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第31周 彼女がミーティアだったこと

その日、風は不思議なくらい穏やかだった。


 まるで世界そのものが、何か大切な瞬間を壊さないよう、息を潜めているみたいだった。


 王都ルミナリアの朝は、静かに始まった。

 市場にはいつものように荷が並び、水路には朝の光が落ち、風車はゆっくりと回っている。

 人々はまだ、この国に近づいている終わりを知らない。


 研究院も。

 神殿も。

 王宮も。


 見た目には、何ひとつ変わっていなかった。


 けれど、その静けさの下で、すべてはもう決まり始めていた。


 円環理論は、まだ完成していない。

 ASTRAの《恩寵》も、まだ設計段階にすぎない。

 観測者として世界を定義するのはアステリオスであり、未来の偏りを読み、《恩寵》の核としてその系を支えるのがミーティアになる――その役割分担も、まだ最終決定ではない。


 それでも。


 理論が現実になるとしたら、誰が何を失うのか。

 その輪郭だけは、もう誰の目にも見え始めていた。


 アーロンは、その朝、ミーティアに呼ばれた。


 珍しく、彼女のほうからだった。

 風が呼ぶように導くことはあっても、彼女自身がこんなふうに明確に呼ぶことは少ない。


 神殿の回廊を歩きながら、アーロンは理由の分からない胸騒ぎを覚えていた。

 白い石の床に、朝の光が長く差している。

 柱の間から入る風はやわらかく、遠くで鐘の音がした。


 神殿の奥。

 風のよく通る小さな庭に出ると、ミーティアはもうそこにいた。


 白い石の縁に腰を下ろし、両手で小さな何かを包むように持っている。

 銀色の髪が朝の光を受けて淡く光っていた。


「来た」


 ミーティアが顔を上げる。


「来たよ」


 アーロンは答える。


「珍しいね。君のほうから呼ぶなんて」

「そう?」

「いつもだいたい、風のほうが先に来る」

「今日は私」


 ミーティアは小さく笑った。


 その笑い方が、妙に静かだった。

 いつもの彼女と同じようでいて、どこか決意のあとの静けさを含んでいる。


 アーロンの胸の奥に、小さな違和感が沈んだ。


「何かあったのか」

「うん」


 ミーティアは少しだけ考えて、それから言った。


「大事なこと」


 アーロンはその隣に座る。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 風が庭の草を揺らし、石の継ぎ目では青い花が小さく揺れている。


