裏切りの境界線
誰にでも、見せていない顔があると思います。
完璧な悪人でもなく、かといって清廉潔白でもない。
そんな「どこにでもいる男」が、ほんの少しだけ道を踏み外しそうになる、ある夜の景色を切り取りました。
[まほ]
仕事終わり、食事、ホテル、出してくれるなら
妻が眠っている横で見ていたチャットアプリで、なんの気なしに目に入ってきた、よくある釣りのプロフィールの一文。
丸い枠の中に見える顔が本人かすら怪しい。
業者の可能性もある。
ただ、僕が言うのもなんだが、業者ならもっと誰も疑いようのないような美人の写真を使うのではないだろうか。
というか、業者だったらどうなんだ。無視すればいいだけじゃないか。別に電話番号とかを伝えるわけじゃない。
むしろ業者じゃない可能性もある。
話しかけてみても損はないじゃないか。
そんなことを脳内で何度も繰り返しながら、幾度となくいろんなアカウントに返事が来ないチャットを送りつづけては、「来ないよな。わかってたよ」と、誰にともなく強がっていた。
まほ: こんばんはー!何してる人?てか遅くまで起きてるんだね
驚いた。
返事が来た。
返事って来るんだな。返事を期待して送っておきながら、返ってくると驚く。
いや、まだ業者の可能性も残っている。
こじ: まほさんも!夜ふかし組です
とりあえず質問に答えたか答えてないか微妙な返事を返して様子を見ることにする。
まほ: 夜ふかしっていうか、もう朝だけどねw
業者って「w」とか使うのだろうか。
どうやら奥には本物の人間がいるような気がする。思い込みたいだけだろうか。
まほ: なんでチャットくれたの?
こじ: 食事とかホテルとかお金出したら行ってくれるのかなって思って
まほ: おー、いいよー何駅?
いいのか?
これ犯罪に巻き込まれないだろうか。
年齢は問題なさそうだが、会ったら頬に切傷が入ったごつい男性が出てきたりしないだろうか。
でもそんな雰囲気じゃないし、それならなおさらもっとモデルみたいな人の写真を使うほうが引っかかりやすいだろう。
言い訳しながら、僕は最寄り駅を伝えた。
まほ: 近い近い!いいね!
こじ: じゃあ、火曜の夜で
そこからまほの返事は途切れた。
もう朝方だったので、寝たのだろうと思い、僕も寝ることにした。
***
「お弁当持っていく?」
「うん、ありがとう。助かる」
「こんなのだけどね笑」
妻の方が朝が早い。
出勤時間が僕の方が遅く、僕が起きる頃に妻は出ていくので、寝ぼけ眼で玄関でお見送りする。
妻はお弁当を作ってくれる。
夜ご飯を多めに作っておいて、お弁当箱ではなくタッパに入れてくれる。
妻は「こんなの」と言うが、懐にも優しいし、昼休みに何を食べるか悩まずに済むのもありがたい。
濃いグレーの保冷機能を持ったお弁当バッグに、お菓子の詰め合わせと一緒に入れておいてくれる。
妻を見送ったあと、顔を洗って軽く朝食を食べながらスマホでチャットアプリを開く。
まほからの返事はない。
日曜の深夜というか、月曜の早朝のやりとりだったので、昨日一日返事がなかったことになる。
アカウントはまだ生きているようだ。
火曜、つまり今日の夜だ。彼女と会うことになっている。
とりあえず「おはよう」とだけ送っておいた。
昼休み、お弁当をレンジで温めながらスマホを見ると、どうやら午前中のうちに返事が来ていた。
まほ: おはよう
あいさつだけ。
今日の夜に会う約束をしていたことを彼女は覚えているのだろうか。
でも「覚えてる?」と送るのもなんか恥ずかしい。やりたいだけの男のようじゃないか。
決してそういうことではない。
食事も楽しみなのは嘘ではない。
食事で盛り上がりすぎたら、そこで解散してまた次の機会ということもあり得ると思ってはいる。
決してやりたいだけではない。
謎の葛藤をしながら15分でお弁当を食べ、残りの昼休みも作業にあてる。
残業せずに定時で出るために。
「ごめん、今日はちょっと用事があるから定時で出るね。何かあれば連絡して」
部下にそう告げて、僕はまほとの約束の駅に向かう。
時間に余裕を持って出発できた。
歯磨きもした。
口内消臭のタブレットも買った。
一応ゴムも買っておいた。
まほからの返事はない。
妻には、あらかじめ考えておいた言い訳を送る。
「取引先と盛り上がって急きょ飲みに行くことになったから、夜ご飯はなしでいいよ!寝てていいからね。」
「わかったよー」
いつもどおりの返事、疑われていないはず。
多くを語るとボロが出るので、最小限に。
駅に着いたが、電車と地下鉄の駅が少し離れている。
しかも、改札も複数ある。
まほとすれ違ってしまうことがないよう、場所を決めておくべきだった。
でも、余裕を持って出てきてよかった。
こじ: 地下鉄の中央改札を出たところで待ってるね。濃いめの紺のスーツ、黒のカバンとグレーのお弁当バッグを持ってるよ。
これで場所も間違わないし、すぐに見つけられるはずだ。
いつもカバンに入れてる小説を読んで待つが、内容が頭に入ってこない。
店は予約していないから、時間は問題ない。
だが、あのあいさつ以降、まほからの返事はない。
騙されたのだろうか。遊ばれただけなのだろうか。
そう思い始めたとき、妻からメッセージが届いた。
「夜雨降るみたいだから気をつけてね」
妻は、僕が天気予報を確認しないのを知って教えてくれたのだろう。
ふと、お弁当バッグが目に入った。
「こんなのだけどね笑」と笑う妻の顔が浮かんだ。
まほと食事をするとき、ホテルで肌を重ねるとき、このバッグも同じ空間にある。
このバッグは、僕と妻の「日常」そのものだ。
それを、ラブホテルの安っぽいテーブルの上に置くのか?
自分のしていることの卑しさが、急に僕の体温を奪っていった。
ふと思った。
まだ僕は線は越えていないだろうか。
どこからを裏切りと言うのだろうか。
このことを妻や他人に話すことは絶対にない。
だけど、僕は知っている。僕のことなのだから。
でも、まだ今の段階なら罪悪感を感じずに生きていけるのではないか。
未遂として許してもいいのでは。
こじ: 予定が入ったのかな?難しそうだから帰るね。
そして、僕は妻に早めに帰ることを連絡した。
既読にならないから、きっとソファで毛布にくるまって寝落ちしてるのだろう。
たぶん洗濯機を回したままだろうから、それを干して、タッパを綺麗に洗おう。
週末にビュッフェに行くのもいいかもしれない。
仕事帰りに花を買って帰ると喜ぶかな。
***
翌朝チャットアプリを見ると、深夜にまほから返事が来ていた。
まほ: ほんとごめん、彼氏とけんかしてて返せなかった。また時間作ってくれる?
僕の指は、もうスケジュールアプリをタップしていた。
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