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幸福論

掲載日:2025/10/06



「おまえは、俺の言葉一つで濡れるんだな。」


低く囁く声。

その響きだけで、空気が熱を帯びる。


「……だって、あなたが言うことは全部、私の心を撫でるから。」


「撫でる?」

男は微かに笑った。


「俺は叩いてるつもりなんだが。」


「叩かれても、痛くないの。」


「あなたに触れられるなら、それで嬉しい。」


沈黙が落ちる。

互いの呼吸だけが夜を満たす。


男は彼女の頬を指先でなぞり、ゆっくりと囁く。

「そんなふうに言われたら、優しくなんてできなくなる。」


「優しくなくていい。」

彼女は目を閉じて、小さく微笑んだ。

「痛みも、傷も、あなたの温度でしか感じたくないの。」


男はその言葉に息をのむ。

支配するつもりだったはずの手が、今は震えている。


彼女の唇に指を添えて、囁いた。

「……壊しても、離れないでくれるか。」


「壊された方が、あなたのものになれる気がする。」




──愛は、

時に鎖のようで、

時に羽のようだ。


彼の声は、

どちらでもあった。


「俺がいないと、ちゃんと呼吸できないだろ」

そう囁かれるたび、

胸の奥が疼いた。


支配でも命令でもなく、ただ“私”という存在の輪郭を確かめるような声音。


私の中に沈んでいた何かを、そっと撫で起こすような。


彼の指先が触れるたび、

私は自由を奪われていくのに、

不思議と軽くなっていった。


痛みよりも、やさしさの方が深く染みる。

冷たさのあとに残る温度。

叱られた後の静かな抱擁。


――それが彼の「枷」だった。


見えない鎖。

でも確かに私を守っていた。


「逃げてもいいよ」

と笑うくせに、

その目が言っていた。


逃げるな、俺の中にいろ と。


私は頷くことしかできなかった。


それが幸福だったから。


愛されている実感とは、

言葉に縛られることでも、

身体を預けることでもない。


誰かの呼吸の音で、自分の生を思い出す瞬間。


それが、私にとっての自由だった。


そして今でも、夜の静けさの中で

あの声が響く。


「いい子だ。俺のものだ」


その言葉の枷を、

私はまだ外せない。

外したくもない。


――なぜなら、

あの鎖の先にこそ、

愛があったのだから。





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