幸福論
「おまえは、俺の言葉一つで濡れるんだな。」
低く囁く声。
その響きだけで、空気が熱を帯びる。
「……だって、あなたが言うことは全部、私の心を撫でるから。」
「撫でる?」
男は微かに笑った。
「俺は叩いてるつもりなんだが。」
「叩かれても、痛くないの。」
「あなたに触れられるなら、それで嬉しい。」
沈黙が落ちる。
互いの呼吸だけが夜を満たす。
男は彼女の頬を指先でなぞり、ゆっくりと囁く。
「そんなふうに言われたら、優しくなんてできなくなる。」
「優しくなくていい。」
彼女は目を閉じて、小さく微笑んだ。
「痛みも、傷も、あなたの温度でしか感じたくないの。」
男はその言葉に息をのむ。
支配するつもりだったはずの手が、今は震えている。
彼女の唇に指を添えて、囁いた。
「……壊しても、離れないでくれるか。」
「壊された方が、あなたのものになれる気がする。」
──愛は、
時に鎖のようで、
時に羽のようだ。
彼の声は、
どちらでもあった。
「俺がいないと、ちゃんと呼吸できないだろ」
そう囁かれるたび、
胸の奥が疼いた。
支配でも命令でもなく、ただ“私”という存在の輪郭を確かめるような声音。
私の中に沈んでいた何かを、そっと撫で起こすような。
彼の指先が触れるたび、
私は自由を奪われていくのに、
不思議と軽くなっていった。
痛みよりも、やさしさの方が深く染みる。
冷たさのあとに残る温度。
叱られた後の静かな抱擁。
――それが彼の「枷」だった。
見えない鎖。
でも確かに私を守っていた。
「逃げてもいいよ」
と笑うくせに、
その目が言っていた。
逃げるな、俺の中にいろ と。
私は頷くことしかできなかった。
それが幸福だったから。
愛されている実感とは、
言葉に縛られることでも、
身体を預けることでもない。
誰かの呼吸の音で、自分の生を思い出す瞬間。
それが、私にとっての自由だった。
そして今でも、夜の静けさの中で
あの声が響く。
「いい子だ。俺のものだ」
その言葉の枷を、
私はまだ外せない。
外したくもない。
――なぜなら、
あの鎖の先にこそ、
愛があったのだから。




