文明が好きじゃあねえが、どちらかと言えば得意だ。とにかく、アタシはいましがた澪=ウィトゲンシュタインのオーストリア時代のことを調べた。ざっくばらんに、だが、見当違いではないだろう。そこで見つけたのは、彼女がドイツ旅行に行ったときの行動のログだ』
「……ログ?」
『ああ。彼女は友人数名と旅行に行っているが、友人が写真付きのブログで一挙一動を報告してくれていた。その旅行に行く直前の、澪=ウィトゲンシュタインに対する疑惑も載せていた。それを見るに、どうやら彼女には……』
と。南戸は少しだけ言葉を濁して、
『……興味の対象は〝徹底的に調査しなければならない〟という強迫観念みたいなもんがあるらしいんだぜ』
「?」
『理解しがたいか? つまり、彼女は行く先々のことをストーカーのように調べ、旅行に行く以前にまず調査に赴き、ゴミ箱の中まで徹底的に調べないと気が済まない。ドイツの湖のことも随分と執心深く調べていたそうだ。ただの旅行のまえに三度も下見にいくなんてことをしてのけた彼女を、友人は面白がっていたようだぜ。そこでなにを成し精霊に恨まれると勘違いするような被害妄想をしたかは想像の域を出ないので、ここでは語るまいが……。しかし彼女はまごうことなくストーカー気質だ。特定の人物ではなく、関心があるもの全てに対してのストーキングとインベスティゲーションを行う。どうやら親しい友人数人だけはそのことを知っていて、彼女の病気のようなものだと認識していたようだが……アタシが思うに、その根底はただの強迫観念よりも醜悪で怖ろしい。なぜなら彼女は、その性癖をコントロールしているからだ。周囲にばれないように、自制心で以って抑圧している。理性の強いストーカーほど厄介なやつはいねえ。……気をつけるべきだぜ久栗クン。彼女はおそらく今日のことで、キミに対してただのクラスメイトよりは関心を持ってしまったからな』
もし南戸が言っていることがすべて事実なら、その言わんとすることも理解できる。
その予測を南戸が代弁する。
『おそらくこの先、キミが捨てるゴミひとつが、彼女の調査対象に成りえるということだ。彼女はストーカー精霊の被害者だが、それ以前にストーカーの被疑者に成りえる。幸いなことに、彼女が興味の対象にしているのはいままで場所や歴史だけで、人間はまだいないらしいが……それも時間の問題だとアタシは見てる』
南戸は一呼吸おいてから笑った。
『ま、見てる分には、面白そうだが』
「…………。」
『ともあれ梔子クンが推理したので忠告しておこう。これもなにかの縁だ、久栗クン。キミも澪=ウィトゲンシュタインと関わるのなら、重々気をつけたほうが――』
と、そのとき、廊下のドアが開いて、エプロン姿の澪が顔をのぞかせる。
ニコニコと笑顔で、
「ごめんね、もうすぐできるから……あ、ごめんね電話中だった?」
そう言って、そのまま廊下に引っ込む――
――そうするのが、ふつうの反応だが。
しかし澪は違った。小声になり、
「……誰と? なにを話してるの? ツムギくんって、どういう話するの?」
ニコニコニコニコ……無邪気に訊いてくる。俺はとっさに電話を切っていた。
他人の電話の相手やその内容なんて、ふつう気にしない。というよりは気にしても訊くことはない。それが常識だ。
南戸の忠告が頭をよぎった。俺は慌てて話を逸らす。
「いや、なんでもない。それより腹減った……なにが出てくるか楽しみだな」
「あはは。そう? 期待していいからね!」
そう言って廊下に戻った澪の視線が、扉が閉まる瞬間まで、俺の手のなかのケータイ電話に注がれていたのを、俺は間違いなく見た。
すぐさまケータイにロックをかけ、ポケットにしまう。
背中に冷や汗が流れた。
南戸の言ったことが全て真実とは限らない。解釈は人によって変わってくる。澪がストーカー気質だということが本当だとしても、そのまま俺にそれをあてはめることになるかはまだわからないが……嫌な予感しかしなかった。
身震いする。
俺はそのとき澪に対して〝理屈じゃねじ伏せられない恐怖〟を感じた。