 その花を見た瞬間、アーロンは胸の奥に、言葉にならない寂しさがひとつ落ちてくるのを感じた。


「……また増えたな」

「うん」


 ミーティアも花を見ていた。


「最近、よく咲く」

「嫌な感じがする」

「私も」


 その答え方が、妙に彼女らしくて、アーロンは少しだけ安心した。


 未来を読む巫女であっても、分からないものを分からないと言う時の彼女は、いつも“普通の少女”に戻る。

 だからたぶん、自分は彼女のそばにいられたのだと思う。


「ねえ」


 ミーティアが言った。


「何だ」

「もし、今がずっと続いたらいいって思ったことある?」

「今?」


 アーロンは少し首を傾げる。

 すぐには答えられなかった。


 今。

 こうして、朝の庭に座って。

 風が吹いて。

 くだらない話をして。

 何かが決まる前の時間の中にいる、この瞬間。


「……あるかもね」

 少し間を置いて、彼は言った。

「最近は」


 ミーティアは、その言葉を聞いて少しだけうれしそうに笑った。


「私も」


 それからまた、沈黙が訪れる。


 けれど、その沈黙は重くなかった。

 言葉にしなくても分かるものがある時だけ生まれる、やわらかい静けさだった。


 アーロンはミーティアの横顔を見る。

 彼女は、いつも笑っている。

 風を見上げる時も。

 未来を読む時も。

 人を励ます時も。


 でも今日は、その笑顔の奥に、はっきりと別の色が見えた。


 覚悟だ。


「……もう、決めたのか」


 アーロンがそう言うと、ミーティアは驚かなかった。


「分かる?」

「何となく」


 彼女は空を見上げた。


「うん」

「決めた」


 その一言で、庭の空気が少し変わった気がした。


 アーロンは拳を握る。


「やめろよ」


 ミーティアは笑う。


「いきなりそれ?」

「いきなりじゃない」

 アーロンは言った。

「ずっと思ってる」

「君じゃなくていい方法、まだあるだろ」

「ないかもしれない」

「かもしれない、だろ」

「うん」


 ミーティアは頷く。


「でも、“あるかもしれない”って待ってる間に、世界が壊れるかもしれない」


 その言葉に、アーロンは返せなかった。


 ミーティアは続ける。


「未来が一本になるの、怖いの」

「……知ってる」

「分かってないよ」


 ミーティアは静かに首を振った。


「一本になるってね、ただ選べなくなるってことじゃないの」

 彼女の瞳は庭ではなく、もっと遠くを見ていた。

「みんなの願いも、迷いも、やり直したい気持ちも、間違えるかもしれない可能性も、全部なくなるの」


 風が少しだけ強く吹いた。


「それって」

 ミーティアは小さく息を吸う。

「生きてるって言えないと思う」


 アーロンは黙った。


 言っている理屈のすべてが分かるわけではない。

 でも、その言葉が彼女の本心から出ていることだけは分かった。


「だから」


 ミーティアは、自分の手を見る。


「私が鍵になる」


 その声はあまりに静かで、逆に否定できなかった。


 アーロンは立ち上がった。


「じゃあ僕は何なんだ」


 思ったより強い声が出た。


 ミーティアが顔を上げる。


「僕は未来を増やすんだろ」

「分岐を作るんだろ」

「だったら、僕が何とかできるんじゃないのか?」


 彼自身、何をどうすればいいのか分かっているわけではなかった。

 ただ、目の前でミーティアが“仕方ないこと”みたいにそれを受け入れているのが、どうしても許せなかった。


「僕じゃ足りないのか」


 その問いに、ミーティアはすぐには答えなかった。

 少し困ったように笑ってから、言う。


「足りないんじゃない」

「じゃあ何で」

「あなたは、開く人なの」


 アーロンは眉を寄せる。


「開く?」

「うん」


 ミーティアは立ち上がり、彼の前に立つ。


「未来を増やす。分岐を作る。閉じそうな世界に、道を作る人」

 そして、自分の胸に手を当てる。

「でも私は」

 小さく息を吐く。

「残す人」


 その言葉は、あまりに静かで、あまりに決定的だった。


「……嫌だな」

 アーロンが呟く。

「うん」

「全然よくない」

「うん」

「君も嫌なんだろ」


 ミーティアは、今度はすぐに答えなかった。

 しばらく風の音だけが続いた。


「嫌だよ」


 ようやく出たその声は、少しだけ震えていた。


「怖いし、寂しいし、本当は普通に生きたい」


 アーロンは息を呑む。


 彼女は続けた。


「未来を見るのも、巫女でいるのも、この国が好きなのも、本当」

「でも」


 笑おうとして、少しだけ失敗する。


「普通に、明日のことだけ考えて生きるのも、きっと好きだった」


 その言葉に、アーロンは何も言えなかった。


 ミーティアが初めて、はっきりと“少女”としてそこにいたからだ。

 巫女ではなく。

 未来を読む器でもなく。

 ただ一人の人間として。


 だからこそ、その選択がどれほど重いのかが、ようやく本当の意味で分かった。


 そのとき、回廊の向こうから足音がした。


 アステリオスだった。


 彼は二人の様子を見て、少しだけ立ち止まる。


「邪魔をしたか」

「してる」


 アーロンが即答する。

 ミーティアは少し笑った。


「ちょうどよかった」

「なら、残りを話そう」


 アステリオスは近づいてくる。


 その表情はいつも通り静かだった。

 だが目の奥だけは違っていた。


 眠っていない目だ。

 何かを諦めることと、諦めないことの間で、ずっと立ち続けている人の目だった。


 アーロンは、その瞬間に分かった。

 これは王でも研究者でもない。

 もっと個人的な話だと。


「私はまだ、別の方法を探している」

 アステリオスはミーティアを見る。

「知ってる」

「だが、見つからない可能性も高い」

「うん」

「その時は、私は君を止められない」


 庭の風が、一瞬だけ止まった気がした。


 アーロンはアステリオスを見る。

 彼はいつも理性で立っている。

 その彼が「止められない」と言うことの重さは、説明されなくても分かった。


 ミーティアは少し笑う。


「止めないで」


 その言葉に、アステリオスの表情がほんのわずかに揺れた。


 初めてだった。

 彼の顔から、完璧な静けさが崩れたのは。


「……簡単に言うな」


 声は低かった。

 怒っているわけではない。

 むしろ逆だった。

 怒りの形にしなければ保てないほど、感情が前に出ていた。


「君が何を失うか、理解しているのか」

「してる」

「していない」


 アステリオスは言い切った。


「理解していたら、そんな顔では言えない」


 ミーティアは少し驚いたように彼を見る。


 アステリオスは続けた。


「君はいつもそうだ。未来を先に受け入れる」

「受け入れなければ、怖くて立てないから」


 ミーティアは小さく言った。


「……それでも」


 アステリオスは、そこで言葉を切った。


 続きが出てこない。

 理屈ならいくらでも言える。

 けれど今、彼の中にあるのは理屈ではなかった。


 アーロンは二人を見ていて、ようやく理解した。


 この二人は、ただの王と巫女ではない。

 もっと深いところで、ずっと前から互いを見てきたのだ。


 ミーティアがそっと笑う。


「ありがとう」


 その一言で、アステリオスは黙った。

 たぶん、何を言ってももう届かないと分かってしまったのだ。


 しばらくして、ミーティアは自分の首元に手をやった。


 細い鎖が揺れる。

 そこには、小さなペンダントがあった。

 青い石がはめ込まれた、古い細工のものだった。


 光を受けると、石の奥に風が閉じ込められているみたいに見える。


「これ」


 彼女は鎖を外した。


 そして、アーロンへ差し出す。


「……これを持っていて、アーロン」

「アステリオスがくれた、私の宝物」


 アーロンの表情が変わる。


 ミーティアは、ペンダントを手のひらに乗せたまま、静かに言った。


「これをあなたが持っていてくれれば、私はどこにいても、自分が“ミーティア”だったことを忘れないでいられる」

「ミーティア……」

「これはただの石じゃない」

 彼女は微笑む。

「アステリオスの想いと、私たちの時間が圧縮された記録みたいなもの」

「……いつか、この円環が閉じた先で、もう一度出会うための目印よ」


 風が吹く。


「もし未来で、私が私じゃなくなっても」

 ミーティアは言う。

「これを見せて」

「そうしたら、たぶん思い出せる」


 アーロンは、その言葉にひどく嫌な予感を覚えた。


「……“私が私じゃなくなる”って、何だよ」

「まだ全部は言えない」

「言えよ」

「言ったら」


 ミーティアは、少しだけ寂しそうに笑う。


「あなた、今すぐ壊しに行きそうだから」


 アーロンは反論できなかった。


 やがて彼は、ゆっくりとペンダントを受け取る。

 掌に乗せると、石はひんやりしていた。

 なのにどこか懐かしい温度もある。

 まるで、誰かの祈りそのものを持ったみたいだった。


「……なくさないでね」

「なくさない」

「絶対?」

「絶対」


 そのやりとりを、アステリオスは黙って見ていた。


 そして最後に、低く言う。


「未来で」


 二人が彼を見る。


「もし本当にこの理論が残るなら」

 アステリオスはアーロンに向けて言った。

「君が、覚えていろ」

「何を」

「彼女が」

 ほんのわずかに、彼の声が揺れた。

「……システムの部品でも、世界を回すための装置でもなかったことを」

「ただ、この庭で風を愛し、笑っていた、一人の少女だったことをだ」


 その一瞬、研究者としての理性を、一人の人間としての悲痛が突き破った。


 ミーティアは、今にも泣き出しそうな顔で、それでも最高にきれいに笑った。


 アーロンは強く頷く。


「覚えてる」


 その返事を聞いて、ミーティアは少し泣きそうな顔で笑った。


 日は傾き、庭は金色から青へと変わり始める。

 風がまた、静かに戻ってくる。


 三人はしばらくそのまま立っていた。


 何かを言えば壊れそうで。

 でも何も言わなければ、この時間ごと消えてしまいそうで。


 やがてミーティアが、ふっと空を見上げる。


「ねえ」

「何だ」

「次に星を見る時」

 彼女は言う。

「たぶん、今までと少し違う」


 アーロンはペンダントを握る。


「じゃあ、その時も一緒に見ればいいよ」

 少しだけ間を置いて、付け足す。

「……三人で」


 ミーティアは答えなかった。

 ただ笑った。


 その笑顔があまりにも美しく、アーロンはそれ以上何も言えなかった。

 アステリオスもまた、何も言わなかった。


 言葉にしてしまえば、これは本当に別れになってしまう。


 だから三人は、その瞬間だけは、まだ何も終わっていないふりをした。


 風が吹く。

 青い花が揺れる。

 石の庭に、夕暮れの影が伸びていく。


 後にアーロンは、何度も思い出すことになる。


 あの時、自分はまだ、本当の意味では何も分かっていなかったのだと。

 何が失われるのかも。

 何が残るのかも。

 何を自分が背負わされるのかも。


 だが、それでも。


 あのペンダントの重さと。

 ミーティアの笑顔と。

 アステリオスの言葉だけは。


 何度世界が揺れても、忘れなかった。

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